0 プロローグ
「おい誰だ、こんなところでナマコを干してるのは…」
青年は、げんなりとした顔で呟いた。
青年の名前はヴィクトル・フォン・アルヴェイン。
この国、アルヴェリア王国の第一王子である。
その第一王子は今、隙間風の吹くオンボロメゾンの共同食堂で途方に暮れていた。
食堂の机の上には竹で編まれた大きなざると、その上に乗った無数の奇妙な黒い塊。
磯の香りというにはあまりに生々しい、魚介類を煮込んで長時間放置したような匂いが部屋いっぱいに充満している。
「おいモヤシ、勝手に触るナヨ。それワタシの貴重な収入源。オマエの命よりずと重いからナ」
廊下側の出入り口からひょいと、お団子頭の娘が顔を覗かせた。
黒髪に猫のようにまん丸い黒い目。この国のものではない異国の民族衣装を纏って、片言でヴィクトルへ警告する。おまけにカンフーのポーズを取って威嚇までしていた。
モヤシと呼ばれた第一王子は、カンフー娘の威嚇も気にせず部屋の空気を入れ替えようと慌ててメゾン中の窓を開けていた。
「ナマコってさぁ…お尻で呼吸してるらしいぜ。肛門から吸った海水から酸素を取り込むんだって」
「つまり普段尻から空気を出してる俺たちは逆ナマコってことか?いや、ナマコが逆人間なのか?」
「ナマコ、俄然興味が湧いてきたぜ。対なる存在として一度挨拶に行かねえとな。
おい自称王子、金くれよ。俺たちァ今から海の兄弟に菓子折り持ってフィストバンプしに行くんだ」
ナマコ臭も気にせず食堂のテーブルに座していた二人組の男が、ヴィクトルに真剣な口調で話しかける。
卵のようなごろんと丸い体型に瓜二つの顔面。ふざけた頭身に似合わない、渋く厚みのあるチェストボイス。
「悪い今忙しいから本当に黙っててくれ」
二人は鏡合わせのように揃った動作でヴィクトルへ片手を差し出し金をせびるが、ヴィクトルは慣れた様子でそれを無視した。
二人揃ってチッと盛大な舌打ちをかますと、食堂を出て行った。
昨日、この馬鹿双子が散らかした食堂を半日かけて掃除したというのに、今度は一日も経たずカンフー娘によって部屋中にナマコ臭を染み付けられている。
何故こいつらは部屋をまともに使えないのか。
ヴィクトルはひどく長いため息を吐いた。
食堂に隣接するキッチンの窓も換気しにいくと、作業台の上に何か紙切れが置いてあるのが目に留まった。
『おはようヴィクトルちゃん♡今日もメゾン・ベルグレイスへようこそ♡
お姉さんは今日も朝が早いの。ヴィクトルちゃんに会えなくて残念だわ…
だから、ヴィクトルちゃんのことを想って、杏のタルトを焼きました♡
杏の花言葉って知ってる?杏の花言葉は…【乙女のはにかみ】
今日もヴィクトルちゃんにとっていい日になりますように☆
♡キャサリンより♡』
紙の上では丸く可愛らしい文字が踊っていた。
端には口紅の跡まで残されている。
すぐそばには艶々と輝く杏をたっぷりと乗せたタルトが置かれていた。
ヴィクトルはこれを書き残した人物の姿を脳裏に思い浮かべた。
ふんだんにレースがあしらわれたベルベットのドレス。
艶やかな巻き髪に、一際目を引くローズピンクの口紅を塗った、
屈強な、成人男性。
記憶の中の彼──いや、彼女がん〜まっ♡と投げキッスを飛ばしてきたあたりで、ヴィクトルは片手で思考を振り払った。
こってりと口紅が塗りつけられた紙切れを屑かごに早々に投げ捨て、キッチンの窓を開けると、階下に一人の女の姿が見えた。
女の姿を目で捉えた瞬間、ヴィクトルの心臓がどきりと跳ねた。
陽光を溶かしたようなオレンジ色の長い髪が、弾むような歩調に合わせて揺れている。
彼女の周囲だけ、世界の色彩が一段と鮮やかになったように感じられた。
女は二階の窓から見下ろすヴィクトルに気付くと、ぱっと表情を明るくして大きく手を振った。
やがて、ぱたぱたと軽快な足音を響かせながら食堂に辿り着いた。
「ヴィクトルさん、おはようございますっ!今日も来てくれたんですね!」
女は息を整えながら、花が咲くような満面の笑みを向ける。
この女の名はトリシャといった。
彼女の春の野原のような若草色の瞳で見つめられるだけで、ヴィクトルの鼓動が早まる。
トリシャと出会ってからというもの、ヴィクトルの胸は毎日高鳴りっぱなしだった。
今日も相変わらず可憐だ、と見惚れそうになったところで、トリシャが何か背負っていることに気付く。
それは大きな竹製の籠で、格子の隙間からぽたぽたと水滴が垂れて床を濡らしている。
よく見ると、トリシャの服や靴も所々濡れていた。
そして、どこかで嗅いだ覚えのある磯の匂い。
「……おい、その背中の…」
「ああっ!これはですね!」
ヴィクトルが恐る恐る背中の籠を指で指すと、トリシャは興奮した様子でくるりと背を向ける。
籠の中には大量の生きたナマコが蠢いていた。
「ひっっっ…!?」
黒くぬらぬらとした塊が無数に蠢く様に、ヴィクトルは思わず壁際まで後ずさる。
「シャオさんのお手伝いで昨日からナマコを獲っておりまして!
初日は手こずってしまったんですが、今日は面白いほど獲れたんですよ!
見てくださいこれ!この子とか特に立派で!ほらほらほら!」
トリシャは怯えるヴィクトルの様子など意にも介さず鼻息荒く話し続ける。目は恐ろしいほどにきらきらと輝いている。
そして籠の中からむんずとナマコを掴み取ると、ヴィクトルの眼前に突き出した。
ヴィクトルは顔面に迫るグロテスクな生き物に半泣きになりながら、少しでもそれと距離を取ろうと必死に顔を背ける。
そうだ、こういう女だった。
少しばかり可愛らしい見た目をしているからつい忘れてしまいそうになるが、この女も変態の一員なのであった。
朝一からナマコを乱獲し、人の顔面に押し付けるエキセントリックな女。
常に動き回っていないと退屈で死んでしまう回遊魚のような女。
何故こんなとんちきな女に惚れてしまったのだろうかと、ナマコの裏側を薄目で見ながら自分を恨む。
やがて、ぺちょりという音を立てナマコがヴィクトルの頬に張り付いた。
その瞬間、メゾン・ベルグレイス中にヴィクトルの悲鳴が響き渡った。
読んでいただきありがとうございました!!
感想やレビュー、評価、ブックマークなどなど、反応いただけるととても嬉しいです!!よろしくお願いします!!!!!




