自分がやりたい事と、他人が欲する物
お久しぶりです、実に一年近く更新をしていなかったこのエッセイですが、語りたい事ができたので、ここにぶちまける事に致しました。
興味のある方は、どうぞ読んで頂ければと思います。
どうもお久しぶりです。
master1415改め、増田匠見です。
こんな私の誰得エッセイを覗いて頂き、誠にありがとうございます。
本日は、私自身が長年ウンウンと唸っていた事に対し、一つの答えが出てスッキリしたので、その事をお話ししたいと思います。
小説に限らず、なんらかの表現活動をした事がある方なら、『自分がやりたい物をやるのではなく、他人がどう見るか(評価するか)が大事』というものを、一度は言われたり考えた事があると思います。
私も役者時代に「お前の個性なんていらないんだよ!もっと客の事を考えろ!」と散々言われたものです。
特に、ダンスなどは決まった形のようなものがあって『正解』と呼べる動作が存在するので、なおさらでした。
……でも、やっぱりおかしいですよね?
役者に必要な物が『客の事を考える』事で、ダンスが決まった型の組み合わせでしかないのなら、『個性』なんて必要ないんですから。
客にどう見られるかが分かれば、一流のアーティストになれるのか?
演技が上手ければ、テレビドラマに出演して俳優になれるのか?
綺麗な型を舞えればプロのダンサーになれるのか?
上手い文章を書ければプロの作家になれるのか?
――答えは否です。
あんまり歌が上手くない人が番組の主題歌を歌っていたり、演技の上手くない人間がドラマに出演していたり、あまり踊りの上手くないアイドルがテレビで踊っていたり、技術の未熟な文章が書籍として発売されているのが現実です。(はい、私の事ですね)
逆にプロ級に歌の上手い人でも歌手になれなかったり、めちゃくちゃ演技の上手い人でもオーディションに落ちたり、キレッキレのダンスが踊れるのにプロになれなかったり、凄く文章が綺麗なのに作品が面白くなかったりするのも、現実だったりします。
なら、この差は何でしょうか?
技術を磨かなくてもプロになれるのなら、技術を磨く意味などないではありませんか。
それなら、技術を磨くために費やす時間を、プロになるために費やした方がいいではありませんか。
……では、プロになるために一番必要な物とは何でしょうか?
運ですか?
金ですか?
人脈ですか?
経験ですか?
知識ですか?
やっぱり、技術ですか?
勿論、色んな要素があり、色んな意見があって一概に言えない事ではありますが、プロと呼べる人間には間違いなく一つの共通点があります。
もしこれを読んでいる貴方がこれらになるための勉強をしている当事者であるなら、今から述べる事は少なくとも『理解』だけはしておくべきです。
それは、彼らが皆『表現者』であるという事です。
『表現者』とは、文字通り『何か』を『表現』する事です。
物書きだって、文字を使った『表現者』ですし、私が執筆初心者だったのにも拘わらず、書籍化できたのも『表現者』としての経験をそのまま執筆に活かしていたからだと、間違いなく断言できます。
なので、小説を書く人間は、自分の書く物語が『何を表現したのか』を、それをしっかりと意識するべきです。
別に畏まって考える必要はありませんし、大層なテーマを設ける必要はありません。
逃避して幸せな人生を送りたい。
女の子とイチャイチャしたい。
飯が上手い。
太ももサイコー。
ゲームは楽しい。
恋愛。
失恋。
闘争。
笑い。
…………などなど、何を表現するかに決まりはありません。
しかし、我々は『表現者』なのですから、『何』を『表現した(執筆した)』のかくらいは把握しておくべきです。
……というか、作品にはモロに『自分』が出ますので、自分が書いた作品を読めば見えてくるはずです。
そして、プロが技術を磨くのは、その『何か』を上手く表現するためです。
だから、『表現者』の勉強をされている方は絶対にここを勘違いしないで下さい。
技術はあくまでも『手段』でしかありません。
大事なのは『手段』を使って『何を』するのかという事です。
さて、だいぶ話が逸れてきましたので、タイトルにある『自分がやりたい事』と『他人が欲する物』に話を戻したいと思います。
『他人が欲する物』を表現しなければ(書かなければ)、当然ながら他人は評価してくれません。
でも物書きは『表現者』なので、『自分がやりたい事』がなければ外面だけのスカスカな作品になってしまいます。
では『自分がやりたい事』と『他人が欲する物』のどちらが大事なのでしょうか?
(これが、私が今までウンウンと悩んでいた問題でした)
答えは、『この二つは相反しない』というものでした。
「おいおい待てよ、『自分がやりたい事』を書いて『他人が欲する物』になれば苦労しないわ!」
と、そういったご意見、ごもっともだと思います。
というか、私もそう思っていました。
――でも、相反しません。
少し話は変わりますが、表現の世界において、自分よがりで他人に理解されない作品の事を『オナニー』もしくは『オナニー作品』などと言って揶揄されます。
作者からは「これが俺の『個性』だ!てめーにそれが理解できないだけだ!」といった声が上がり、受け手からは「おめーのマスターベーションなんざ見たかねぇわ!」といったやりとりも良く見られる光景です。
そこで一つ、例え話をしたいと思います。
『貴方は他人のオナニーを見て興奮できますか?』
『貴方は、自分のオナニーが誰かを興奮させられると思いますか?』
(えっと、ちょっと表現がアレですけど、たぶんこれが一番分かりやすいと思いますのでご容赦下さい)
AVなんかでは『オナニー物』としてその手のジャンルがありますので、貴方の作品をAV女優(もしくは男優)に置き換えて考えてみて下さい。
本来AV女優は、役者なので『どう見せるとエロいか』というのも考えながら撮影をしているはずです。
(業界は詳しくないので憶測で話していますが……)
しかしながら『素人』が女優として撮影しているものも、世には数多く存在します。
さて、そんな『自分がやりたい事』だけをやったそんな貴方の『オナニー作品』は他人に受け入れられるでしょうか?
人によっては、『素材がいい!』だとか『こんなのを待っていた!』だとか『このシュチエーションは斬新だ』などと言って褒め称えるでしょうし、場合によっては多くの人に支持され大ヒットとなるかもしれません。
しかし、多くの場合は「おめーのマスターベーションなんざ見たかねぇわ!」と言って唾を吐きかけられるでしょう。
…………でも、ほとんど場合、男っていうのは異性の『オナニー』に興味津津な生物のはずです。
だから、ちょっと考えれば作品のクオリティはぐっと上がるはずなんです。
――はい、それが『どう見せるか』です。
具体性に欠けて大変申し訳ないのですが、これが一番大事な事だと思います。
うまくシュチエーションを作ったり、キャラクターにこだわったり、ストーリーに緩急を付けたり……
あの手この手を使って、作品を『どうエロく(面白く)』するのか。
『凝った設定』も『魅力的なキャラクター』も『物語の緩急』も、全ては作品を彩る一要素でしかなく、『凝った設定』で『どう面白く』するのか。
『魅力的なキャラクター』で『どう面白く』するのか。
『物語の緩急』で『どう面白く』するのか。
それが、面白い作品(小説)を作り上げるには必要なのではないでしょうか?
そう考えると『自分がやりたい事』をする『オナニー作品』も、他人に受け入れられる形で見せれば『他人が欲する物』に、少なくとも『他人が理解できる物』になると思いませんか?
私が役者時代に「お前の個性なんていらないんだよ!もっと客の事を考えろ!」と言われていたのも、『どう見せるか』という事を学ぶためなのだと、今になってようやく理解できるようになりました。
最後になりますが、『自分がやりたい事』を書いている書き手の皆様、どうか『他人が欲する物』に意識を向けてみて下さい。
『自分がやりたい事』を曲げる必要はありません、ただ、ちょっとだけ他の人にも『理解』できるように見せれば、その面白さはもっと多くの読者に伝わる事だと思います。
我々は『表現者』なので、『自分がやりたい事』を相手に伝えてこそ意味があると、少なくとも私はそう思っています。