第八十九話:心と斧と入り身突き
耳障りなガラスを引っ掻くような音が森に響く、一瞬糸と糸が絡みあい、張り合う。
キシキシという音がして均衡したのは一瞬ですぐにフクの糸が断ち切られた。
「柔い糸ねぇ。このままバラバラにしてあげる」
首を傾げニタニタとテオドラは笑う、その金色の長髪を身体に流し、昆虫を思わせる外皮で手を覆っている。下半身の部分は白と黒の線が複雑に絡みあっており、その八本の脚は細く、本当に動けるのか疑問に思うほど機能性を捨てしまっているような造形美であった。
人が見れば歪極まりないその姿だが、その異様さすら塗りつぶすほどの魅力がその体からは発せられている。仮に討伐の為に冒険者が正面に立ったとしてその美しさに棒立ちしたという話をしても疑問には思わないだろう。
だがフクは蜘蛛の魔物であり、同種の頂点に立つテオドラを見ても餌としか思わない。
それは、生まれた瞬間に親に食われるという経験に疑問すらもたない蜘蛛の価値観だった。
(やっぱり、強いナー)
無残に切り裂かれた自分の糸を他人事のようにいうその姿にテオドラは神経を逆なでされたように怒りを覚え笑みを引っ込める。この距離で見て、実際に糸を合わせてみてわかったことはこの蜘蛛の魔物は自分より弱いということだった。圧倒的ではない、だが確実に自分の方が強い、それなのになぜこいつは余裕なのか。
「いつまで、その余裕が持つかしらっ!」
声を荒げ、逃げられないように周囲の糸の張りを強め逃げ道を狭めてから必殺の糸を放った。
キィイイイイイイン
甲高い音が夜の森に響き、糸に触れた木々がバターのように切断される。
糸で受けるのは難しいと判断したフクは体を最も小さい状態にして糸を躱していく。
当初フクはテオドラに対し、他のアラクネを襲ったときのように奇襲をしかけるつもりでいた。
しかし、近づくにつれてそれが難しいことであると感じる。
テオドラが周囲に張り巡らせた糸は森の端に張られた糸とはまるで練度が違い、かいくぐり攻撃を仕掛けることはできなかった。
かといって正面から立ち向かって勝てるだろうか? それも難しい。
だがあえてフクは正面から立ち向かう選択をとった。愚かな選択だと自覚している。
しかし、あのマスターと共に戦ってきたフクにとって格上と戦うことは初めてではなかった。
ギース、ダンジョンの猿、ラッチモ、不器用なクセにいつだって全力で戦うマスターの姿を見ていたから、フクは立ち向かうことに抵抗はなかった。
だから、自分の糸が強度で負けることも、追い詰められることも想定内だった。
(でも、さすがに、つらいナー)
テオドラに聞こえない程度にゴチる。ハッタリをかまして余裕があるようにしているが、戦局は一方的に追い詰められている。周囲の糸はいずれフクの退路を塞ぎ、あの良くわからない、なんでもかんでも切る糸が当たれば終わりだ。
それでもフクは、耐えることにした。それしかできない状況であるだけだったが、その状況に絶望もなかった。
『もう駄目だって思ったことは何度もあります。でも私はお婆さんの為にせめて自分で死ぬことは止めようって思ったんです。そうしたらご主人様にお会いできました』
かつて、オークデンの牢獄に居た時。まだ呪いが解け切っていないファスが自分を撫でながらそう言ったことがある。
生まれた瞬間から生きることに挑み続けてきた彼女の言葉がフクを支える。
決して諦めず、その機会を待つ、ある意味それも狩人としての蜘蛛の一面に即しているのかもしれない。
そしてフクの粘りは数時間にも及び、テオドラの想定を大きく超えて見せた。
反撃すらせず、ひたすらに回避に徹するフクにテオドラはイライラを募らせる。
【切断糸】に【邪視】【毒霧】【魅了】と複数のスキルを使ってもまだあの子蜘蛛を仕留めきれない。
後一歩の所でギリギリで躱される。攻撃を誘導されているような気すらしていた。
【魅了】による支配も【毒霧】も効かず、【邪視】による呪いすら弾かれる。
巣を狭め徐々に退路を塞いでいるが、空が白んでいるのに、いつまでこの攻防を続けていればいいのか……。
このままでは、あの御方の遊びにまで迷惑がかかってしまう。
できることなら一人で倒したかったが、手段を選ぶ余裕がテオドラになくなっていた。
「もういいわ、飽きた」
テオドラがその猛攻を止める。そして体から【毒霧】とはまた別の霧のような体液を振りまいた。
(なにそれ?)
体のいたるところに小さな傷がついていながらも、声(念話)の調子を崩さずフクが尋ねる。
テオドラは人間の死体でできた山にもたれかかり、気だるそうにその死体を食み血がついたその指を蠱惑的な動作で舐める。
「ペロ……私が直接殺そうと思っていたけれど、貴方ちっとも攻めてこないしつまらない。だから他の相手に任せるわ。私のほうが強いことはわかったしね」
(どゆこと?)
フクの問いの答えは背後から返って来た。重たい足音が聞こえ振り返ると斧を持ったサイクロプスが斧を叩きつけて来た。
(わっと)
おそらくはスキルを伴った重たい一撃を飛び跳ねて躱すと、宙に浮いたフクに矢が飛んでくる。
体を捻り辛うじて躱し、確認するとコボルトの群れが湧いていた。
周囲から唸り声が聞こえる。
(なるほどー)
魔物達は一様に焦点が定まっておらず、見るからに操られている。
森の中で糸に巻かれていた魔物はつまりこういう風に使われる予定で囚われていたのだろう。
「質の良い人間を誘い込むための餌よ、なんだったかしら? 『ゆにーく』とか人間が呼んでいる子達ね」
(ひきょうだー、群れなんて捨ててかかってこーい)
糸で魔物の群れを牽制しつつ、フクが念話を飛ばすと、【切断糸】による回答が返ってきた。
テオドラは気怠そうに片手を振るだけで、数本の糸が蠢き、フクの糸を魔物の群れごと切り伏せる。
サイクロプスが縦に切り裂かれ左右に倒れ、音が響く。
「お黙りなさい。私は用事があるの、いつまでも貴方のような小娘に付き合うほど暇じゃないわ」
そういいながらテオドラはフクを観察する。同じ魔王種なら魔物の群れを利用されるかとも思ったが、そうではないようだ。普通ではない、だが私ほど特別でもない、警戒しすぎてしまった。
森から避難させたアラクネ達も呼び戻して物量で殺すのが楽そうだ。
そう思い、新たな指示を出す為に連絡用の糸に指示を送る。
その一瞬が分水嶺だった。
魔物の群れに自分の糸による防御、その二つを過信し戦闘中に意識を逸らしてしまった。
その一瞬を逃すフクではなかった。
体を大きくし、2メートル強の体躯となりその大きな足を使い最高速でテオドラに接近する。
「無駄よっ!」
テオドラもすぐに対応し、糸による防御を展開するが、展開した先に斧が命中する。
『フクちゃんの糸のおかげで助かったべ、ありがとな』
トアが自分の糸を使って斧を操作したことが脳裏に思い浮かぶ。
サイクロプスの斧に糸を巻つけていたのだ。無論その程度でテオドラの糸は切れない、だが少しだけ衝撃でたわんでしまう。その小さな隙間をフクは無理やりに身体を通した。
だが、糸による防御を突破した先に【切断糸】が走ってくる。
フクはその糸を直進するようにフェイントを入れながら斜めに移動して躱す。
「なんだとっ! 小娘ぇえええええええ!」
その動きは、吉井から教わった人間の技。
『いいぞ、フクちゃん。『入り身』のコツはまっすぐ進むように見せかけて斜めに少しだけ進むんだ。敵をギリギリまで引き付けて動くと錯覚させやすいぞ』
(ギリギリまで、引きつけるっ!!)
迫ってくる糸が掠るほどに少しだけ斜めに移動する。八本脚を使った身体操作。
掠った部分から血が吹き出る。しかしそんなこと欠片ほども意に介さず飛び込み、テオドラの腹に牙を突き立てた。
テオドラの血を飲み少しでもそのスキルを【簒奪】する。
「何をする! 離れなさいっ!」
乱雑に払いのけられ、ボトンとフクは地面に落ちる。
そして次の瞬間【切断糸】による追撃が来るが、フクはその攻撃を躱さず動かない。
キィイイイイイイン
糸と糸がもつれ、耳障りな音が再び響き、そして今度は糸が切れなかった。
「!? 小娘っ、何をした」
腹にできた傷を一瞬で治しながらテオドラが問う。
先ほどまで一方的に切り離せていた糸が切れない、しかも【切断糸】を使っているにも拘わらずだ。
(小さな鉤がコツなのかー)
「……何を言っている?」
デオドラの頬に冷や汗が伝う。惚けて見せたがフクの台詞には心当たりがあった。
【切断糸】の切れ味の秘密は『摩擦』にある。【切断糸】は一見するとただの細い糸だが目に見えない程の小さな『鉤』がびっしりとついており、魔力による操作で対象に触れると大きな摩擦を生みだし切断する。
もちろんそれは細緻な糸のコントロールと強度が要求される。そのためテオドラであっても【切断糸】は同時に数本までしか操れない。
その糸の秘密をフクは言い当てたのだ。
なぜ? そしてまさか、今拮抗している子蜘蛛が使っている糸は【切断糸】ではないか?
そんな疑問がテオドラの頭をよぎる。
糸の張り合いが激しさを増し、摩擦の激しい糸は調子はずれの弦楽器のような音を響かせる。
テオドラは心の中で舌打ちをする。なぜこの小蜘蛛が急に【切断糸】を使えるようになったのかはわからないが、この拮抗状態は気に入らない。まるでこの小娘と私が同格のようではないか。
そんなことは許さない。私は特別、余裕で一方的に勝たなくてはならない。
……このまま戦うと無様を晒してしまうかもしれない。
今はまだ負ける気はしないが、このまま直接戦い続けると先ほどのように一撃を貰ってしまうかもしれない。
あの御方が近くにいるというのにそんな真似を晒すわけにはいかなかった。
一騎打ちで余裕綽々で討ち取りたかったが、仕方ない。すでに群れは呼んでいるのだ。
これも私の強さだ。
糸の圧を強め、その場から子蜘蛛が動かないようにする。もちろん糸に魔力を流している自分も自由に動けなくなるが、自分には駒がある。
「雑魚共、この小娘を八つ裂きにしなさいっ!」
背後のユニークモンスター達に指示を出し、子蜘蛛を襲わせる。
数十もの魔物達が一斉に走り出し、そしてフクに攻撃をしかける。
先にコボルト達によって放たれた矢によってフクの身体が貫かれる。
血が噴き出し、糸がわずかに緩む。
「終わりね、おチビちゃん。貴方はそれなりに強かったわよ、でも私は特別な……」
ドカッ
それはフクに向かって突撃している、オークの足が背後からテオドラに当たった音だった。
オークの足には糸が巻き付けられている。その先には木がありしばらく進むと引っかかるようになっていた。
フクはそれを狙ったわけではない。サイクロプスの斧に糸を巻き付けるのと同様に何かの牽制になるかと思い糸をオークに巻き付けていた。その糸が偶然この場で作用し体勢を崩したオークがテオドラの足に当たった。
「えっ?」
崩れた体勢、乱れた魔力。
テオドラの脳裏に様々な考えが浮かぶ、緩んだ子蜘蛛の糸が張りを取り戻し自分の糸を押し返してくる感触。
糸が自分の肩口に食い込んでいく感触。もし自分が魔物の群れなんて使わず当初の予定通りに自らの力だけで戦えていたらどうなったか。
(コロス)
そんな後悔がよぎったときには自分の身体は深く切られ、血が噴き出すのをまるで他人事のように見つめ、首筋に子蜘蛛の牙が突き刺さるのを感じた。
そして最後に愛おしいあの御方のことを思い出しながら、残されたわずかな時間で遊び場を壊さぬようアラクネ達に指示を出し、蜘蛛の女王テオドラはフクに捕食された。
ほどなく、テオドラを食べきったフクは地面に倒れこんだ。数時間にわたる闘いを終え、体力的にも精神的にも限界だった。
魔物の群れはテオドラが倒されると同時にどこかに消えていった。
緊張がゆるみ疲れが噴き出してくる。しかし、フクには一番大事な、するべきことがあった。
ファスに提案されてからずっと目標としていたあるスキルの完成。
そのための最終段階が必要だ。
フクは傷ついた体に鞭を打ち糸を上に吐く、周囲の木々に糸を付け、数時間かけて巨大な糸玉を作り上げた。そしてテオドラが残した糸のネットワークを使って遠くにいるマスターに念話を飛ばす。
(ダイジョブ、マスター、ボク、ガンバッタ、ムカエニ、キテ)
正直届くかどうか微妙なところだったが、マスターならきっと来てくれるはずだ。
疲れのせいで言葉も上手く喋れず、いつもの喋り方になってしまった。もうちょっと喋るのを練習しよう。
目覚めた時にマスターがどんな顔をするのか楽しみだ。
そんなことを考えながら、糸玉の中に入り、フクは眠りについた。
というわけで、フクちゃんVSデオドラさん決着です。
実力的にはデオドラさんの方がまだ強い感じでしたが……フクちゃん恐ろしい子。
次回予告:フクちゃんにあの御方が挨拶するようです。
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