38
ヴィルヘルトの誕生日を祝う宴の会場は、かつてないほどの熱気と華やかさに包まれていた。王城の大広間には高い天井から煌めくシャンデリアが幾重にも吊り下げられ、柔らかな光が絹のテーブルクロスや彩り豊かな花々を照らしている。
客人の中には、ひときわ異彩を放つ一団───魔国の王とその側近たちの姿もあった。彼らは異国的な衣装に身を包み、王都には珍しい艶やかな黒髪や紅い瞳を持つ者もいて、好奇の視線が絶えなかった。しかし、その存在はこの宴を一層特別なものにしていた。
侍女たちが琥珀色の酒を満たしたグラスを、客人たちの手へと静かに運んでゆく。淡いアルコールの香りが、花と香油の匂いに混じって立ち上る。
談笑の輪がいくつも生まれ、祝福の言葉や軽妙な冗談が飛び交う。だが、その華やぎの只中で、ロエナは自分に注がれる鋭い視線を感じていた。
ふと視線を巡らせれば、会場の隅にロエナの両親の姿がある。貴族として威厳を湛え、絹の礼服に身を包んだ父、気品漂うドレス姿の母。その二人が、ロエナと目が合った瞬間、わずかに表情を引き締め、睨みつけるような目を向けてくる。
その視線には、娘への苛立ちや不満、あるいは期待と不安がないまぜになっているようだった。だがロエナは、怯むことなく、むしろ柔らかく微笑んで見せる。
ロエナは手の中のグラスを、静かにくるりと回した。琥珀色の液体がグラスの内側を薄くなぞり、柔らかな光を反射してきらめく。彼女は表情ひとつ変えずに、その輝きをじっと見つめていた。
その時だった。
大広間の奥、王座に鎮座していた国王がゆっくりと立ち上がった。沈黙が会場に広がる。王の動きひとつで、それまで賑やかだった談笑もぴたりと止まり、すべての視線が王へと注がれた。
国王は、深い威厳を湛えたまま、ゆったりと周囲を見渡す。その瞳には、臣下たちを慈しむ父の優しさと、絶対者としての厳しさがないまぜになっている。
「皆の衆───」
低く、重みのある声が広い会場に響く。
「此度は、ヴィルヘルトの生誕を祝う宴に、遠方より参じてくれたこと、まことに感謝する。王族も、貴族も、魔国の賓客も、本日は一堂に会し、共に杯を傾けてくれたことを、王として心より嬉しく思う」
感謝の言葉に、場にいた誰もが背筋を伸ばし、真剣な面持ちで国王の言葉に耳を傾けていた。
王はひと呼吸おいてから、ゆっくりと次の言葉を紡ぐ。
「───して、皆に伝えたいことがある」
空気が引き締まり、緊張が場を包む。
「王太子、ヴィルヘルト・バインベルクと、聖女エリシャとの婚約を、ここに正式なるものとすることが決定した」
国王の宣言は、よどみなく力強かった。
一瞬、会場全体が静まり返る。息を呑む音、グラスを握る手が震える気配さえ感じられる。
やがて、その静寂を破るように、祝福と驚きの声があちこちから沸き起こった。
拍手が広がり、誰もが顔を輝かせる。
だが、その華やぎの片隅で、ロエナの両親はひそかに顔をしかめ、あからさまな苛立ちを隠そうともせず、身を翻して会場を出て行った。
ロエナは視界の端でその様子を捉え、わずかに唇の端を上げた。
(あらあら……これからが見ものですのに)
その時だった。ルベルトが静かにロエナへと歩み寄る。彼の顔には、何食わぬ笑みが浮かんでいたが、その目の奥には冷たい光が宿っていた。
ルベルトは巧みにロエナの杯へと小瓶の中身を一滴残らず注いだ。澄んだ酒に溶け込んだそれは、すぐさま痕跡も残さず消える。
「では───この素晴らしき日を記念して、皆で杯を上げようではないか」
国王の朗々たる声が再び場内に響く。その合図とともに、数百のグラスが一斉に高く掲げられ、澄んだ音色を重ねていった。
人々は、互いの幸福と未来を祈るように、杯を口へ運ぶ。
ロエナも、ほんの一拍だけ間を置き、周囲に合わせてグラスを唇に近づけた。
刹那───。
パキンッ───!
乾いた、しかし耳にこびりつくほど鋭い音が、会場の空気を切り裂いた。
皆が一斉に音の方へと振り向く。
視線の先、魔国の王───ルクルーシュが、手に持っていたグラスをまるで生き物の首をへし折るように握り潰していた。琥珀色の酒が床に滴り、静寂の中で音もなく染みを広げる。その顔は、激情に歪むどころか、逆に驚くほど冷徹な静けさに満ちていた。けれど、その静けさの奥には、凍てついた怒りがうねりを上げている。
「───ルベルト・バインベルクを捕えろ」
その声は、刃のように冷たく、会場の空気を切り裂いた。
一瞬、時が止まる。
次の瞬間、傍らに控えていたウォロが音もなく飛び出す。その動きは獣じみて素早く、抗う隙など与えないまま、ルベルトの腕を強引に捻じ上げた。
「まっ……魔王陛下!一体何を……っ!」
必死に抵抗を試みるも、ウォロの力は常人のものではない。
「その問いは、こちらが投げ返すべきものだろう」
ルクルーシュの声は微塵も揺るがない。
彼の真紅の瞳が、ルベルトを鋭く射抜く。光の加減で、その眼差しは血の色よりもなお深く、どこか底知れぬ闇のようだった。
「俺が気付かないとでも思ったか。……いや、見逃してもらえるとでも期待したか?」
ルクルーシュがじわりと一歩、ルベルトに歩み寄る。その靴音は絨毯に吸い込まれるはずなのに、不思議と耳にこびりつき、会場の全員が息を殺すのが分かった。
魔王の双眸は血のように深い紅。冷ややかで、底知れない怒りを湛えている。
「ロエナの杯に何を入れた?───答えろ」
吐き捨てるような低い声が、ルベルトの全身を貫いた。ルベルトはたちまち顔色を失い、脂汗を額に滲ませる。
ざわ……と、会場全体が波立ち、貴族たちが互いの顔を見合わせ、ざわめきが渦を巻く。
祝宴の華やかさなど、もはやどこにも残っていなかった。空気が重く沈み、誰もがルクルーシュの一挙一動に目を奪われている。
ロエナは白魚のような指先で静かに口元を隠していた。驚愕の表情を浮かべ、体をぶるぶると震わせる。
けれど、その震える手の下で彼女の唇は微かに吊り上がる。祝宴の熱気が一気に冷え込んだこの空間で、ただ一人、心の奥底からぞわりと湧き上がる愉悦を噛みしめていた。
───信じていたわ、ルクルーシュ。
祝辞の言葉に、会場の全員が王に注目する中、貴方だけは、わたくしを見てくれていると。
「はっ……?い、いや、違っ……!私は、そんな、決してそのようなことは───!」
ルベルトが慌てて否定の声を上げる。その叫びは、哀れなほど薄っぺらく、しどろもどろだ。
ルクルーシュは鼻先で笑った。
「言い逃れとは、なかなか良い根性だな。だが、俺の前で誤魔化しが通じると思ったのか?」
そう言って、ルクルーシュはゆっくりとルベルトの方へ手を伸ばす。
次の瞬間、まるで見えない鎖に絡めとられたかのように、ルベルトの身体がピタリと動きを止めた。骨の髄まで凍りついたような恐怖が、彼の全身を包む。
「ウォロ、この男の持ち物を調べろ」
ルクルーシュの声は冷たく、静かながらも抗えぬ力を帯びていた。指先がほんの僅かに動くだけで、大広間の空気がぴりぴりと震え、見えぬ稲妻が走るようだった。
ウォロは返事もせず、迅速かつ無駄のない動きでルベルトの服の内側を探る。
「……ありました」
やがて、細工の施された銀色の小瓶が、彼の懐から静かに姿を現す。その小さな物体ひとつで、会場の空気がいっそう冷え込む。
二重の沈黙の中、ウォロはその小瓶をルクルーシュに差し出す。
ルクルーシュは一瞥もルベルトにくれず、受け取った小瓶の蓋を、ゆっくりとひねった。
琥珀色の液体から立ち昇る、微かに甘やかな、そしてどこか毒々しい香り。
ルクルーシュは鼻先を瓶口に近づけ、ごく短く香りを吸い込む。
その紅い瞳が細く、残酷なほど冷静に細められた。
「やはり。リリザの果実か」
その一言が、会場の重苦しい沈黙を破った。ざわめきが雪崩のように広がり、恐怖と驚愕のささやきが交錯する。
ルクルーシュは目を細め、瓶を静かに閉じた。その瞳の奥には、まるで地獄の底を覗くような、冷ややかで烈しい怒りが灯っている。
「ロエナをこの場で手にかけようとしたのだな。違うか?」
声は囁くほど低く、だが一切の情けも容赦もなかった。まるで獲物をいたぶる肉食獣のように、静かに追い詰める。
「お、お待ちください、魔王陛下……!ルベルトが、弟が、そんな───そんなはずが……!」
ヴィルヘルトは信じたくないというように、必死にルクルーシュを見つめていた。
だが、ルクルーシュは微動だにしない。その双眸は冷徹に、すべてを見透かしているようだった。
「そうだろうか?私はむしろ……ようやく点と点が繋がった気分だ」
ヴィルヘルトが怪訝そうに首を傾げる。その動きを、ルクルーシュはゆるやかに見下ろしていた。
そして、パチンと、指先を鳴らす。
次の瞬間、どこからともなく現れたのは、真紅の宝石がはめ込まれたひとつのブローチだった。
「このブローチに嵌め込まれている石は、宝石ではない。記録石と呼ばれる魔石だ」
静かに掲げられたブローチは、わずかに闇に濡れたような艶を帯びている。
「この石は、聞いた音声をありのままに記録することができる」
その言葉を聞いた瞬間、ルベルトの喉がかすかに鳴り、青ざめていた顔がさらに紙のように真っ白になっていく。空気がひりつく。人々の視線がブローチに、そしてルベルトに集中する。
ルクルーシュは、何気ない仕草でブローチに指を添えた。
魔力を込めると、赤い石が淡く鈍く光り始める。
やがて───。
会場に、微かなノイズとともに録音された声が再生された。
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