1 偏屈王子が春を知るころ
昔々あるところに、三人の王子様がおりました。
三番目の王子様は心優しく、民の人気者。
二番目の王子様は賢く、思慮深いお人。
一番目の王子様は──
アルヴェリア王国の第一王子、ヴィクトル・フォン・アルヴェイン。
彼の名を聞いて人々が思い浮かべるのは、王族にふさわしい気品でも、次代の国王としての威厳でもない。
偏屈で怠惰で、他人のことなど顧みない、ひどく我儘な王子。
それがヴィクトルに対する世間一般の評価であった。
事実、彼に関わって酷い目に遭わされた者は多い。
ある女給は、せっかく淹れた茶を「ぬるい」と理不尽に罵られ、挙げ句の果てにはティーカップごと投げつけられた。
ある宰相は、ちょっとした提言で反感を買い、辺境の地へと飛ばされた。
彼にまつわる悪い噂は後を絶たなかった。
そして、その評判を裏切ることなく、彼は今日もまた公務を放り出していた。
本来ならば午前中には財務卿との会議があり、午後には貴族たちとの謁見が予定されていたはずである。
しかし、予定表に記されたそれらの務めは、当の本人が姿を消したことで、早々に白紙同然となっていた。
今頃はきっと第二王子のセオドアが全ての尻拭いをしていることだろう。
彼が放棄する公務は全てセオドアが引き取る。それが王宮でのいつもの景色だった。
そんなヴィクトルの肩を持つ連中もいる。第一王子派と呼ばれる家臣たちだ。
いかに資質のない王子と呼ばれようとも長子であることに変わりはない。
しかも現国王が最も寵愛した妃の子供でもある。
ヴィクトル王子こそが次期国王として相応しいと熱心に語る者が王宮には少なくない。
彼らはヴィクトルを次期国王に据えるべく、日夜その周囲を固めている。
王子の将来を案じているのだと忠誠の言葉を頻繁に口にするが、その目に映っているのは王冠と共にある権力と、自らが得るであろう恩恵ばかりだった。
会議では彼の一挙手一投足に賛辞を送り、廊下ですれ違えば恭しく頭を垂れ、晩餐の席では競うようにして機嫌を取る。
誰も彼もが忠臣を装いながら、腹の底では己の利益を勘定している。
あんな連中に囲まれて毎日を過ごすくらいなら、いっそ王子など辞めてしまいたい。
ヴィクトルは、そんなことを幾度となく考えていた。
そして今日もまた、彼は王宮を抜け出した。
王子という肩書きを忘れ、誰にも顔色を窺われずに済む城下町へと。
王城から続く、緩やかな石畳の坂道。それを下っていった先に王都リュミエールの中央広場がある。
澄み渡る春空の下で色とりどりの天幕が軒を連ね、店先には朝採れたばかりの野菜や果物が所狭しと並んでいる。
魚屋には港から届いたばかりの魚が並び、銀色の鱗が朝日を受けてきらきらと輝いていた。
冬の名残を掻き消すように、柔らかな風が焼きたてのパンの香りを乗せて頬をかすめていった。
威勢のいい呼び声と買い物客の笑い声。遠くの噴水広場からは子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる。
荷車を引く馬の蹄が石畳を規則的なリズムで叩き、人々の生活そのものがこの街を彩る音楽となっていた。
ヴィクトルは広場のベンチに座り、目深に被ったローブのフードの下からぼんやりと朝の風景を眺めていた。
この時間の街はいい。誰もが各々の朝を生きていて、周囲の人間を気に留める余裕などない。
この国の第一王子がこうして街に紛れていても誰も気付かない。
人々の関心は今日の食卓や仕事の段取り、隣人との他愛のない会話に向けられていて、広場のベンチに座る地味なローブの男など風景の一部に過ぎなかった。
もっとも、社交の場にも政治の場にもろくに顔も出さない王子の顔など、城下の庶民たちは知りもしないのかもしれない。
ふと、大通りの方からがしゃんと大きな物音が聞こえた。
何事か、と音のした方向へと顔を向ける。
通りの端の辺り。一人の老いた男が石畳の上に膝をついていた。
近くには古く傷だらけの荷台と、からんからんと転がり去っていく車輪が一つ。
どうやら老人が引いていた荷台が壊れたようだ。
周辺には荷台に積んでいたらしい苺やら桃やらが散乱していて、潰れて汁が溢れているそれらを往来する人々が面倒そうに避けて歩いていた。
物音の原因が大したものではないと分かり、ヴィクトルはほっと胸を撫で下ろす。
今日は護衛をつけていない。自分を狙う悪漢が現れたわけではなくて本当によかった。
反射的に立ち上がりかけた体を座り直し、視線も元の位置へと戻そうとした、その瞬間だった。
彼の視界に鮮やかなオレンジ色が映った。
それは一人の娘だった。歳の頃は二十歳になるかならないかといったところか。
マリーゴールドの花を思わせるオレンジ色の長い髪が陽光と共に煌めいている。
パンを買おうとしていたらしい彼女は、老人の姿を認めるとパン屋から離れ老人のそばへと駆け寄った。
彼女は通行人に「すみません」と繰り返し声をかけながら、忙しなく行き交う人々の足元を縫うようにして、地面に散らばる果物を拾い集めていく。
潰れた果実の汁が垂れるのも気にせず、腰に結びつけたエプロンの裾に果物を抱え込むと老人の元へと戻る。
二人が何かやり取りしている様子が見えるが、この距離では会話までは分からない。
地面に座り込む老人を気遣うように屈む娘。何度か言葉を交わした後、心配そうな顔から笑顔へ。
そのまま彼女が何かを告げると、老人が驚いたように目を丸くする。
そして申し訳なさそうに心苦しそうに首を横に振る。
しばらく押し問答を続けた後、老人はとうとう折れたように、彼女の差し出した硬貨を受け取った。
彼女は代わりに、売り物にもならない潰れた果物たちを引き受けたようだ。
老人は背中を深く折り、何度も何度も娘に頭を下げていた。
娘はエプロンの中の果物をそのまま持って、老人に笑顔を返しながら去っていく。
買う予定だったパンを買いには戻らない。
どうやらパンを買おうとしていた金で、あの果物を買ったらしい。
朝陽を映したようなオレンジ色の髪が人混みの中へ溶けていく。
ヴィクトルはその一部始終を無意識のうちにじっと眺めていた。
特に何か感慨を覚えたわけではない。
ただ本当になんとなく、なんとなく目が離せなかっただけだった。
春の陽気が日ごとに増していく頃、ヴィクトルは再び街へと足を運ぶようになった。
城の中で過ごす時間に飽きれば、供もつけずに城下へ出る。
それは以前から変わらない彼の日課だった。
最近は春の陽気に誘われて、その頻度が増えていた。
そんなある日、中央広場の花屋の前で、いつだか見たマリーゴールド色の髪が目に留まった。
その娘は客に花を売っていた。
少しでも通行人が目を向ければぱっと表情を輝かせ熱心に季節の花を勧めていた。
その熱意は必ずしも売上に直結するわけではないらしく、ほとんどの客は立ち止まりもせずに素通りしていく。
しかし彼女は気にする様子もなく、また次の通行人へと花を勧めている。
また別の日には、魚屋で大きな魚の頭を落としていた。
小さな手に不釣り合いな鉈を片手に、切り株製のまな板の上の魚目掛けて振り下ろしている。
額には汗が浮かんでおり、足元には何個も魚の頭が転がっていた。
なんだあの女は。花屋かと思えば今日は魚屋か。
どうやら彼女は、決まった店に勤めているわけではないらしい。
人手の足りない店を渡り歩き、その日その日で様々な仕事を引き受けているようだった。
それからもその娘は、あるときは肉屋で腸詰と格闘し、あるときは鍛冶屋で火を起こし、あるときは広場で大道芸人の手伝いをしていた。
道化師の格好で、観客の前を飛び跳ねている姿まで見かけた。
「……何をやってるんだ、あの女は」
彼女が織物店の木箱をひっくり返し大量の毛糸玉をぶち撒けたのを見かけた時には、思わずそんな言葉が漏れた。
別に見ようと思って見ていたわけではない。
一度見かけたあの日から、あのやたらと目立つオレンジ色が目につくようになっただけだった。
何度か彼女を目にするうちに、ヴィクトルは少しずつその人となりを知るようになった。
どうやら、かなりそそっかしい性格らしい。
様々な職をこなしているかと思えば、時折信じられないような危なっかしい失敗をする。
もしかしたら根っから不器用でどんくさい性質の持ち主なのかもしれない。
次に、よく喋る。
市場に顔見知りが多いのか、常に誰かと楽しげに談笑している。
かと思えば、全く知らない人間相手にでも人懐っこく話しかける姿を何度も見た。
話している内容も商売とは全く関係のない、今日の空模様がどうだとかそんな他愛のない話ばかり。
そして最後に。彼女は底抜けのお人好しだった。
彼女はいつも誰かのために動いていた。
結局のところは日々の稼ぎのためかもしれないが、それだけではないように思える。
彼女が働く先にはいつも必ずと言っていいほど、何か困りごとを抱えた者たちがいた。
大して儲かっているように見えない店もあり、報酬が支払われているのかさえ怪しいものもあった。
それでも彼女は毎日懸命に働いていた。
誰かが笑えばまるで自分のことのように顔を綻ばせた。
ヴィクトルはそんな彼女を見かけるたびに、呆れたような気分になった。
それでも、街を歩いているといつの間にか彼女が目に入るようになっていた。
探しているわけではない。彼女の存在に何か意味を見出したわけでもない。
ただ、あのオレンジ色を見かけるたびに何気ない街の風景が少しだけ違って見える。
今が見頃だというチューリップ。
今年は例年になく豊作だというそら豆。
東の丘を埋め尽くす、見渡す限りの菜の花。
春時雨の後に見えるという虹。
彼女の口から語られる言葉の端々からは、季節の移ろいを楽しむ心が感じられた。
ただ過ぎるだけの毎日の中で、彼女は常にその瞬間の美しさを愛でて、誰かと共有しようとしていた。
ヴィクトルにとって季節とはただ巡りゆくものにしか過ぎなかった。
時間が経てば過ぎ去り、気付けばまた同じ季節が訪れる。それだけのことだった。
今の時期にどんな花が咲き誇っていて、窓の外にどんな景色が広がっているのかなんて考えたこともない。
それが今では、彼女の口から言葉が紡がれるたびにふとそちらへ目を向けるようになっている。
変わり映えしないと思っていた無機質な王宮の中で、花瓶に活けられた花が目に留まるようになった。
供されるままに口にするだけの食事の時間も、ふと旬の食材が使われていることに気付くようになった。
磨き上げられた大理石の床も、冷たく整然と並ぶ柱も、壁に掛かる重厚なタペストリーも、今までと何一つ変わらない。
変わらないはずなのに、ふとした瞬間にその景色の中に色を見つける。
きっと、自分が気付きもしなかっただけで、これらは前から存在していたのだろう。
たったそれだけのことで、ご機嫌伺いの臣下たちや、腫れ物に触れるような従者たちの目線をやり過ごすだけの退屈な毎日に、ほんの少しだけ色がついたように感じられる。
王族の威光を示すためだけに造られたような廊下を、ヴィクトルは歩いていた。
歩けども歩けども、同じ景色が続く。石壁に挟まれた回廊に、窓から一筋の光が差し込んでいた。
窓枠に切り取られた長方形の向こうに、城下の街並みが広がっていた。
まるで絵葉書のように、そこだけが鮮明だ。
花の季節が過ぎ、街には瑞々しい若葉の色が広がっていた。
あの街の中で、今日もあの女は忙しなく働いているのだろうか。
マリーゴールドのような笑顔を咲かせながら。




