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ブローチに嵌め込まれた赤い石が、脈打つように淡く光り始めた。
まるで心臓の鼓動を借りたかのように、光はゆっくりと強まり、そして会場の静寂の中に、ひそやかなノイズとともに声が滲み出す。
『……お前は、エリシャのことを、どう思っている?』
『エリシャ様のこと、ですか?とても勉強熱心で、心根の優しいお方だと思いますよ』
直後に記録石から零れ落ちたルベルトの声は、あまりにも異様だった。
『違う……違う、違う……違うはずだ、ロエナ……!お前……本当は、エリシャのことが憎くて仕方ないんだろう?そうだろ?ずっと、ずっと王妃になることだけを夢見てきた癖に───何もかも、あの女に奪われて……それで何も思わないはずがない!そんなの……嘘だ、ありえない……!』
声は、まるで自分自身を説得するかのように、同じ言葉を噛み砕いては吐き出し、ねじれるように歪んでいく。
怒りと妬みと、どうしようもない渇望が、音となって会場に広がり、聞く者の皮膚を這うようにまとわりついた。
ざわめきは、誰の喉からもこぼれない。
ただ、重たい沈黙だけが、じわじわと人々の胸を圧迫していく。
『エリシャを……全てを奪ったあの女を……この手で、消してしまいたい───殺したいと、そう、思っているんじゃないのか……?』
『なっ、なにを……!何を仰るのですか、ルベルト殿下……!わ、わたくしは……そんな、そのような恐ろしいこと……!考えたことすらありません……!』
記録石から流れるロエナの声は、怯えと動揺を孕み、震える息遣いまで生々しく再現していた。その恐怖は、まるで今まさにこの場で言い放たれているかのように、会場の空気を冷たくする。
『……今のは、聞かなかったことにして差し上げます……ですが二度と……二度とそのような不吉な言葉を、私の前で口にしないでくださいませ……!』
そこで、音声はぷつりと途切れた。
まるで、喉元を指で塞がれたかのように、唐突に。
次の瞬間、会場の視線という視線が、一斉にルベルトへと突き刺さる。
その視線は、容赦なく冷ややかで、まるで目の前の人間がすでに断罪を受けた犯罪者であるかのようだった。
その中で、ルクルーシュが静かに口を開いた。声は地を這うように低く、耳の奥にまとわりつく。
「お前は、己の欲と妄執のために聖女を殺そうとしたが───」
その言葉は、音よりも重く、空気そのものを冷たく変える。
「思い通りに動かぬロエナに逆上し、今度は彼女を口封じのために殺そうとした……違わないな?」
沈黙が重く沈みこみ、会場の熱気も光も吸い取られていくようだった。誰もが息をひそめて、この場の結末を見届けるしかない。
「ち、違うッ!」
その静寂を切り裂くように、ルベルトの声が響いた。しかし、それはもはや威厳も誇りも失った、哀れで滑稽な悲鳴でしかなかった。
「全てロエナが言い出したことだ!リリザの果実が毒になることも!それを使えば足がつかないと言ったのも!計画を考えたのも……!全部、全部ロエナだ!この話をした後で、あいつが……あいつが計画を持ちかけてきたんだ!!嘘じゃない!」
言葉は雪崩のように溢れ、もつれ、噛み合わないまま吐き捨てられる。
必死に紡いでいるはずのそれは、もはや弁明ですらなく、目の前の現実から逃げるために他者へ泥を塗りつける、醜悪な責任転嫁にしか見えなかった。
貴族たちの視線が、さらに冷たくなる。嫌悪と軽蔑が、はっきりと混じる。
「……そんな……!」
ロエナは、まるで足元から力が抜けたかのように、わずかによろめいてみせた。
「わたくしは……そのような恐ろしいこと……!」
声はかすれ、目元には今にも涙が溢れそうな色が宿る。───突然、身に覚えのない罪を着せられた被害者。誰の目にも、ロエナはそう映っていた。
その様子が、ルベルトの神経をさらに逆撫でした。
「ロエナッ!貴様……っ!俺に罪をなすりつけるつもりか!この、意地汚い阿婆擦れ───ッ」
その瞬間だった。
ルクルーシュの真紅の瞳が、ゆっくりとルベルトを見下ろした。声を荒げることもなく、ただ視線だけで───それだけで、場の空気が重く圧縮される。
まるで見えない重石が胸に落ちてきたかのように、貴族たちは息を詰め、無意識に肩をすくめた。
「……貴様は今、被疑者の身だ。許しもなく口を開くな。その舌は、真実を語るためにあるのだろう?」
その一言で、ルベルトの叫びは喉の奥に押し戻される。
───その時だった。
これまで、まるで置物のように沈黙を守っていたエリシャが、ゆっくりと一歩、前へ出た。
絹のドレスがわずかに擦れる音が、異様なほど大きく響く。ざわめきかけていた会場は、再び息を潜め、無数の視線が一斉に彼女へと集まった。
誰もが、その行動を予想していなかった。ロエナでさえ、ほんの一瞬、目を見開く。
「……いつかは、こうなるだろうと……思っていました」
エリシャの声は、かすかに震えていたが、逃げるような弱さではなかった。長い沈黙の底に沈めていたものを、無理やり引き上げるような、痛みを含んだ響きだった。
彼女はゆっくりと会場を見渡す。
王族、貴族、魔国の使節たち。その一人一人の顔を確かめるように、視線が巡っていく。
「皆様……彼の罪は、ロエナ様を殺害しようとしたことだけに留まりません」
その言葉が落ちた瞬間、空気がざらりと音を立てて軋んだ。人々の表情に、戸惑いと警戒、そして得体の知れない不安が浮かぶ。
エリシャは、自分の胸にそっと手を当てる。
指先が、わずかに強張っているのが見て取れた。
「……私も、かつて……ルベルト殿下に、脅迫され、そして、暴力を受けておりました」
言葉は静かだった。
だが、その静けさが、かえって生々しい。
まるで、傷口を無理に開いて見せられたかのように、会場の空気が冷え、重く沈んでいく。
ルベルトが、喉を鳴らした。乾いた音が、不自然なほど大きく響く。
「なッ……!で、でたらめをッ───!」
その声は裏返り、言葉の端々が崩れている。だがエリシャは、視線を逸らさなかった。
「言うことを聞かなければ……私の生まれ育った孤児院を潰すと……そう言われました」
ざわり、と人々の間に波紋が走る。
「すべては……次期王妃候補であったロエナ様を悪女に仕立て上げ、正当な形で婚約を破棄させ……その空いた席に、私を座らせるためでした」
言葉は淡々としているのに、そこに滲むのは、長い時間をかけて擦り切れた諦念と、ようやく口にした者の痛みだった。
エリシャは、ゆっくりとロエナへ歩み寄る。ドレスの裾が床を擦る音が、妙に耳につく。ロエナの前で立ち止まり、深く息を吸ってから、はっきりと言葉を紡いだ。
「ロエナ様に、一時期悪女だという噂が広まっていたのは……私が、ルベルト殿下に言われるまま、その噂に加担してしまったからです」
視線が伏せられる。
「……心より、お詫び申し上げます」
エリシャは、深々と頭を下げた。その動作は、逃げでも計算でもなく、ただ、己の罪を背負う者のそれだった。
会場が、目に見えてざわつき始める。ささやき声が、波紋のように広がっていく。
「聖女様に暴力を振るって、無理やり従わせていた……?」
「ロエナ様に罪を着せてまで、聖女様を隣に置くために……」
「そんな……王族の名が泣くわ」
「なんと卑劣な……!」
囁きは一つ二つでは終わらない。まるで感染した病のように、あちらこちらで新たなささやきが生まれ、増殖し、渦を巻き始める。
その中で、ルベルトはぶるぶると震えていた。しかし、もはや後には引けないと悟ったのか、突如として声を荒げた。
「で、でたらめを言うな!証拠が……証拠がないじゃないか!」
声は怒号のつもりでも、悲鳴のように裏返る。だが、もはや誰も彼を救おうとはしなかった。人々の視線は、かえって冷たさを増し、さらに重たくルベルトの肩にのしかかる。
エリシャは静かに彼を見据えた。
「証拠は、確かにありません」
その瞳は、今まで一度も見せたことのないほど冷ややかに澄んでいた。
「……ですが、それでいいのです。暴力や脅迫が、確かにあった───この事実を、皆様に伝えたかっただけですので」
堂々たる声でも、涙混じりでもない。ただ事実だけを置いてゆく、冷たく静かな言葉だった。
ルベルトは歯を食いしばる。だが、その音はやけに生々しく、誰の耳にも必死の悪あがきにしか映らない。
気付けば、会場の誰もが「暴力」「脅迫」という単語に、静かに、しかし絶対的な真実の重みを感じていた。
証拠など不要だった。
聖女エリシャがそう言った───それだけで、世界が塗り替えられていく。
ロエナは、白い指先でそっと口元を覆った。
その仕草は、あまりにも優美で、傷付いた令嬢として完璧な振る舞いだった。
潤んだ瞳を伏せ、長い睫毛の影に頬を沈め、誰の目にも「無実を貶められた、か弱い被害者」としか映らない。
───だが、その手の下で、ロエナの唇はかすかに歪む。
会場は、ざわめきに満ちている。
誰もが目の前の惨劇に息を詰め、誰もが正義の側に立とうとしている。けれど、彼らは本当の真実など見ていない。ただ、誰かがそう言った───それだけで、すべてを信じるのだ。
ロエナの頭の奥で、過去の記憶が冷たい光を放った。
(ルベルト、回帰前、貴方は証拠もなく、わたくしをエリシャを毒殺しようとした犯人だと、決めつけたわね)
あの時も、ロエナはルベルトと同じように「無実だ」と訴えてみせた。だが、群衆は誰ひとり耳を貸さなかった。
彼らは真実よりも、〝誰がその言葉を口にしたか〟に従っていた。
(でも、今の貴方はどうかしら?)
回帰前は、国を救った英雄として称えられていた頃のルベルト。その言葉には絶対的な重みがあり、誰もが彼を信じた。
しかし今は違う。
王妃の血筋に生まれただけの、何の勲もない第二王子。今のルベルトの叫びは、誰の耳にも届かない───届くはずもない。
会場の空気は、かつての自分を断罪した群衆とまったく同じ。
(重要なのは、真実じゃない。誰が、どんな声で、その言葉を口にするか───それだけよ)
ロエナは、唇の裏で静かに冷笑した。
痛ましい令嬢のふりをしながら、その奥底で勝者の愉悦に身を浸している。
この世界は、理屈も証拠も関係ない。
「信じさせる力」を持つ者が、現実すら書き換えてしまうのだ。
会場を埋め尽くしていた数百の視線は、まるでひとつの巨大な網のようにルベルトを絡め取っていた。
その中には、父である国王の冷ややかなまなざしも、兄ヴィルヘルトの目もあった。
かつては幼い頃から何度も家族として温かな光を注いでくれた視線───そのどれもが、今や石のように固く、冷たく、容赦のない色へと変わっていた。
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