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「……ロエナ、本当にいいのか?」


 扉の隙間から差し込む午後の日差しが、石造りの床に細長い影を落としている。王宮の一室、すでにがらんとした部屋の中で、ロエナは淡々と荷物をまとめていた。手つきは静かで、整然としている。

 その背後から、ヴィルヘルトの低い声が響いた。彼の隣には、エリシャが不安げに立っていた。


「あら。何がでしょう?」


 ロエナは振り返らず、布に包んだ小物をトランクに収めながら、柔らかく答えた。口調はいつも通り穏やかで、けれどどこか、遠くの空でも見つめるような虚ろさを孕んでいる。


「……その、王宮を離れて、本当に困らないのかって……」


 ヴィルヘルトの言葉は続かない。彼女がこの場所を去る理由───それを誰もが知っていた。

 ルベルトは処刑され、ロエナはその元婚約者。もはや王宮にとどまる理由は失われ、エリシャへの妃教育という役目も終わった今、彼女に与えられる場所はなかった。


 それだけではない。

 ヴィルヘルトの婚約者になれなかったロエナは、実家のエディノース家からも見放されていた。帰る家もなく、頼るべき縁も絶たれている。


 ロエナはふっと、短く息を吐いて肩をすくめた。


「わたくしは、ただのロエナになってしまいましたから。……どこか静かな片田舎にでも移り住んで、ひっそりと余生を送るのも悪くありませんわ」


 言葉は軽やかで、まるで他人の運命について語るように平坦だった。その淡々とした語り口に、エリシャは思わず胸を詰まらせる。


「でも、それでは……あまりに、寂しすぎます……」

 

 エリシャの声は、今にも泣き出しそうに震えていた。ロエナはそんな彼女に、そっと優しい微笑みを向ける。


「エリシャ、どうかわたくしのことは心配なさらないで。あなたはこれから王妃として、たくさんの責務と幸せを担っていくのだから」


 ロエナはそう言って、彼女の肩に静かに手を置いた。その指先には余計な力はなく、むしろこれまでの名残を惜しむように、そっと、短い温もりだけを残す。


「……でも、ロエナ様……!」

「毎月、一通で構わないわ。手紙を送ってくれれば、それだけでわたくしは十分幸せですから」


 ロエナは背を向け、振り返らずに歩き出した。エリシャの息を呑む音が背中越しに伝わる。けれど、ロエナはもう、未練も後悔も残してはいなかった。


 王宮の大理石の廊下を歩き抜け、重い扉を押し開ける。

 そこには、かすかに花の匂いの残る庭園と、やわらかな春風。そして、ひときわ異質な影がひとつ、木陰の傍らに佇んでいた。


「……ロエナ」


 声に振り向くと、ルクルーシュが立っていた。その黒髪は風に揺れ、光を吸い込んで深い夜色に染まっている。


「あら、ルクルーシュ……どうしたの?」


 ロエナが近づくと、彼は小さく喉を鳴らして言葉を探し、やがてゆっくりと一歩、彼女との距離を縮めた。


「……伝えなければならないことがある」

「ブローチのことなら気にしないで。あれがあったからこそ、真実が明るみに出たのよ。むしろ感謝しているくらいだわ」

「……違う、そうじゃないんだ」


 ルクルーシュの声はかすかに掠れ、しかし言葉の端々には必死な熱が滲む。もう一歩、また一歩と間合いを詰める彼に、ロエナは思わず動きを止める。


 次の瞬間、ルクルーシュは迷いのない手つきで、そっとロエナの手を取った。

 魔族は人より体温が低い───そう誰かが言っていた。でも、今ルクルーシュの手は信じられないほど熱かった。焼けつくような掌の温度が、皮膚の奥にまで沁みてくる。


「……その……」


 ルクルーシュは言葉を探して口をつぐみ、指先が震えている。

 ロエナは、じっと手を繋がれたまま、彼の熱のこもった掌と、不安定に揺れる心臓の鼓動だけを頼りに、静かに相手を見上げた。


 ルクルーシュは、小さく息を呑む。耳の先まで真っ赤に染まり、赤い瞳が、珍しく戸惑いで揺れている。


「……俺と、結婚してほしい」


 その言葉は、ほとんど囁きに近かった。

 けれど、確かな決意と、どうしようもない切実さが、そこには宿っていた。


 ロエナは思わず息を呑む。

 世界のすべてが一瞬止まったように、風も小鳥のさえずりも、庭園の色彩さえも、遠ざかっていく。


「……突然こんなことを言って、困らせてるのは分かっている。だが……どうしても、伝えたかったんだ。……すまない」


 言い終えたルクルーシュは、苦しげに眉を寄せ、うつむいた。それでも、真紅の瞳はロエナから決して逸らさない。必死に自分の想いを、声に、形にしようとしている。


「……ロエナは、強い女性だ。ひとりで前を向いて、誰の助けも借りずに歩き出せる。でも……」


 一拍の間。


「それでも、俺は、お前を守りたい。お前がもう誰にも頼らなくていいように、今度は俺が、そばでお前を支えたい。……この気持ちを偽りたくなかったんだ」


 ロエナは、目を見開いたまま動けなかった。


 彼女の人生はいつも、誰かから「求められる」ことの連続だった。

 両親からは「王妃としての役割」を。

 ルベルトからは「悪女であること」を。

 エリシャからは「過去を変える力」を。

 民からは「完璧な王妃」となることを。

 与えられることもなく、ただひたすら、他人の期待や欲望を背負わされてきた。


 でも今───ルクルーシュの言葉には、押し付けがましい願いも、重たい役割も何もなかった。ただ、まっすぐな「共に在りたい」という意思と、不器用な優しさだけが、そこにはあった。


 ロエナは、ふと我に返るようにして、そっとルクルーシュの手を離した。

 一瞬、拒絶の気配が空気を曇らせる。ルクルーシュは不安げに視線を落とし、影を帯びた顔がほんの少し沈んでいく。


 だが、ロエナはすぐに彼の両頬を両手で包み込んだ。


 その動きはやさしく、しかし迷いなく。指先で彼の頬骨の熱を確かめるように撫で、そして何の前触れもなく、彼の唇に短く柔らかなキスを落とした。


 ルクルーシュは息を呑んだ。瞳を大きく見開き、頬から耳の先まで一気に赤く染まっていく。何も言葉が出ず、ただ呆然としたまま、まるで夢を見ているかのようにロエナを見つめていた。

 そんな彼を見つめ返しながら、ロエナは口元を覆いきれない微笑みでいっぱいにした。


 ───ねえ、ルクルーシュ。わたくしはね、今まで誰かに「支えたい」「守りたい」って言われたことなんて一度もなかったの。


 もちろん、求められることが嫌だったわけじゃないの。でも、こうして誰かに寄り添ってもらえることが、こんなにもあたたかくて、心を強くしてくれるものだなんて知らなかった。


「ろ、ロエナ……!急になにを……!」


 ルクルーシュはうろたえながらも、どこか幸せそうに震えた声を漏らす。ロエナは可笑しそうに笑って、彼の肩に手を回し、そっと身体を寄せた。


「ふふ、ごめんなさい。わたくし、嬉しくて……つい、抑えきれなくなったの」


 ルクルーシュの胸元に顔をうずめる。その胸の鼓動はまるで子供のように高鳴り、彼女の髪を包む腕も、少しだけ力強く、しかし大切そうに優しかった。


 ───ありがとう、ルクルーシュ。本当にありがとう。


 わたくしも、貴方のそばにいたい。


 あなたを支えて、あなたのことを、ずっと守ってあげたい。


 もう誰にも、何も奪わせたりしない。

 これからは、二人で、互いの人生を歩んでいける。


 ロエナの唇が、耳元でそっと囁く。


「わたくしも、貴方と同じ気持ちよ。だから、これからはずっと、隣にいさせてちょうだい」


 庭園の静けさの中、二人の影は重なり、春風と共にゆっくりと揺れた。

 この日、ロエナはようやく「誰かと生きていく未来」を、初めて本当に信じることができたのだった。






閲覧ありがとうございました!!

少しでも面白いと思ってくださったら、評価★やブックマークよろしくお願いします♪


今回をもちまして、お話は終わりとなります!今後は番外編を不定期で更新していきますのでお楽しみに!


ご愛読ありがとうございました!それではまたどこかで……!

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― 新着の感想 ―
本編完結おめでとうございます。 お二人が幸せになりそうでとても良かったです。 とても読み応えのある文章でした。情景描写が私に合っているのだと思います。読みやすかったです。 まだまだ寒さが厳しい折、お体…
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