ハートJ/カフェオレ
いつものように森沢隆君は、喫茶『珈琲塾』の奥の席でアイスティーをすすっていた。
アイスティーはこの店の人気メニューで、グラスでなく金魚鉢に注がれた特大サイズだ。
「ところで、君は機械論的決定論って知ってるかい」
森沢君はぼくが向かい側に腰掛けると、唐突に話し始めた。
「えっ?それって何の話?」
「簡単に言えば、この世の運命はすべて決まっている、という思想だ」
森沢君は大学時代の友人で、ウェブ開発の仕事をしているフリーのプログラマーだった。
小太りのオタクでまだ三十歳になってないが、実年齢よりやや老けて見える。
秋葉原で買ったアニメ柄のTシャツに褪せたジーンズ。黒縁の眼鏡にぼさぼさのマッシュルームカット。
森沢君は量子力学の薀蓄を滔々と語り始める。
ぼくが聞いていようが聞いていまいがお構いなく、森沢君は自分の世界に浸っている。
もっとも、昼でも夜でも下ネタしかしゃべらないチャラ男系の友人や、いい歳して地下アイドルの追っかけをやってるミーハーな連中にくらべれば、自分としては森沢君のようなオタクキャラの方が馬が合う。
森沢君の話はこうだった。
この世のすべての物質は原子で出来ている。原子は原子核の周りを電子が回って構成されている。分子は複数の原子から構成され、分子自体も運動している。
もともと物質のあらゆる運動は力学的にすべて決定している。
原子、分子、そして電子まで含めて、すべての運動を物理学的にシミュレーションできれば、宇宙の全事象は予測可能になる。
人間の一生も宇宙の事象の一部。人間の意識もまた宇宙の事象の一部。人間のあらゆる思考や感情は脳細胞の運動に還元でき、それは脳細胞を形成するタンパク質の分子の運動に還元できる。
だから人間の運命は意識まで含めて最初からすべて決まっている。
「本当に」ぼくはブレンドを注文した後で言う。「ぼくらの運命って決まってるの?」
「いや、『ハイゼンベルクの不確定性原理』というのがあって、厳密な意味で機械論的決定論は否定されていると言っていいかもしれない。
粒子の位置と運動量を同時に正確には測定できない。粒子の位置を測定しようとすると運動量が曖昧になり、運動量を測定しようとすると今度は位置が曖昧になる。そこで粒子は波のようなものと考える。
ここからは学者によって説は別れるようだが、完全な意味での決定論は下火のようだ。
ところが百パーセントでなければゼロパーセントというわけではない。粒子の位置が計算した位置より、ほんの少し別の場所にあったって、大勢に影響はないだろう。
たとえば靴下の長さが左右で十センチ以上違ってたら、そんな靴下履きたくないが、左右差がコンマ三ミリ以下だったらどうだろう。多分、左右差に気づかないだろう。
運命は誤差付で決まっているということなんだ。
力学的に原子や分子の運動を計算して、未来を予測したとする。その結果、たとえば隣の銀行に明日の九時十五分十五秒に銀行強盗が入ると算出された。ところが実際には九時十五分三十五秒に銀行強盗が押し入ったとする。どうだい。誤差はあっても、これなら未来を予測する意味はあるだろう。
『確率過程量子化』という考えによれば、百パーセントの決定論は無理でも、九割や八割の蓋然的決定論は証明されたことになる。それに・・・・」
「だからさあ」ぼくは無理やり遮った。「分かりやすく言って、物理学的に運命は決まってるの?」
「分かりやすく言えば、答えはイエスだ。今、君がここにいるのも、君が生まれる前から決まっていたんだ。厳密には八十パーセントくらいの確率でね」
「だからって、それに何の意味があるの」
「実はこんなサイト見つけたんだ」
森沢君はタブレットPCをぼくに見せた。タブレットPCはWiFiでネットに接続しているのだろう。
英語のサイトだった。
「これ、星占いじゃないのかい」
「ジョニー・アンダーソンという占星術師のサイトだ。彼は天文学と量子力学の博士号も取得している」
「でも星占いだろう」
「占星術は太陽系の惑星の位置関係によって占う。つまり木星と天王星の角度、水星の逆行、土星がどの黄道十二宮に入っているか、といったことで運命を導き出すわけだ。
原子核の周りを電子が回るのは、太陽の周りを地球が回るのと同じだと思わないかい。宇宙がマクロコスモスなら原子はミクロコスモス。惑星の運動と原子の運動は力学的にシンクロしている。だから惑星の動きで大まかに未来が予測できるんだ。まあ、そんなことがこのサイトに書いてある」
「そんなもんかなあ」
ぼくは宇宙を空想してみた。
惑星が恒星の周りを回り、複数の太陽系が連結して銀河系を作り・・・・それが集まって分子の塊になり、タンパク質になり、最後に巨人が出来上がる・・・・。
今度は空想の翼を反対方向に向けてみる。原子核の周りを多数の電子が回り、電子の中には地球のように生物が棲息できるものがあって、電子の表面に小人の住人がいる・・・・。
巨人が咳をすると、ぼくらも咳をし、小人も咳をする。小人が欠伸をすると、ぼくらも欠伸をし、巨人も欠伸をする・・・・。
「初回は無料で出来るんだ。やってみないかい」
ぼくは言われるまま、自分の生年月日を入力し、占ってみた。
英文の結果が出ると、森沢君は手慣れた手つきで自動翻訳サイトに貼って日本語訳を見せてくれた。
『今日、君はカフェオレを飲む』
ちょうどそのとき、ウエイトレスがコーヒーカップを持ってきた。
一口飲んでみる。いつものブレンドとは違う。ウエイトレスが置いていったレシートを見るとカフェオレになっている。カフェオレの方が値段が高い。
「ちょっと、すいません、頼んだものと違うんですけど」
ウエイトレスは驚いて「すいません」と言うと厨房に引っこみ、女性店長を連れてきた。
「申しわけございません。今すぐブレンドをご用意いたします」
店長はレシートをブレンドに直し、厨房へ戻るとしばらくしてブレンドを持ってきた。
「こちらは下げますか」
店長はカフェオレを下げようとした。
「いや、せっかくだから・・・・置いといてください」
「かしこまりました」
店長とウエイトレスが席から遠ざかると、森沢君がニタニタ笑っている。
「君はモンスタークレーマーだな。ブレンド一杯分の料金でブレンドとカフェオレを飲もうってのか。とんでもないやつだ」
「まあ、運命には従わなきゃ」
ぼくはカフェオレをもう一口飲んでみる。今まで気がつかなかったが、ブレンドよりおいしいかもしれない。この次この店に来たときはカフェオレを飲んでみよう。僕はそう思った。
占いが当たったのか偶然なのか、ぼくにはわからなかった。
決定論が本当なのかどうか、ぼくにはどうでもいいことだった。
だがぼくが今そう思うのも、木星と金星の運行がぼくの脳細胞に働きかけた結果かもしれない。
星の配置が変れば、ぼくはまた別のことを考えただろうか。
「どうだい」森沢君が言った。「今度は金払ってこの占いサイトやってみないかい」
「あんまり興味ないな」
ぼくは大きく伸びをした。宇宙の巨人と原子の小人も伸びをしているのだろうか、と空想しながら。
(完)




