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レモンの朝は、少し騒がしい

午前九時。商店街の一角にある純喫茶レモンでは、開店まであと一時間を残して、すでに一日の仕事が始まっていた。


 古い木製の扉には、まだ「CLOSED」の札が掛かっている。


 磨き込まれた窓から差し込む朝の光が、飴色のテーブルを照らしていた。壁に掛けられた時計の秒針が静かに進み、厨房からは包丁がまな板を叩く小気味よい音が聞こえてくる。


 紅茶専門店であるこの店には、コーヒーの香りがない。


 代わりに漂うのは、茶葉の甘く柔らかな香りと、焼きたてのパンの匂いだった。


 店長の円香は、カウンターの内側で売上帳を開いていた。


 昨日の数字を確かめ、仕入れの伝票を整理する。経営者の朝というものは、客が想像するほど優雅ではない。


 とりわけ今日は、朝から小さな問題が続いていた。


 最初の問題は、厨房から聞こえてきた。


「店長さん、ごめんなさいね。卵が少し足りないみたいなの」


 和子が冷蔵庫を覗き込みながら声を掛けた。


 この店の厨房を任されている和子は、いつも穏やかな笑みを浮かべている。料理の腕は確かで、忙しいときほど周囲に気を配る、頼もしい存在だった。


「昨日、二パック届いたはずですけど」


「ええ。でも昨日はたくさん注文が入ったでしょう? 思ったより使ってしまったみたいで」


 昨日は週末だった。昼過ぎから客足が途絶えず、サンドイッチも卵料理も、予定していた数を大幅に上回って売れた。


 喜ばしいことではある。


 ただし、翌朝の卵がなくなるという問題を除けば。


「買ってきます。ほかに足りないものはありますか?」


「ありがとう。もしよかったら、牛乳もお願いできるかしら」


「牛乳もですか?」


「ごめんなさいね。昨日、ミルクティーがよく出たものだから」


 和子は申し訳なさそうに微笑んだ。


 円香は買い物用のメモに二つの品目を書き加えた。


 そこへ、ホールの奥から彩音の声が飛んできた。


「店長! 今度は花瓶です!」


 円香はペンを置いた。


 どうやら今日の朝は、まだ始まったばかりらしい。


 窓際では彩音が、空になった小さな花瓶を両手で抱えていた。その隣で渚が床に散らばった花びらを拾っている。


「割れたの?」


「いえ、割れてません。でも、お花が全部しおれちゃって」


「昨日、水を替えた?」


「替えました!」


 彩音は胸を張った。


 すると渚が、花瓶の底を覗き込みながら静かに口を開いた。


「水、入ってないけど」


「……あれ?」


「替えたつもりになってたんじゃない?」


 彩音の表情がみるみる曇る。


 円香は思わず笑ってしまった。


 彩音は明るく、誰にでも物怖じせず話しかけられる。客からの評判もよく、常連の中には彼女との会話を楽しみに来る人もいるほどだ。


 その一方で、少し慌てん坊なところがある。


 対照的に渚は落ち着いていた。必要なことを必要なだけ話し、周囲をよく見ている。彩音が勢いよく前へ進むなら、渚はその足元に段差がないか確かめる役回りだった。


「お花も買ってきます」


 円香がメモに三つ目の品目を書き加えた、そのときだった。


「店長、少しよろしいですか」


 カウンターの向こうから、穏やかな声がした。


 桜庭直樹だった。


 白いシャツに濃紺のエプロンを身につけた直樹は、紅茶用のポットを手にしていた。店の中がどれほど騒がしくても、彼の動作だけは不思議と変わらない。


「どうしたの?」


「今朝届いた茶葉を確認していたのですが、一つ気になることがありまして」


 直樹は小さな袋をカウンターに置いた。


「注文したものと、違う茶葉が届いています」


「えっ」


 円香は思わず声を上げた。


 卵がない。牛乳も足りない。花はしおれている。


 そして今度は、茶葉まで違う。


 紅茶専門店にとって、これは笑って済ませられる問題ではなかった。


 袋のラベルを確認すると、確かに発注した銘柄とは異なっていた。


「業者さんに連絡してみます」


「お願いします。ただ、こちらの茶葉も品質は悪くありません。試飲してみましたが、香りがとても豊かでした」


「そうなの?」


「ええ。少し渋みが強いので、抽出時間を調整する必要はありますが」


 直樹はそう言って、用意していた小さなカップを差し出した。


 円香はひと口含んだ。


 最初に感じたのは、花を思わせる華やかな香りだった。続いて、舌の奥にほのかな渋みが残る。


 いつもの紅茶とは違う。


 けれど、決して悪くなかった。


「おいしい」


「よかったです」


 直樹は静かに微笑んだ。


 その笑顔を見て、円香は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「円香、朝から災難続きだねえ」


 不意に、すぐそばから声がした。


 円香はカウンターの隅へ視線を向けた。


 そこには、白くて丸いアザラシのぬいぐるみが座っていた。


 名前はチャピ。


 つぶらな黒い目に、小さなひれ。ふっくらとした体は、両手で抱えるのにちょうどいい大きさだった。


 見た目はどこにでもありそうなぬいぐるみだが、一つだけ普通と違うところがある。


 このアザラシ、喋るのである。


 ただし、その声が聞こえるのは円香だけだった。


「チャピ、今ちょっと忙しいの」


「知ってるよ。卵も牛乳もお花もないんでしょ?」


「そうよ。おまけに茶葉まで間違って届いたの」


「でも、紅茶はおいしかったんでしょ?」


「……まあね」


「じゃあ、悪いことばっかりじゃないじゃん」


 円香は思わず口元を緩めた。


「店長?」


 背後から声がして、円香は振り返った。


 渚が不思議そうな顔で立っていた。


「今、誰かと話してました?」


「えっ? いや、別に……」


 渚の視線が、カウンターのぬいぐるみに向かう。


「……もしかして、そのアザラシと?」


「ま、まさか!」


「そうですか」


 渚はそれ以上追及しなかった。


 ただ、立ち去る間際にもう一度だけ、ぬいぐるみを振り返った。


「……店長、たまに会話してますよね」


 円香は返事に困った。


「バレてるよ、円香」


 チャピが楽しそうに言った。


「誰のせいだと思ってるのよ……」


「店長?」


「何でもない!」


 渚は少し首を傾げながら、ホールへ戻っていった。


 チャピは何事もなかったかのように、カウンターの隅に座っている。


 もちろん、ほかのスタッフにとっては、ただのぬいぐるみにすぎない。


 円香は小さくため息をついた。


 この店には、誰にも言えない秘密がある。


 もっとも、その秘密は今日もずいぶんお喋りだった。


     *


 午前十時。


 円香が買い物から戻ると、店内にはすっかり開店準備の整った空気が流れていた。


 新しい花が窓際を彩り、厨房からは焼き上がったばかりのスコーンの香りが漂っている。


 彩音が入口の札を「OPEN」に裏返した。


 その直後だった。


 扉の向こうで、小さな鈴が鳴った。


 最初の客は、見慣れない年配の女性だった。


 薄い藤色のカーディガンを羽織り、両手で古びたハンドバッグを抱えている。店内に一歩足を踏み入れたものの、どこか迷っているように立ち止まった。


「いらっしゃいませ」


 円香が声を掛けると、女性はゆっくりと顔を上げた。


「あの……こちら、昔から喫茶店でしたか?」


「はい。以前からこの場所で営業しています」


「そうですか」


 女性は店内を見回した。


 壁の時計、窓際のテーブル、奥のカウンター。


 その視線は、何かを確かめるようにゆっくりと動いていた。


「少し、座ってもよろしいでしょうか」


「もちろんです。お好きなお席へどうぞ」


 女性が選んだのは、窓際の二人掛けの席だった。


 彩音がメニューを運ぶ。


 けれど女性は、メニューを開こうとしなかった。


「昔、ここで飲んだ紅茶を、もう一度飲みたくて」


 その言葉に、円香は手を止めた。


 女性は窓の外へ目を向けたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。


 若い頃、夫とよくこの店に通っていたこと。


 休日になると二人で商店街を歩き、買い物の帰りに紅茶を飲むのが楽しみだったこと。


 夫はいつも同じ席に座り、同じ紅茶を注文していたこと。


「もう、ずいぶん前のことなんですけどね」


 女性は小さく笑った。


「主人が亡くなってから、ここへ来ることもなくなってしまって」


 円香は黙って耳を傾けた。


 女性の目は、向かい側の空席に向けられていた。


「昨日、古いアルバムを整理していたら、この店の前で撮った写真が出てきたんです。それを見たら、どうしても来たくなってしまって」


「そうだったんですね」


「でも、何を飲んでいたのか、名前が思い出せなくて」


 女性は申し訳なさそうに笑った。


「困ったお客でしょう?」


「いいえ」


 円香は首を横に振った。


「少し、お待ちいただけますか」


 そう告げて、カウンターへ戻った。


 直樹がこちらを見ていた。


 女性の話は、彼にも聞こえていたらしい。


「何か心当たりはある?」


「銘柄を特定するのは難しいですね。当時のメニューも、今とは違うでしょうから」


「そうだよね」


「ただ、一つ試してみたいことがあります」


 直樹は茶葉の缶を手に取った。


「昔ながらの、飾り気のないミルクティーです。特別な茶葉ではなく、毎日飲んでも飽きないような一杯を」


 円香は女性の席を振り返った。


 窓から差し込む光の中で、女性は静かに外を眺めている。


「お願いできる?」


「もちろんです」


 直樹は湯を沸かし始めた。


 ポットを温め、茶葉を量る。


 沸きたての湯を注ぐと、茶葉がゆっくりと広がっていった。


 その様子を、チャピがカウンターの隅から眺めていた。


「円香、あのおばあちゃん、寂しそうだね」


「……そうね」


「でも、ここに来てくれたんだよね」


「うん」


「だったら、来てよかったって思ってもらいたいね」


 円香はチャピを見つめた。


 小さなアザラシは、いつもと変わらない顔をしている。


 けれど、その言葉は不思議と胸に残った。


 厨房では和子が焼きたてのスコーンを皿に載せていた。


「店長さん、よかったらこちらも添えてあげて。きっと喜んでくださると思うわ」


「でも、注文は……」


「今日は私からの、ちょっとした気持ちよ」


 和子は優しく微笑んだ。


 円香は礼を言って、皿を受け取った。


     *


 しばらくして、女性の前に一杯のミルクティーが置かれた。


 白いカップの中で、淡い琥珀色が柔らかく揺れている。


「お待たせしました」


 女性はカップを両手で包み込むように持ち上げた。


 ゆっくりと口をつける。


 そして、しばらく何も言わなかった。


 円香は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。


 やがて女性が、静かにカップを置いた。


「……懐かしい」


 かすれた声だった。


「主人ね、いつもミルクを入れすぎるんです。せっかくの紅茶なのに、真っ白になるくらい」


 女性は笑った。


 目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「私はそのたびに、紅茶の味が分からなくなるでしょうって怒って。でも主人は、これが好きなんだから仕方ないって」


 向かい側の空席を見つめる。


「何十年も一緒にいたのに、そんなくだらないことばかり思い出すんですね」


 円香は静かに答えた。


「きっと、そういう時間が幸せだったんですね」


 女性は何度も頷いた。


 やがて、カップに少しだけミルクを足した。


「今日は、主人の飲み方にしてみます」


 ひと口飲んで、また笑った。


「あら。本当に紅茶の味が分からないわ」


 その言葉に、円香もつられて笑ってしまった。


 女性はスコーンを一つ食べ、紅茶を最後まで飲み干した。


 帰り際、入口で振り返る。


「また来てもいいかしら」


「もちろんです」


「今度は、私の好きな紅茶を探してみたいわ」


 円香は笑顔で頷いた。


「お待ちしています」


 扉が閉まると、小さな鈴が澄んだ音を立てた。


 窓際の席には、空になったカップが一つ残されていた。


     *


 午後の営業が落ち着いた頃、彩音が窓際のテーブルを拭きながら呟いた。


「なんだか、いいお話でしたね」


「そうだね」


 円香が答えると、渚も小さく頷いた。


「また来てくれるといいですね」


「きっと来てくださるわ」


 厨房から和子の声が聞こえた。


「スコーンもおいしそうに召し上がっていたもの」


「和子さん、そこですか?」


 彩音が笑う。


「ふふ。おいしいものを食べると、少し元気になれるでしょう?」


 和子はそう言って、次の仕込みに取り掛かった。


 直樹はカウンターの内側で、洗い終えたティーカップを一つずつ棚に戻していた。


「店長」


「なに?」


「今朝の茶葉ですが、業者さんから連絡がありました。明日、正しいものを届けてくださるそうです」


「よかった」


「それと、間違って届いた茶葉は、そのまま使っていただいて構わないとのことでした」


「そうなんだ」


 円香は朝に飲んだ紅茶を思い出した。


 華やかな香りと、少し強い渋み。


 予定外に届いた茶葉だったが、あの一杯にも確かな魅力があった。


「せっかくだから、新しいメニューを考えてみようか」


「いいですね。試作なら、僕もお手伝いします」


 直樹が微笑む。


「円香、チャピもお手伝いする!」


 カウンターの隅から元気な声がした。


「チャピは何をするの?」


「応援!」


「それ、いつもと同じじゃない」


「応援だって大事なお仕事だよ!」


 円香は思わず笑った。


「……店長?」


 振り返ると、渚がこちらを見ていた。


「また、アザラシと話してませんでした?」


「き、気のせいよ」


「……そうですか」


 渚は納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。


「円香、渚ちゃん、絶対気づいてるよ」


「だから、静かにしてってば……」


「店長?」


「何でもない!」


 彩音が不思議そうに二人を見比べ、直樹は穏やかに微笑んでいた。


 厨房からは和子の鼻歌が聞こえてくる。


 円香は店内を見渡した。


 窓際には新しい花が飾られている。


 朝は卵が足りず、花がしおれ、茶葉まで間違って届いた。


 それでも、今日という一日は悪くなかった。


 むしろ、少しだけいい日だったのかもしれない。


 この店を訪れる人には、それぞれの事情がある。


 楽しいことがあった人も、悲しいことを抱えた人もいる。


 誰かと話したい人もいれば、ただ静かに過ごしたい人もいる。


 そのすべてを解決することなど、きっとできない。


 けれど、温かい紅茶を一杯用意することならできる。


 それが、この店にできる精いっぱいのことだった。


 午後三時。


 再び入口の鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 円香は顔を上げた。


 カウンターの隅では、白いアザラシのぬいぐるみが、いつものようにちょこんと座っている。


 誰も知らない、小さな秘密を抱えながら。


 純喫茶レモンの一日は、まだ続いていく。

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