01 黒猫
雨は夕方になっても止まなかった。
灰色の空から落ちる雫が、王都の石畳を濡らし続けている。
人通りの多かった大通りも、今は薄暗い。
軒下を急ぐ人々は皆どこか疲れた顔をしていた。
その中を一人の少女リアナが俯きながら歩いていた。
美しく綺麗な色だった銀白の髪は雨に濡れ、細い肩へ張り付いていた。
痩せた身体と疲れた表情のせいで幼く見える。
身につけているのは、擦り切れた革鎧。
何度も縫い直した跡があり、袖口はほつれていた。
腰には安物の短剣。柄の皮が剥がれかけていて今にも壊れそうだった。
冒険者としてはあまりにも頼りない姿だった。
「……また失敗したのか」
ギルドを出た瞬間、背後から嘲笑の声が飛ぶ。
リアナは振り返らずに歩き出す。
「荷物持ちしかできねぇな」
「よく冒険者なんて続けられるよ」
リアナを馬鹿にする乾いた笑い声。
唇を小さく噛み、リアナは歩く速度を少しだけ早める。
反論はしない。自分でも向いてないと思っているから。
今日も討伐依頼は失敗。
また何もできなかった。
ゴブリン程度ならなんとか戦える。
だが少しでも強い魔物になると駄目だ。
結局他の冒険者たちの足を引っ張っただけだった。
「……ごめんなさい」
小さく呟く。
誰に向けた謝罪なのかもう自分でもわからない。
冒険者を始めて1年。
討伐依頼は今日も失敗だった。
報酬はゼロ。今日の宿代も払えそうにない。
けれどーー。
(......ミナたちの分は稼げた)
胸元の小さな袋を握る。
中に残っているお金はほんの僅かだった。
朝から集めていた薬草の買い取りだけ。
それでも、孤児院の子供たちへ送る分だけは減らしたくなかった。
自分が我慢すればいい。
慣れている。空腹も。寒さも。痛いのも。
「……っ」
冷たい風が吹く。
リアナは咳を漏らし、薄い外套を抱き寄せた。
雨水を吸った布は重く、冷たい。
身体の熱を奪っていく。
指先の感覚ももうあまりなかった。
やがて人通りの少ない裏路地へ入る。
「ギャハハハ!!」
乱暴な笑い声が響いた。
酒場裏の木箱が積まれた路地で、数人の男たちが騒いでいる。
男たちは酔っていた。
赤ら顔で手に酒瓶を持ちフラフラとしていた。
その足元で、黒猫が蹴られていた。
「不吉な猫だなぁ、おい!」
「まだ生きているぞ!」
「化け猫じゃねぇのか!?」
鈍い音がした。
黒猫の小さな身体が石畳を転がる。
リアナの肩が震えた。
止めなきゃ。
そう思ったが足が動かない。
男は三人。しかも全員自分よりずっと大きい。
足が動かない。喉の奥が渇いて、声が出ない。
頭の奥で、孤児院時代の記憶が蘇る。
「役立たず」
「気持ち悪い目で見るな」
「お前に食わせる飯はない」
呼吸が浅くなる。
雨のせいなのか恐怖なのか分からない。指先が震える。
「……やめて」
声が出た。情けないくらい小さい声だった。
男たちは一瞬だけ黙り、すぐに笑った。
「あ?」
「なんだ嬢ちゃん」
「お前、この猫の飼い主か?」
怖い。
酒臭い息が近づくたび、足がすくみそうになる。
リアナは無意識に一歩下がった。
それを見て、男たちはさらに笑った。
「なんだよ、ビビってんのか?」
「だったら黙ってろ」
男の一人が黒猫を蹴り飛ばす。
黒い身体が水溜りへ転がった。
リアナの胸が痛む。
助けられない。怖い。自分は弱い。
雨に濡れた黒猫がゆっくりと顔を上げる。
片方は金色。もう片方は深い青。
その瞳は夜の路地には不釣り合いなほど美しかった。
その目には怒りも悲鳴もない。
ただ全てを諦めたような目だった。
(ーーああ。)
リアナは思う。
この子はもう誰にも期待していない。
かつての自分みたいに。
気がつけば身体が勝手に動いていた。
男たちがいるのに。怖いのに。
リアナは黒猫へ近づいていく。
「お、おい?」
「なんだこいつ」
雨の中、リアナはそっと膝をついた。
震える手で傷だらけの黒猫へ触れる。
冷たかった。
まるで最初から温度を持っていないみたいに。
リアナは泣きそうな顔で笑った。
「……似てるね」
その瞬間。黒猫の瞳が僅かに揺れた。
ーー何百年ぶりだっただろう。
化け物としてではなく、自分を見た人間は。




