第二話:自分が自分であるうちに
琴音の最初の記憶は、ざわめきの中だった。
断片的な記憶が、頭を過ぎるけれど、なんなのか分からない。
でも、ひとつ明確なことがあった。
琴音の目の前で、人が死んだのだ。
男の子を庇って、車に轢かれる女性の姿を、琴音は鮮明に覚えてる。
その時の車の音が、頭から離れない。
ゴムとコンクリートの摩擦音、人と車の衝突音。
そこから先の記憶はなく、今に至る。
琴音は、ただそこに立っていた。
ここにいる意味もわからず、名前すらも最初は分からなかった。
そして、激しい頭痛に襲われ、琴音は気を失った。
「うぅ…」
琴音が目を開けると、辺りは真っ白な壁と木漏れ日の光に満たされていた。
隣には、男の人が二人、こちらを心配そうに眺めていた。
「誰ですか…?」
琴音がそう訪ねると、年が上の男の人が「詞音…?」とこちらに問いかけてくる。
その時、琴音の名前が詞音であることが分かった。
でも、なんだか琴音は怖かった。
この人は、琴音を見てない。
どこか、違うものを見ている。
そう直感した。
その後、琴音の元にお医者さんがやってきた。
「詞音さんは現在、解離性障害の解離性健忘による記憶喪失に陥っています。お母様を目の前で亡くされたショックによるものだと思われます」
カイリセイショウガイ?カイリセイケンボウ?
難しいことは、琴音にはわからない。
「治る見込みはあるんですか?」
身を乗り出して聞く年が上の男性がお医者さんに問いかける。
そして、お医者さんは琴音のことを一瞥した後に、
「まだなんとも…」
言葉を濁したお医者さん。
明らかに渋い顔をしている。
琴音は、どこか悪いのかな?
そう思うと、胸の奥が締め付けられるように痛い。
これは…病気なの?
それから、琴音はただただベッドの上で寝ていた。
体もどこも悪くない。点滴も打たれてない。
眠らない、寝るだけ。
ただ意味の無い時間を、貪るように、啄むように、浪費した。
そのうち、年が上の男性は来なくなった。
でも、年が下の方の男性は毎日やって来た。
そして、この部屋で何やらペンを本の上ではしらせている。
「あの…」
「何?」
「あなたはどうして、ここに来るんですか?」
「迷惑?」
「迷惑じゃなくて…」
背もたれがない椅子なので、そのままくるりと男性が回転して、琴音の方を向く。
そして、ごく普通であることのように話し出したのだ。
「僕が、君の兄だから」
「兄…?」
琴音が不思議そうな顔をすると、付け加えるように、「兄っていうのは、その人よりも早く生まれた男の人のことだよ。同じお母さんから生まれた」と、子供に説明するように話す。
そういう意味で聞いたんじゃないけど。
「どうして兄だからってそこまでするんですか?」
「あぁ、兄だから…かな?」
「よく分かりません」
「人間なんて、そんなものだよ。根拠の無い自信も、無謀な挑戦も、してしまうんだ」
自称琴音の兄の男性は、冷静に言葉を返した。
でも、その言葉からは温もりが感じられた。
「ところで、名前わかる?」
「詞音です。一文字の方の詞に、音で詞音」
何故だろう、文字は読める。これも、自称琴音の兄の男性が言ってたことなのだろうか?
ちなみに、枕元にネームプレートがあるため、それで漢字を覚えた。
すると、自称琴音の兄の男性は、首を振った。
縦ではなく、横に。
「間違ってましたか?」
「今まではそうだったけど、今は違う」
琴音は、その意味が理解できなかった。
「今までがこの名前なら、それでいいじゃないですか」
「だって…ここに居ることねはことねであって詞音じゃない。だからこれからは…」
持っていたノートを取り出して、またもやペンをはしらせる。
表面に、キュッキュッとなんだかリズミカルな音を立てて。
でも、今度はえらく早めに終わった。
そして、そのノートを琴音に見せる。
「琴が鳴る音。琴音にしよう」
その時、琴音の胸の中は今までとは違う意味できゅっと締め付けられた。
瞳から涙がこぼれ落ち、病院で借りた服にシミを作る。
琴音の名前、琴音だけの名前…。
それだけで嬉しかった。
それに…、この人は…。
お兄ちゃんは、ずっと私を見てくれていた。
「お兄ちゃんだけです…琴音を見てくれるのは…」
「なんでそう思うの?」
「みんな、詞音さんを見ているからです…、琴音の中のどこかに眠る、詞音さんを」
お兄ちゃんは、微笑した後「琴音は琴音だよ。他の誰でもない」と言った。
そして、その名前の書かれたノートを、琴音に渡した。
「不安なら、琴音が琴音である証拠を作ればいいんだよ。これに、琴音である証拠を書いていこう」
「日記…ですか?」
「うん」
ノートの表紙には、可愛らしいファンシーなキャラクターが描かれていた。
琴音が琴音である証拠…。
いつか終わってしまうから、その証拠を残しておこうということだろう。
そう思うと、なんだか切なくなってきたから、考えないことにした。
「あの…」
「何?」
「帰るんですよね、家に…、車は苦手です」
「そっか。なら寝てる間なら平気?」
「…分かりません」
でも、琴音は少し想像した。
お兄ちゃんと過ごす日々を。
なんだか、少し楽しみで、心が踊った。
二人でご飯を食べて、二人で勉強して、二人でお話をする。
その当たり前を、琴音は知らないから。
それからしばらく話したあと、お兄ちゃんは帰った。
琴音が寝ている間に、車に乗せて家に帰ってきた。
慣れない二人暮し、慣れない自給自足。
何もかもが初めてで、手間取った。
駅も近い上に、小学校、中学校も近くにあるから暮らしやすいといえば暮らしやすい。
翌日、僕は琴音の部屋の前を訪れた。
琴音はゴミをまとめて部屋の前に置いていた。
僕はそのゴミを分別していると、何やら木の枠組みのようなものが出てきた。
なんだろう、これ?
「ーー!」
それは、家族の集合写真だった。
詞音が、ずっと大切にしてたもの。
埃を少しでも被ると、ティッシュとかで優しく拭いていた写真立て。
僕は少し冷静さに欠いていた。
「琴音、入るよ」
僕が入ると、琴音は机の前に座って、日記を書いていた。
詞音の部屋のままなので、ソワソワしているが。
僕に気がつくと、僕の方を見てふにゃりと笑った。
僕は、写真立てを机の上に置いた。
「これ、どうして捨てたの?」
「…」
琴音は黙りだ。
僕は、冷静になるために、深呼吸をした。
だが、琴音は口を開いた。
「何故、目の前で死んだ知らない人の写真があるんですか?」
唇を震わせて、僕に質問してくる。
そうか…、琴音には記憶が無い。
だから…。
でも、琴音に真実を伝えるべきだろうか。
知らないままでいいんじゃないだろうか。
…いや、これは琴音が知るべきことだ。
「この人は、母さんだよ」
琴音は、目を見開いて、改めて写真を見つめた。
そして、「琴音は…」と、何度も繰り返していた。
それからだ。琴音のトラウマが加速したのは。
僕は、その時黙っていればよかったのか?
あの時のこと、今も少し後悔している。
琴音は須磨さんと出会ってからずっと下を向いたままだ。
僕と目を合わせようともしない。
「琴音」
「…」
「今日はシチューだよ」
「…」
と、この調子で黙秘を続けている。
須磨さんもかなり落ち込んでいた。
四年ぶりに友達が帰ってきたと思ったら、記憶が無いんだから。
でも、彼女は決して、「詞音ちゃんを返して!」なんて言いはしなかった。
一言、「そう…なんですか…」と、呟いただけだ。
でも、琴音にはその言葉が心に突き刺さったんだろう。
いや、思いやりが、逆に琴音を傷つけてしまったのかもしれない。
とんとんとまな板と包丁のぶつかる音が鳴る。
人参、玉ねぎ、じゃがいも、残量があったブロッコリー、鶏肉を切り、大鍋に投入。
その後、間合いを見計らいクリームシチューのルー、牛乳を入れた。
そしてしばらく待てば完成。
昔覚えたレシピだが、母さんの味には程遠いな。
「はい」
僕は、俯いている琴音の前にシチューを置いた。
だが、まだ黙ったまま。
視線も上げず、ただ俯いている。
「早く食べないと、冷めちゃうよ?」
僕が警告すると、琴音はゆっくりと食べ始めた。
そして、何も言わず食べ終え、そさくさと部屋へ戻る。
前までは、「んー、美味しいですー!これ、南極の近くでペンギンさんと一緒に食べたら最っ高に美味しくなると思います!」と、無邪気に笑って言っていたのに。
翌日。
僕は、豊岡さんに少し相談した。
琴音にその事を教えておくべきだったか否か。
「それは、あんたが決めることでしょうけど…。どちらかなら、言った方が良かったと思うわよ」
「どうして?」
豊岡さんは、「はぁ…」とため息をついて、こう続けた。
「人ってね、他人を騙したりする時、どうしても不自然になってしまうの。プロの詐欺師だってそう。だから、あんたが琴音ちゃんにずっとそれを隠して暮らしてたなら、きっとそれは疑問に思われる。その結果、どうなると思う?」
「どうなるの?」
豊岡さんは拳を握り、その後それを勢いよく開いた。
「信頼関係を築くことも出来ず、兄妹仲は破綻する」
「大袈裟じゃない?」
「あともうひとつ。奏多、隠し事してない?」
「隠し事…?」
僕は、ドキッとした。
まるで、心中を見抜かれているような、そんな錯覚に陥る。
「具体的には、白昼さんに冠して」
「…なんでそう思うのさ」
「だって、あんた白昼さんが引っ越したことについて手早く話した割に、真剣な顔してたもん。それだけよ」
それは、完全に的を射ている発言だ。
この子には叶わないな。僕はそう思った。
「機会があれば、また話すよ」
「そうやって先延ばすの?」
僕は、退路を塞がれた。
前にも似たようなことを魚住さんに言われたっけ。
先輩はなんでも先延ばしにするって。
僕は諦めて、豊岡さんに話すことにした。
「…母さんだったんだ」
「白昼さんが?」
「うん。それで、天国に帰って行った」
「そう…」
豊岡さんは大して驚きもせず、ただ真摯に僕の言葉に耳を傾けていた。
声を出して驚くと思ったんだけど、その推測は外れたらしい。
「驚かないんだね」
「まぁね。でも、そんなの実際にはありえない。でも、事実として起きてしまった。そんなことなんて言うか知ってる?」
「異常現象」
「そうじゃなくて」
正直、今のはボケだ。
僕だって知っている。ネットなんかで結構有名だし。
「思春期アブノーマル。発達していく自意識や固定概念の中で、超常現象が起きたりする…、だったっけ。誰が言い出したかは知らないけど。あと、本人の悩みに関係するとか…」
「ただの噂か、本人の錯覚だと思ってたんだけど、体験したのよね?私たち」
白昼さんが、母さんが存在するなんてこと、普通はない。
亡くなった人が生き返るなんて、普通はないんだ。
それ故に、僕らはこの思春期アブノーマルの目撃者になったのである。
魚住さんも、琴音も、長門さんたちも、勿論豊岡さんも。
幸福というか、被害蒙ったというか…。
今回は白昼さんのように比較的安全な思春期アブノーマルだったが、こんな噂もある。
『原因不明の学生の失踪事件や殺人事件は、思春期アブノーマルによるものだ』と。
つまり、これは人をも殺してしまうかもしれないということ。
ただの噂だけど。
心理学者は何故かこの騒動に首を突っ込み、『人間の精神状態は本人にさえ影響を与えど、他者やそれこそ世界に影響を与えるはずがない』と否定した。
正論すぎて何も言い返せないと思いきや、それからというもの、どんどんどんどんこの類の噂は時に右往左往し、尾ひれを付け、広がっていった。
今では数えるのが面倒になるくらいに多くなっている。
「とにかく、また何か困ったら言って。力になれそうなときは力になるから」
「そんな気が利いた言葉、言えるんだね」
「なんか言った?」
口を滑らせた僕は、豊岡さんによる制裁をくらっていた。
具体的には、耳をぐにぃっと抓られた。
「痛い痛い!口が滑っただけだって!」
「全く。それって普段そういう風に思ってるって事じゃない?」
図星をつかれて、ドキンとする。
なんだろう、今日の豊岡さんはなんだか苦手だ。
「とにかく、話変えるわよ。琴音ちゃん、うちの高校受けるんですって?」
「うん」
「理由はどうあれ、目標を持つのはいい事ね」
理由…か。
そう言えば、琴音にまだなぜ僕と同じ高校を受けたいのか、聞いてなかったな。
また今度聞こうか。
「とにかく、一番良くないのは、琴音ちゃんが体調を崩すこと」
「分かってるよ」
「なら、たまに息抜きくらいはさせてあげなさいよ?勉強ばかりじゃ息が詰まっちゃうから」
「うん」
でも、琴音は自分に「頑張れ」と言った相手が「頑張りすぎるな」と忠告すると、それを素直に受け止めるか?
場合によっては逆効果の可能性もある。
「悩んでるわね。なら、これを使いなさい」
渡されたのは、須磨水族園の入場チケット。
「いいの?」
「えぇ、あそこにはペンギンもいるし、琴音ちゃんも喜ぶわよ、きっと」
付け加えて、「知り合いからの貰い物だし」と言った。
知り合いからの貰い物を、たらい回しに僕らに渡すのもどうかと思うけれど、ありがたく受けとっておこう。
「ありがとう」
「どういたしまして。あとそれ、明日までよ?」
え?
僕がチケットの裏面を見てみると、確かにそこには『八月二十日』と書かれていた。
結構ギリギリか…。
幸い、明日もシフトはないからいいか。
琴音も、大した予定もないだろう。
「あ、お兄さん!」
僕が豊岡さんの家からしばらく歩いていると、ショートヘアでテニスラケットを背負った少女、須磨さんがやってきた。
「なに?」
「実は、お願いがあって…」
鞄を籠から取り出し、その中から本を抜き出した。
「本当は家まで伺うつもりだったんですけど…」と話した後、本を僕に丁寧に両手で渡す。
そこまで畏まらなくてもいいのに。
「これ、詞音ちゃんが好きだった本…、新作読みたがってて、その…四年前のことですけど、琴音ちゃんも好きなら、どうぞ!」
「…ありがとう。返す時はどうする?」
「い、一週間後にまた伺います!」
そう言い残して、須磨さんは去っていった。
その本は、確かに詞音が好きだったものだ。
僕は、思わず詞音を思い出してしまった。
僕が家に帰ってくると、琴音は勉強をしていた。
赤本を片手に、黙々と問題を解いていく。
そうだ、琴音が寝てから枕元にチケットを置いておこう。
まるでクリスマスプレゼントだな。
でも、きっと喜んでくれる。
そう思うと、笑みが零れた。
「琴音」
「…お兄ちゃん」
少し悲しそうな顔をするが、昨日よりはマシだ。
そして、僕は琴音に本を渡した。
「これって…」
「須磨さんからだよ」
琴音は、小説をぱらりとめくる。
そこから、栞が出てきた。
いや、紙か?
そこには、丁寧な文字で、
「もう一度ことねちゃんと友達になりたい」と書かれていた。
詞音と書かなかったのは、今の琴音は詞音ではなく琴音だからだろう。
琴音は、驚いたように目を見開いた。
「りょうちゃん…」
それは、かつて琴音が須磨さんに付けていたあだ名だ。
そして、「琴音は、この本を知ってます…」と呟いた。
「記憶が戻ったの?」
「断面的にですけど、少し」
これは、記憶がもどる前兆か?
僕は、少しいたたまれないでいた。
だって、昔の詞音が戻るということは、今の琴音が消えてしまうということ。
僕は、兄として、どちらの妹も、等しく愛しているから。
それゆえ、どちらがいなくなっても、同じ分の悲しみが襲うのだ。




