第六十三幕 『義元、逃走』
第六十三幕『義元、逃走』
桶狭間の対話は、静かに、しかし確実に決裂した。
元康は言葉を探そうとしたが、胸の内に渦巻く動揺を隠しきれなかった。 視線を義元へ向けたまま、拳を強く握る。
しかし、それとは対照的に義元は落ち着き払っていた。 ワイングラスを置き、ゆっくりと背もたれに寄りかかる。
「それで——ワシをどうすると?」
信長は冷静に義元を見据え、静かに言葉を継ぐ。
「お忘れか?守山は尾張領内であり、ここ桶狭間も尾張である。 駿河の分国法、今川仮名目録は通じない。 尾張国の法律で対処させてもらうぞ。」
義元の指が、グラスの縁から離れた。 その瞬間、扉が開き、数名の警官が室内へ入った。
「今川義元——おとなしくしてもらおう。」
義元の眉がわずかに動く。 その表情に、初めてわずかな緊張が走った。
「……ほう。尾張警察か。」
元康は目を見開きながら義元を見据える。
義元は一瞬だけ状況を確認すると、静かに立ち上がった。
「フッ……なるほど。」
その声には、まだ余裕があった。 だが、次の瞬間——義元は室内を一瞬で見渡し、裏口へと向かって駆け出した。
「逃がすな!」
信長の声が響く。
警官たちが追いすがるも、義元の動きは鋭かった。
政治家としての冷静さの裏に、若き日の武術の素養がまだ残っていた。 多少身体は鈍っていたが、動きには迷いがなかった。
街は混乱に包まれた。 警官たちの怒声、逃げ惑う市民、遠巻きに様子をうかがう者たち—— そのすべてが、政の余波に巻き込まれていた。
森可成は険しい表情で街を走っていた。 警察の動きを確認しながら義元の進路を予測していると、視線の端に妙な人物が映った。
「……なんでお前がここにいる⁉」
森の声が強く響く。 そこに立っていたのは、謹慎中の利家だった。
利家は肩をすくめる。
「様子見に来ただけだって。」
「謹慎中だろうが‼」
森が怒鳴るが、利家はまるで気にしていない。
「まぁまぁ、うるせぇな。今、それどころじゃないだろ?」
森が何かを言いかけたその瞬間——義元がすぐ近くを駆け抜ける!
「おい、来たぞ!」
森が慌てて警察に指示を飛ばす。 その横で、利家はじっと義元を見つめていた。
「くそっ、逃がすかよ!」
そう呟くや否や、利家は躊躇なく義元の進路へ飛び込む。
義元は、逃げながらも周囲の地形を冷静に見ていた。
若き日の稽古の記憶が、足の運びに残っていた。 だが、時は流れ、体は重くなっていた。 それでも、彼はまだ——捕まるつもりはなかった。
政の均衡が崩れたその瞬間、街は戦場へと変わっていた。
均衡が崩れた瞬間、静かだった街が一気に色を変えました。
義元の逃走は、これまで積み重ねてきた影が形を変えて動き出した証でもあります。
誰が追い、誰が立ち止まり、誰がその先を見つめるのか——
揺らぎの中で、それぞれの選択が静かに浮かび上がっていきます。




