大罪(5)
再び意識が浮上してきた時、季節は進んでいた。
ルーカスが五年前、グニシアに戻った時も、ちょうどこの頃。プラタナスの葉はすっかり落ちてしまって、冬になりかけの頃だった。
暖流が近い王都フローレンスは、緯度が高い割には温暖で、雪は積もるほどに降らず、すぐに淡く溶けてしまう。
(・・・・・・やめてくれ。あの日のことは思い出したくない。)
そう思っても、ルーカスの意識は王城の謁見室に移り、やがてエドワードから「ベアトリス嬢が死んだ」と聞かされているシーンに変わる。
「ベアトリスが死んだ・・・・・・?」
「ああ、スペンサー男爵にはお気の毒だが・・・・・・。」
ああ、胸が潰れてしまいそうだ。
(・・・・・・ビーはとうの昔に死んだ。)
そう分かっていても、あの日の景色を前にすると辛くて、苦しくて。そのくせ、二人の子まで成した仲だというのに何の感慨もない様子で淡々と話してくるエドワードに無性に腹が立っていく。
ビーが死んだなんて、嘘だ。
ああ、だが、エドワードが衆人環視の前で嘘を吐くだろうか?
死んだなら、いつ、どこで、何故、死んだ?
何で、あいつはあんな平静なんだ。
頭の中には当時と同じように、次々に色んな感情が湧き起こり、それの同時処理を求められる。
(・・・・・・やめてくれ、やめてくれッ!!)
海で溺れた時のように、息ができない。
「ルーク、しっかりなさってください。」
そう聞き覚えのある声に、我に返った時には、馬車はタウンハウスに帰り着いていて、ジェニファーにきつく抱き締められていた。
ああ、温かい――。
それと共に途端に悲しみがどっと胸に押し寄せてきて、周りの景色が滲んでいく。
「・・・・・・ビーが死んだ。」
ジェニファーに縋るようにして、口にできたのはそれだけで、直ぐに肩がわなわなと大きく震えた。一方、ジェニファーはその話を聞くと息を飲み、「ひとまず二階に行きましょう」と促してくれた。
ああ、なんで、ビーなんだ。
彼女は十分に苦しんでいたというのに。
それもこれも、あのパーティーの夜にあんな提案をしなければ良かった。
ジェニファーに連れられて廊下を進む。
そして、ふらふらとした足取りで二階の主寝室に着き、ドアが閉まると、もうダメだった。
膝から力が抜けて、ズルズルとその場に崩れ落ちる。
「ルーク。」
ジェニファーに立つように促されるものの、およそ人間らしい言葉を発することは難しく、悲しみに飲まれて慟哭する。
なんて愚かなことを。
ゲームのシナリオだの、強制力だの。
向き合わなければならなかったのは、そんなことではなかったのに。
ベアトリスを失って、ようやく見誤っていたことに気がつくだなんて。
優しく背中を撫でさすってくれるジェニファーに、慰めてくれなくても良いと言わんばかりに、いやいやと首を振る。
私のせいだ。
彼女を不幸にして。
自分は安穏と生きて。
許せない。誰よりも自分自身が許せない。
しかし、ジェニファーは背中に覆い被さるようにして抱きついて、少し強めに「ルーク」と声を掛けてくる。
「私がそばに居るわ。」
「・・・・・・ジェニー?」
「あなたの白百合姫が誰だって構いはしないの。あなたは、いつだって私を選んできてくれた。それがどれほど私を救ってきたことか。」
結婚して二十年以上。
いい事ばかりがあった訳じゃない。
意見の食い違いで喧嘩をした日もあるし、三人の子宝に恵まれて、共に笑いあった日もある。
ジェニファーは「あなたはいつだって私に真摯に向き合ってくれていたわ」と言い、「だからこそ、あなたを手放せなかった」と話した。
「・・・・・・あなたが苦しんでいるのを知りながら、あなたを手放せなかったのは私の罪。」
背中に埋めるようにして、ジェニファーが「ごめんなさい、許して」と謝ってくる。
「ここまで嘆き悲しむあなたを見ることになるなら、あの時、あなたを自由にしてあげていればよかった。」
ジェニファーが言いそうなことは分かっていたのに。
「二番手には慣れっこだもの。」
ああ、辛そうな笑顔を向けてくるジェニファーに、ルーカスは辛いのは自分だけではないと自分を言い聞かせる。
「ごめん、取り乱した・・・・・・。」
まだ震える体を抑え込むようにして、ジェニファーを抱き寄せる。
もう間違っちゃいけない。
ゲームのシナリオだの、強制力だの、気にしてはダメだ。
「・・・・・・君の言う通りだ、ジェニー。僕は君を選んだんだ。」
愛していた、ベアトリスを心の底から。
今更、そう認めて、自分の愚かさを悔いたところで誰も救われはしない。
「君はこんな愚かな僕のそばにいてくれる、良きパートナーだ。」
若いときなら、いざ知らず。
この二十年近く、嬉しい時も、悲しく辛い時も、そばに居てくれたのはジェニファーだ。
「君に恥じるような生き方はしない。家紋の白百合にも誓っても。」
ただ、今、少しだけ――。
乱れた心を宥める時間が欲しい。
ルーカスがお願いすると、ジェニファーはこくりと頷く。
「自分勝手ですまない。」
自分でも嫌気が差してしまいそうな我儘を口にして、それさえもジェニファーが「明日はいつものルークに戻れそう?」と受け入れくれるから、ルーカスはジェニファーの懐の深さに頷き返すしか出来なかった。
あの時から――。
決してジェニファーに頭が上がらない自分を自覚している。そして、それを心地よいと思っている自分のことも。
(ジェニファーの愛情深さに何度救われてきただろう。)
ブライアンは長年の初恋を実らせ、ステファニーは自由でおおらかな生き方を選び、ギルバートは責任は重いものの、愛するもの守ろうとそれぞれに一生懸命に生きている。
(・・・・・・ちゃんと伝えないとだな。)
ルーカスは目を伏せる。
『見守る形の愛情もあるわ。』
ああ、ジェニー、そうだね。
君は確かに私の良きパートナーだ。
愛しているよ。
◇
トリアージ。
緑は命の別条がなく待機、黒は死亡か手の施しようがない場合。それ以外は意識の有無や、外傷具合を見ながら緊急対応の赤か、準緊急対応の黄色か。
こういう災害時には初動からの一秒一秒が命の分水嶺になる。
重体患者の赤リボンを腕に巻かれたルーカスはまだ滾々と眠っていて、ジェニファーはルーカスが目覚めるのを祈るようにして待っていた。
「ルーク、戻ってきて。」
ルーカスは、時折、苦しげに呻くものの、目を覚ます気配はない。
「・・・・・・起きて、お願い。」
ジェニファーは彼が「まだ息のある者でも、程度が酷く、治療自体に時間を要する場合には、黒のリボンを渡すように」と指示していたのを横で聞いていた。
『悩みましたが、他でもない閣下です。気道の確保だけはさせて頂きました。』
医師団からは沈痛な面持ちで、今は自然呼吸が止まってしまった時点で『黒』の所を、ルーカスの今までの功績と、呼吸が止まったのが短時間である事を受けて、「気道さえ確保できれば持ち直す可能性を信じて『赤』にねじ込んだ」と話した。
『誠に申し訳ございませんが、今はこれが精一杯の処置です。明日の昼過ぎまでにお目覚めにならなかったら、ご覚悟をなさってください。』
『それって・・・・・・。』
棺の準備をしろ。
暗にそう示されたジェニファーが、辛うじて倒れずに済んだのは、ギルバートが「父さんはそう簡単に死ぬような人じゃないよ」と両肩を支えてくれたからだが、目覚める気配のないルーカスを前にすると胸が潰れるような心地になっていた。
「お願い、神様。彼を連れていかないで。」
手を握ると体温が下がってきているのか、ルーカスの指先はいつもより冷たい。
(ルーク、早く、帰ってきて・・・・・・。)
祈るようにルーカスの手に頬擦りして、ルーカスが起きるのを待つ。
(たとえ、彼の一番になれなくてもいいの。)
そんなことは、もうどうでもいい。
仕事でどんなに忙しくても、自分や家族といる時間だけは大事にしようと、寸暇を惜しんで一緒にいてくれるのが愛おしくて。
ギルバートのことで大喧嘩したこともあるけれど、犬も食わない夫婦喧嘩をブライアンやステファニーが、「お願いだから、パパを許してあげて」と必死に言い募ってきたのが、簡単に思い返せるのに。
(彼は『エルガー公爵家』にとって必要な人なの。)
だから、どうか彼を助けてください――。
と、衝立の布がゆらゆらと動いて、ジェニファーは身を固くする。
薄暗い衝立の隙間から見えたのは、ルーカスの想い人。その人はエリザベスに瓜二つで、姉と同じように美しい金の髪に、青い瞳の持ち主だったという。
「『ビー』?」
彼女のせいで、ルーカスがどれほど苦しんできたことか。思わず、キッと睨み付け、ルーカスを庇うようにする。
「これ以上、私達を苦しめないで。彼をもう解放してあげて。」
雲間から月明かりが差し込む――。
そして、その髪に赤みが含まれ、瞳も青ではなく、悲しみを湛えたエメラルド色だと気がつく。ジェニファーは険のある表情を崩し、「あ・・・・・・」と小さく声を上げると、焦った表情になった。
「リジー・・・・・・。」
エリザベスはそっと後退りする。
「待って。違うのよ、リジー。私ったら、気が立っていて・・・・・・。」
オロオロとしたジェニファーに、エリザベスは首を横に振る。
「いえ、私の方こそ、お気遣いが足りておらず、申し訳ありませんでした。」
そう小さく呟くように話すと、綺麗なカーテシーをして踵を返す。
「リジー、待って! 誤解なの。」
あんな風に拒絶するつもりはなかった。今の態度はきっとエリザベスを傷付けただろう。
「ねえ、待ってちょうだい。」
しかし、その呼び声に反応したかのように、ルーカスの手がジェニファーの手を握り返してくる。その感触にジェニファーはピタリと立ち止まると、ルーカスの方に視線を移した。
瞼がぴくぴくと動く。
そして、ゆっくりと、でも、確かに瞼が持ち上がり、鳶色の瞳が見えてくる。
「ルークッ!!」
その瞬間、ジェニファーの頭の中からエリザベスのことは抜け落ちて、ルーカスのことだけで埋め尽くされた。
ルーカスの視線はしばらく泳ぎ、やがてジェニファーを捉えたのだろう、目元に笑い皺が寄る。
「ああ、神様。感謝致します。」
そう早くで呟いて、ルーカスの手を両手で握り締めて口付ける。
「お帰りなさい、ルーク。」
気道を確保するのに挿管されているから、今は話すことはできない。それでも長年の付き合いもあって、その一瞬のアイコンタクトだけで、ルーカスの訊ねたいことは分かった。
「心配しないで。ギルは誰かさんが火が燃え盛る中、助けに行ってくださったおかげで、無事よ。足は挫いていたみたいだけど、大事ないみたい。今は事態の収拾に動いてるわ。」
その言葉にルーカスの表情が緩み、ホッとした表情になる。ジェニファーの視界はじんわりと滲んだ。
「目が覚めて良かった。」
ぽたぽたと頬から伝い落ちた涙が、ルークの手を濡らす。
「少しの間、待っていて。お医者様を呼んでくるわ。それまで、眠くても頑張って、目を開けていてよ?」
冷えた手を温めるようにして声を掛ければ、ルーカスは優しい眼差しで、ゆっくりと瞬きする。
ジェニファーは涙を拭うと、医者を呼びにベッドの傍から離れパーティションを後にした。
◇
風に乗って焦げ臭い匂いが伝わってくる。
あんなに燃え盛っていた火はすっかり消火されて、辺りは暗く、あまり夜目は効かない。
エリザベスは、温室を後にしたあと、月明かりを頼りに、ふらふらと西の翼棟の焼け跡へと向かっていた。
ジェニファーは「気が立っていたせいだ」とすぐに弁明してきたものの、普段、朗らかな彼女の見せた一瞬の拒絶が、酷く目に焼き付いていて眉間に皺が寄った。
『これ以上、私達を苦しめないで。彼をもう解放してあげて。』
いつも可愛がってくれていたから、あんな風にはっきりと拒絶されるとは思わなかった。
(・・・・・・きっと、あれがお義母様の本音。)
はあと息を吐けば、白く色付き消えていく。
煙も収まった空には、冴え冴えとした冬の月と星空――。
エリザベスは西の翼棟の焼け落ちたところまで辿り着くと、辺りを見回した。
(ギルが戴冠して一日目で、この有様とは・・・・・・。)
豪奢だった調度類も美術品も何もかも、きれいさっぱり灰燼に帰している。
足元には一つ、ドレスに縫い付けられていたものか、髪飾りが落ちたものなのだろう。踏み躙られてぼろぼろになった花飾りが落ちていた。
繊細なレースに、天然真珠。
元はかなり凝った意匠のものだったろう。持ち主はきっと今日のパーティーのためにこの花飾りを準備したに違いない。
(酷い有様ね・・・・・・。)
まるで今の自分自身のようだ。
「・・・・・・可哀想に。」
そう呟きながら、花飾りの形を指先で整え、汚れているところの埃を払えば、自然、身につまされて、涙が込み上げてきた。
『お前の存在は、世界の秩序を乱す。』
キースとの一件があってから、幾度となくフラッシュバックしてくる光景。今日は特に生々しいのを見てしまったのもあって、考えまいと思っていたのに、花飾りに自分を投影して切なくなる。
「ねえ、神様。何故、私を生かしているの?」
誰に聞かせるでもなく尋ねても、冬の凍てつく寒さに、震えが来るばかりだ。
スペンサーの邸に生まれて十八年。
幼い頃から『父なし子』と言われて揶揄されて、母親が亡くなってからは『厄介者』だとか、『居候令嬢』だとか、『穀潰し』だとか、散々言われてきた身の上。
(だから、もう、冷たい目で見られるのも、蔑まれるのも慣れているし、傷付くまいと思っていたのに。)
目標は「安寧に生きる」ことで。
祖父の認めてくれる人と所帯を持って、命を脅かされることなく、天寿をまっとうできれば、それで十分だったはずだった。
そのはずなのに――。
いつの間にかそれは「ギルバートと一緒に生きる」にすげ替わり、彼の周りの人とも良好な関係で居たいと思うように変わっていた。
(今まで優しくしてくださっていたお義母様さえ、あのご様子だもの。巻き込まれて被害にあった方や亡くなってしまった方の遺族の方は、もっと恨みに思うはずだわ。)
そして、以前なら『些細なこと』と思っていたことに、心乱れるほど動揺してしまうだなんて――。
自分はギルバートに出会ってから、随分と打たれ弱くなってしまったようだ。




