注文の多い小さなお客様
純喫茶レモンには、ときどき不思議なお客様がやってくる。
もちろん、幽霊が紅茶を注文しに来るわけでも、魔法使いが空飛ぶ箒を店先に停めるわけでもない。
ただ、少しだけ変わった注文をする人がいるのだ。
そして、その日のお客様は、これまでで一番小さく、一番注文の多い人物だった。
午後二時。
昼の混雑が落ち着いた店内に、入口のベルが軽やかに鳴り響いた。
「いらっしゃいませ!」
元気よく声を上げた彩音は、入口を見て目を丸くした。
そこに立っていたのは、ランドセルを背負った小さな男の子だった。
背丈は入口のドアノブより少し高いくらい。きちんと揃えられた前髪に、真剣そのものの表情。
男の子は店内をぐるりと見回すと、彩音に向かって言った。
「ここ、紅茶の店?」
「はい! 紅茶専門店の純喫茶レモンです!」
「じゃあ、入る」
「どうぞどうぞ!」
彩音が席へ案内しようとすると、男の子はぴたりと足を止めた。
「ひとつ聞いていい?」
「はい、何でしょう?」
「子どもだけでも入れる?」
「もちろんです!」
「お金、先に払うの?」
「お帰りのときで大丈夫ですよ」
「何分いてもいい?」
「ええと……ほかのお客様のご迷惑にならなければ」
「紅茶って、苦い?」
「種類によりますね!」
「じゃあ――」
男の子は大きく息を吸った。
「この店で、一番大人っぽい紅茶をください!」
彩音の笑顔が固まった。
「……大人っぽい、紅茶?」
「うん。すごく大人っぽいやつ」
「ええと、アールグレイとか……?」
「それ、大人っぽい?」
「とっても!」
「どのくらい?」
「ど、どのくらい……?」
彩音は助けを求めるようにカウンターを振り返った。
そこでは直樹が、磨き終えたティーカップを静かに棚へ戻していた。
「直樹さん! 大人っぽさって、どうやって測るんですか!?」
「……何のお話でしょうか」
直樹は一瞬だけ手を止めた。
その隣で伝票を整理していた渚が、ぼそりと言う。
「彩音の大人っぽさなら、測定不能だと思う」
「渚くん!? 今、私の話じゃないから!」
「分かってる。ついでに言っただけ」
「ついでで傷つけないで!」
男の子は二人のやり取りを見て、少しだけ眉をひそめた。
「この店、大丈夫?」
「大丈夫です!」
彩音は胸を張った。
その声だけは、誰よりも自信に満ちていた。
男の子は窓際の二人掛け席に座った。
ランドセルを隣の椅子に置き、メニューを開く。
しかし、そこに並んでいる紅茶の名前は、彼にとってほとんど外国語だった。
「ダージリン……アッサム……ディンブラ……」
ひとつずつ読み上げながら、男の子は首をかしげる。
「なんか、全部強そう」
「強そう?」
「ゲームの敵みたい」
彩音は思わず吹き出した。
「アッサムは確かに強そうかも!」
「ラスボス?」
「ラスボスは……ダージリンかな?」
「彩音」
いつの間にか後ろに立っていた渚が、冷静に口を挟んだ。
「紅茶で戦わせないで」
「ちょっと想像しただけだよ!」
厨房から顔を出した和子が、楽しそうに笑った。
「あらあら、今日は賑やかねえ。小さなお客様かしら」
「和子さん! この子、一番大人っぽい紅茶が飲みたいんですって!」
「まあ。素敵ねえ」
和子は男の子と目線を合わせるように、少しかがんだ。
「でも、紅茶にはカフェインが入っているものもあるの。大人っぽい気分を楽しみたいなら、カフェインの少ないものや、ミルクをたっぷり入れたものもあるわよ」
「……子ども扱いしてる?」
男の子は不満そうに唇を尖らせた。
和子は困ったように微笑んだ。
「そう聞こえちゃったかしら。ごめんなさいね」
その様子を見ていた直樹が、ゆっくりと席へ近づいた。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
男の子は直樹を見上げた。
「お兄さん、紅茶に詳しい?」
「はい。紅茶を淹れるのが僕の仕事ですから」
「じゃあ、質問」
「どうぞ」
「紅茶って、飲んだら大人になれる?」
直樹はすぐには答えなかった。
少し考えてから、穏やかに微笑む。
「紅茶を飲んだからといって、急に大人にはなれません。でも、大人になった気分を楽しむことはできますよ」
「……ふうん」
「それに、無理に大人になる必要もありません」
「なんで?」
「今しか楽しめないことも、たくさんありますから」
男の子は黙り込んだ。
そして、小さな声で言った。
「でも、今日は大人にならなきゃいけないんだ」
その言葉に、直樹の表情がわずかに変わった。
しかし、理由を尋ねることはしなかった。
「それでしたら、まずは香りを選んでみませんか?」
直樹はカウンターから、茶葉の香りを確かめるための小さな容器をいくつか持ってきた。
男の子はひとつずつ、真剣に香りを嗅いでいく。
「これは?」
「アールグレイです。柑橘系の爽やかな香りが特徴です」
「これは?」
「アッサムです。ミルクとの相性がいい紅茶ですよ」
「これは?」
「カフェインを取り除いたタイプの紅茶です。こちらも香りを楽しめます」
男の子は最後の容器をもう一度嗅いだ。
「……これがいい」
「かしこまりました」
直樹が立ち上がろうとすると、男の子が慌てて呼び止めた。
「あっ、待って!」
「はい?」
「それ、持って帰れる?」
カウンターの上には、白いアザラシのぬいぐるみが座っている。
名前はチャピ。
丸い体に、つぶらな瞳。
どこからどう見ても、ごく普通のぬいぐるみだ。
ただし、店長の円香にだけは、その声が聞こえる。
『円香。あの子、さっきからずっとポケットを気にしてるよ』
レジで書類を確認していた円香は、そっとチャピを見た。
「ポケット?」
『右側。何度も触ってる。大切なものでも入ってるのかな』
円香は何気ないふりをして、男の子へ目を向けた。
確かに、彼は右のポケットに何度も手を入れている。
まるで、何かがなくなっていないか確かめるように。
「……何か事情があるのかな」
『さあね。でも、あんなに真剣な顔で紅茶を選ぶ子どもは珍しい。何か理由があるんじゃない?』
「チャピ、よく見てるね」
『僕は一日中ここに座ってるからね。観察する時間だけは、誰よりもあるんだよ』
「それもそうか」
円香が小さく笑った、そのときだった。
「店長」
背後から渚の声がした。
「……今、誰と話してました?」
「えっ?」
「ぬいぐるみのほう見てましたけど」
「え、ええと……独り言!」
渚は無表情のまま、チャピを見た。
「……そうですか」
そして、何事もなかったように仕事へ戻っていく。
『相変わらず、勘のいい子だね』
「誰のせいで疑われてると思ってるの……」
『僕は何もしてないよ。ただ座ってるだけさ』
円香は小さくため息をついた。
「お持ち帰りでしたら、茶葉をお包みできますよ」
直樹の説明に、男の子の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「はい。ただ、茶葉をご購入いただく形になりますので、お値段が少し変わります」
「……いくら?」
直樹が値段を伝えると、男の子は急に静かになった。
しばらく考えたあと、ポケットから小さな財布を取り出す。
青い布製の、角が少し擦り切れた財布だった。
中から出てきたのは、百円玉が三枚、五十円玉が一枚、十円玉が四枚。
男の子はテーブルの上に硬貨を並べ、指で数え始めた。
「百、二百、三百……三百五十……」
途中で分からなくなったらしく、もう一度最初から数え直す。
彩音は隣でじっと見守っていた。
「三百九十円……」
男の子は顔を上げた。
「これで買える?」
直樹は穏やかに首を横に振った。
「申し訳ありません。少し足りませんね」
「……そっか」
男の子は硬貨をひとつずつ財布に戻した。
さっきまでの生意気な態度は、どこかへ消えていた。
「じゃあ、いいや」
小さな声だった。
彩音は思わず口を開いた。
「ねえ、どうしてそんなに紅茶が欲しいの?」
「……別に」
「誰かへのプレゼント?」
男の子の手が止まった。
「……なんで分かったの」
「だって、飲むんじゃなくて持って帰りたいって言ったから」
男の子はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「お母さん」
彩音はしゃがみ込み、男の子と目を合わせた。
「お母さんに?」
「うん」
「お誕生日?」
男の子は首を横に振った。
「……病院にいる」
彩音の笑顔が、少しだけ静かになった。
「入院してるの?」
「うん」
男の子は財布を握りしめた。
「お母さん、いつも紅茶飲んでたんだ。朝、台所で。いい匂いがしてた」
「うん」
「でも、病院に行ってから、あんまり笑わなくなった」
窓の外を車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。
「だから、紅茶を持っていったら笑うかなって」
彩音は何も言わず、続きを待った。
「お父さんは仕事だし、おばあちゃんには迷惑かけたくないし……」
男の子は唇をぎゅっと結んだ。
「だから、僕が大人にならなきゃって思ったんだ」
その言葉を聞いた彩音は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
この子は、背伸びをしたかったわけじゃない。
大人の真似をしたかったわけでもない。
ただ、大好きなお母さんを笑顔にしたかったのだ。
「……ちょっと待ってて!」
突然、彩音が立ち上がった。
そして、ものすごい勢いで厨房へ駆け込んでいく。
「和子さーん!」
「あら、どうしたの?」
「相談があります!」
「まあまあ、そんなに慌てなくても聞こえるわよ」
彩音は事情を説明した。
和子は静かに頷き、少し考えてから言った。
「紅茶そのものを渡すのが難しいなら、別の形で気持ちを届けるのはどうかしら」
「別の形?」
「そうねえ……お手紙とか」
「お手紙……」
彩音はしばらく考え込んだ。
そして突然、目を輝かせた。
「それです!」
勢いよく厨房を飛び出そうとして、入口の段差につまずく。
「わっ!」
がしゃん、と派手な音がした。
「彩音!」
渚が慌てて振り返る。
幸い、落ちたのは空のトレーだけだった。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫!」
「足元を見て歩いて」
「はい……」
渚はため息をついた。
「で、何を思いついたの?」
彩音はにっこり笑った。
「秘密!」
「……嫌な予感しかしない」
十分後。
男の子の前には、色鉛筆と小さなカードが並べられていた。
「……なにこれ?」
「お母さんにお手紙を書こう!」
彩音は得意げに胸を張った。
「紅茶は飲んでもなくなっちゃうけど、お手紙はずっと残るでしょ?」
「でも……」
「それにね、紅茶の香りを楽しめるカードも作れるんだよ!」
彩音は直樹に目を向けた。
「直樹さん、お願いします!」
「はい。準備できていますよ」
直樹が持ってきたのは、小さな香り袋だった。
中には、香りを楽しむための茶葉が少量入っている。
「こちらは飲むためではなく、香りを楽しむものです。お母様にお渡しする前に、病院の方に持ち込みが可能か確認してくださいね」
男の子は袋をそっと受け取った。
「……いい匂い」
「気に入っていただけましたか?」
「うん」
直樹は微笑んだ。
「それなら、よかったです」
彩音がカードを差し出す。
「さあ! 何を書く?」
男の子は鉛筆を握った。
けれど、なかなか書き始めない。
「……何て書けばいいか分かんない」
「じゃあ、お母さんに一番言いたいことは?」
「……早く帰ってきて」
「うん」
「あと……」
男の子は少しだけ顔を赤くした。
「……大好き」
彩音は微笑んだ。
「それを書こうよ」
男の子はゆっくりと鉛筆を動かした。
何度も消して、何度も書き直して。
ようやく完成したカードには、大きな文字でこう書かれていた。
『おかあさんへ
はやくげんきになってね。
ぼくはちゃんとごはんたべてるよ。
だからしんぱいしないで。
だいすきだよ。』
最後には、小さなティーカップの絵が描かれていた。
少し歪んでいて、持ち手が妙に大きい。
それでも、世界にひとつしかないティーカップだった。
「……できた」
男の子は照れくさそうに笑った。
彩音は大きく頷いた。
「うん! すっごくいい!」
その声に、厨房から和子が顔を出した。
「あら、素敵なお手紙ねえ。きっと喜んでくれると思うわ」
渚もカードを覗き込む。
「……字、丁寧だね」
「ほんと?」
「うん。彩音より上手」
「渚ちゃん!?」
男の子が、初めて声を上げて笑った。
帰る時間になった。
男の子はランドセルを背負い、財布を取り出した。
「……いくら?」
彩音は首を横に振った。
「カードと色鉛筆は、お店にあったものだから大丈夫だよ。香り袋も今日はお店からのプレゼント」
「でも……」
「その代わり、約束してほしいことがあるの」
「なに?」
「お母さんに渡す前に、病院の人に香り袋を持ち込んでいいか聞くこと。それから……」
彩音は少しだけ声を柔らかくした。
「一人で全部頑張ろうとしないこと」
男の子は目を丸くした。
「……なんで?」
「だって、まだ子どもなんだもん」
男の子はむっとした顔をした。
彩音は慌てて手を振る。
「あっ、違う違う! 子どもだからダメって意味じゃなくて!」
少し考えてから、彩音は言った。
「大人だって、一人じゃできないことがいっぱいあるんだよ。私なんて、毎日みんなに助けてもらってるし!」
「それは知ってる」
「えっ!?」
「さっき転んでた」
カウンターの向こうで、渚が小さく吹き出した。
「……よく見てるね」
「渚くん、笑わないで!」
男の子はまた笑った。
それから、彩音をまっすぐ見上げた。
「……ありがとう」
彩音は一瞬、言葉を失った。
そして、いつもの明るい笑顔で答えた。
「どういたしまして!」
男の子は入口へ向かった。
ベルが鳴る直前、くるりと振り返る。
「あのさ!」
「ん?」
「僕、大きくなったら、また来る!」
「うん!」
「そのときは、一番大人っぽい紅茶、飲むから!」
直樹が穏やかに微笑んだ。
「その日を楽しみにお待ちしています」
男の子は満足そうに頷き、店を出ていった。
入口のベルが、からん、と鳴った。
夕方。
純喫茶レモンには、穏やかな時間が戻っていた。
彩音は窓際の席を片づけながら、ふと呟いた。
「……お母さん、喜んでくれるかな」
隣でテーブルを拭いていた渚が答える。
「喜ぶと思う」
「ほんと?」
「うん。あんなに一生懸命書いたんだから」
彩音は少しだけ笑った。
「そっか」
厨房では和子が、焼き上がったばかりのスコーンを並べている。
「子どもって、大人が思っているよりずっと、いろんなことを考えているのよねえ」
直樹はティーポットにお湯を注ぎながら頷いた。
「そうですね。でも、あの子には、もう少し子どもでいてほしい気もします」
「……そうだね」
円香は静かに答えた。
そのとき、カウンターの上から小さな声が聞こえた。
『円香』
「ん?」
『あの子、きっといい大人になるだろうね』
「そうだね」
『もっとも、僕は大人になる予定はないけど』
「どうして?」
『この姿で十分満足してるからさ。働かなくても、毎日紅茶の香りを楽しめる。なかなか悪くない暮らしだろう?』
円香は思わず笑ってしまった。
「確かに、うらやましいかも」
『ただし、ひとつ不満がある』
「なに?」
『誰も僕に紅茶を淹れてくれないこと』
「ぬいぐるみは飲めないでしょ」
『分かってるよ。だから不満なんじゃないか』
円香が笑いをこらえていると、背後から渚の声がした。
「店長」
「は、はい!」
「……また、ぬいぐるみと話してませんでした?」
円香の背筋がぴんと伸びた。
「き、気のせいじゃないかな!」
渚はチャピをじっと見つめる。
「……ふうん」
何かを考えるように首をかしげてから、静かに仕事へ戻っていった。
『あの子、なかなか手強いね』
「チャピが話しかけるからでしょ……」
『僕の声は円香にしか聞こえないんだから、返事をしなければいいのに』
「それができたら苦労しないよ」
『まあ、退屈しなくていいじゃないか』
円香は呆れたように笑った。
カウンターの上で、白いアザラシは何食わぬ顔をして座っている。
窓の外では、夕焼けが街を柔らかく染め始めていた。
今日、純喫茶レモンを訪れた小さなお客様。
彼が持ち帰ったのは、高価な紅茶ではなかった。
小さな香り袋と、少し歪んだティーカップの絵。
そして、誰かを想う気持ちは、背伸びをしなくてもちゃんと届くのだという、小さな発見だった。
純喫茶レモンには、今日も紅茶の香りが満ちている。
明日は、どんなお客様がやってくるのだろう。
それはまだ、誰にも分からない。
――もちろん、カウンターの上の白いアザラシにも。




