第一話 昔話の、その先へ
「昔々あるところに、浦島太郎という、とても親切な漁師がいました」
日本の三大昔話のひとつ、『浦島太郎』。
誰もが一度は聞いたことがあるだろう。
「亀は助けてもらったお礼に、浦島太郎を竜宮城へと案内しました」
その原型は、奈良時代にまで遡ると言われている。
「浦島太郎は、竜宮城で乙姫様やお魚たちと楽しく過ごしました」
浦島太郎が玉手箱を開けるまでの物語は、誰もが知っている。
だが、その後の内容はどうだろう?
「玉手箱を開けた浦島太郎は、お爺さんになってしまいました」
玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、その後どうしたのか。そして、最終的にどうなってしまったのか。
これは、誰も知らない。
――浦島太郎の、その後のお話。
* * *
本が閉じられると同時に、室内に拍手の音が響いた。
それからすぐに、子どもたちのざわめきが聞こえ始める。
「ねーねー、どうして浦島太郎は玉手箱を開けちゃったの?」
「なんで? なんで?」
「お兄さん、教えて!」
次々と飛んでくる、純粋な疑問。
その声を向けられた一人の青年は、少し億劫そうに口を開いた。
「……知らないよ。浦島太郎に聞いて」
「えー!」
「なんで知らないのー?」
「知らないものは知らないって……」
彼の名前は、浦月結。
高校一年生。
そして今、夏休みの真っ只中である。
結は今日、この小さな図書館で、幼い子どもたちを相手に読み聞かせをしていた。
築五十年以上になる、古びた図書館。
決して大きくはないが、近所の人たちが本を読みに来たり、子どもたちが遊びに来たりする、地域の憩いの場のような場所だ。
結も幼い頃、父親と一緒によくここへ本を借りに来ていた。
――もう、昔の話だ。
「じゃあ、今日はここまでね」
結がそう言うと、子どもたちは一斉に立ち上がった。
「ばいばーい!」
「お兄ちゃん、また読んでね!」
「……はいはい。また機会があったらね」
元気よく手を振る子どもたちを見送り、結は小さく息を吐いた。
ようやく終わった…。
子どもたちが帰った後、結は片付けを始める。
使い終わったパイプ椅子を畳み、読み聞かせに使った本を元の棚へ戻していく。
そんな結に、一人の男性が声をかけた。
「結くん、今日はありがとうね」
この図書館の館長だった。
結が小さい頃から、この場所で何度も顔を合わせてきた人でもある。
「別に……学校でやれって言われただけなんで」
結は本を棚に戻しながら答えた。
今回のボランティアは、結が自分から進んで参加したわけではない。
夏休みの課題として、学校から出されたものだった。
『夏休み中にボランティア活動を行い、その内容についてレポートを作成すること』
それが今回の課題。
だから結は、仕方なくこの図書館へやって来たのだ。
「だとしても、結くんのおかげですごく助かったよ」
「……」
結の手が、ほんの少しだけ止まった。
悪い気分はしなかった。
けれど、素直に喜ぶこともできなかった。
「……そうですか」
それだけ言って、結はまた本を棚へ戻していった。
* * *
図書館を出る頃には、あたりはすっかり夕日に染まっていた。
遠くから、ヒグラシの優しい鳴き声が聞こえてくる。
その声を聞いた途端、張りつめていたものが切れたように、どっと疲労感が押し寄せてきた。
「……疲れた」
小さく呟いて、結は帰路についた。
海沿いを走る道路を、とぼとぼと歩いていく。
しばらく歩いたところで、ふと足が止まった。
結は顔を上げる。
目の前には、誰もいない綺麗な砂浜。
その向こうには、どこまでも広がる空。
そして、夕日を受けて朱色に染まった海が、静かに揺れていた。
「……綺麗だな」
思わず、そう呟く。
――この景色が好きだった。
結も。
そして、父も。
幼い頃、図書館からの帰り道。
父と手を繋いで、この場所から沈んでいく夕日を眺めていた。
波の音を聞きながら、何を話すでもなく、ただ並んで海を見ていた。
結にとって、ここは思い出の場所だった。
それなのに。
今、目の前に広がっている景色は、昔と何も変わっていないはずなのに――
なぜか、昔のように綺麗には見えなかった。
海も。
空も。
夕日も。
全部、綺麗なはずなのに。
まるで、自分の目の前にだけ薄い雲がかかっているようだった。
「……なんでだろ」
結は小さく呟いた。
どうして、昔はあんなに綺麗に見えたのだろう。
どうして、今はそう見えないのだろう。
考えようとして――やめた。
答えを出したところで、きっと自分が辛くなる。
だから、考えない。
結は、自然に止まっていた足を再び動かした。
夕暮れの海を背にして、結は母の待つ家へと帰っていった。
* * *
家に着く。
玄関の扉を開けると、母がいた。
「おかえり」
暖かくて、優しい声だった。
「ただいま……」
結は短く返事をする。
「読み聞かせ、どうだった?」
「別に……。疲れただけ」
「そっか……。ご飯、もうすぐできるから待っててね」
母はそう言って、キッチンへ戻ろうとする。
その背中に、結が声をかけた。
「今日も、あの夕日見てきたよ……」
「そうなの……」
母の視線が、リビングのカウンターへ向いた。
そこには、一枚の写真が置かれていた。
写真の中で、結の父親が笑っている。
その隣には、菊やカーネーションなどの花が供えられていた。
「結、お父さんとあの景色見るの、好きだったもんね……」
「……」
結は何も答えなかった。
「……ごめんね」
母は小さくそう呟くと、キッチンへ戻っていった。
結も何も言わず、二階にある自分の部屋へ向かった。
* * *
それから夕食と風呂を済ませ、結は自室で片付けをしていた。
カバンをしまおうと、部屋の隅にある襖を開ける。
中には、プリントや使わなくなったおもちゃ、昔の本。
その他にも、いつから置いてあるのか分からないものまで、所狭しと詰め込まれていた。
「……少しは片付けるか」
この部屋が父親の部屋から結の部屋になって以来、まともに片付けた記憶はない。
結は散らかった物を一つずつ取り出し、整理していく。
そのときだった。
襖の奥。
隅に置かれていた、ひとつの箱が目に入った。
「……こんなもの、あったっけ?」
結は箱を取り出し、机の上に置いた。
黒い箱だった。
かなり古いものらしく、ところどころが錆びついている。
近づいてみると、どこからか磯のような匂いがする気がした。
そして、箱の蓋は一本の紐で固く縛られていた。
「……」
見れば見るほど、今日読んだ昔話に出てきたものに似ている。
「……玉手箱?」
そんな言葉が、自然と口からこぼれた。
もちろん、本物の玉手箱だなんて思ってはいない。
ただ、少しだけ気になった。
「開けてみるか……」
結は紐に手をかける。
ゆっくりと、結び目をほどいていく。
そして――
紐が解けた。
その瞬間だった。
「……え?」
箱と蓋の隙間から、突然まばゆい光が漏れ出した。
「なっ……」
結が思わず身を引く。
箱が、
ガタッ!
と大きく揺れた。
「……っ」
結は息を呑む。
しばらくすると、箱は何事もなかったかのように静かになった。
それと同時に、漏れ出していた光も消えていく。
部屋に、静寂が戻った。
「……なんだったんだ、今の」
怖かった。
明らかに普通の箱ではない。
それでも、結の中に生まれた「中を見てみたい」という気持ちは、恐怖よりも強かった。
ゆっくりと蓋に手をかける。
そして――
開けた。
煙は出てこなかった。
当然、結がお爺さんになることもない。
ただ。
箱の中には、“何か”がいた。
「……なに、これ」
手のひらに収まりそうな、小さな姿。
一見すると、どこか愛らしい妖精のようにも見える。
結は首を傾げた。
「なんだ。ただのぬいぐるみか……」
そう思いながら、箱の中からそれを取り出す。
「……じゃあ、なんでさっき光ったんだ?」
手のひらに乗せた、その瞬間。
結の表情が変わった。
温かい。
そして――
微かに、動いている。
「……え?」
耳を澄ます。
小さな呼吸音が聞こえた。
結は恐る恐る、その“何か”を見つめる。
すると、それは苦しそうに身体を丸めた。
小さな身体が、わずかに震える。
生きている。
ぬいぐるみなんかじゃない。
目の前にいるのは――
正真正銘の、“何か”だった。
「…………え?」
こんにちは。磯悠です。
この作品を読んでいただき、ありがとうございます。
「浦島太郎の里帰り」の前回の続き(4話)を書こうと思ったのですが、あまりにも内容が薄っぺらすぎると感じてしまい、今回、改稿させていただきました。その分内容はより濃く、より深いものになっています。
新しくなった「浦島さんの里帰り」を応援していただけると嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたしします。




