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 ロエナは静かな足取りで自室へ戻った。夜の帳がすっかり降り、窓の外にはかすかに星の光が滲んでいる。室内はランプの灯りに照らされ、柔らかな影が壁を染めていた。

 椅子に身を沈めると、しんとした静寂が一層深く心に降り積もる。

 しかし、ふと───テラスの方から、微かな気配が漂ってきた。


 ロエナは口元をほころばせ、悪戯っぽく微笑む。

 そっと立ち上がると、厚手のカーテンを静かに開く。ガラス扉越しの夜気がひんやりと肌を撫でる。そのまま取っ手を引き、テラスの扉を開け放つと、夜の冷たい空気の中、黒衣の人影がじっとこちらを見ていた。


「……ルクルーシュ、やっぱり。まだいたのね」


 声をかけると、ルクルーシュは驚いたように目を瞬かせる。

 月明かりに照らされたその顔には、気まずさと戸惑い、そしてどこか寂しげな色が混じっていた。


「どうして分かったんだ……?気付かれないと思ってたのに」


 小さく苦笑してみせる彼に、ロエナは涼やかに肩をすくめる。


「ふふ、なんとなくね。さ、入ってちょうだい、ルクルーシュ。魔国の国王陛下をずっと夜風の中に立たせておくのは忍びないわ」


 促されるまま、ルクルーシュはわずかに身を引き締め、けれどどこか居心地悪げに視線を泳がせる。


「……ロエナ、俺がここに来たのは、どうしても伝えなきゃいけないことがあって……その……そのブローチのことなんだが───」


 言葉を探し、喉の奥で何度も飲み込むように躊躇う。その目には覚悟と不安が交錯していた。


「え?なあに?」


 ロエナは軽やかに問い返すと、微笑みながら小首を傾げる。


「ごめんなさい、ちょっと着替えてくるから、少しだけ待っていて。お茶も持ってくるわ」


 彼女はあえてルクルーシュの言葉を遮るように、胸元のブローチを外し、机の上にそっと置いた。そして夜の静寂の中、柔らかなドレスの裾を揺らして部屋を出ていく。ドアが静かに閉じる音が、室内の静けさをより一層際立たせた。


 取り残されたルクルーシュは、しばらくその場に立ち尽くした。夜風にカーテンがかすかに揺れる。窓の外には月が浮かび、青白い光が室内の一部を淡く照らしている。

 ロエナの姿が消えた扉の方を、しばらく所在なげに見つめていた。


 ふう、と重たい溜息を吐き、ルクルーシュは頭を抱えた。


(俺は、こんなにも臆病だっただろうか……?)


 自分の鼓動が妙に大きく響いてくる。ロエナを前にすると、いつも言葉が詰まる。普段ならば、どんな相手にも動じないはずの自分が、彼女の前ではまるで少年のように心許なくなる。

 こんな感情は初めてだ。ルクルーシュは机の上に置かれたブローチに視線を向ける。


 月明かりを受けて、ルビーのような石がほのかに光っている。会話を録音する魔法が施されていることは、ウォロ以外誰も知らない。魔力を込めれば、そこに収められた声が聞こえる。


 ───兄さんの行動はストーカーと一緒だよ。

 ───ロエナにこのことが知られたら、きっと嫌われちゃうね。


 ウォロの厳しい言葉が、また脳裏をよぎる。

 分かっている。やっていることが、どこか常軌を逸していることも、ロエナが知ればどれだけ失望されるかも。


 自嘲するように、ルクルーシュは短く笑う。

 叶わぬ想いだと、頭では理解している。ロエナには婚約者がいて、自分がその心に踏み入ることなど許されない。一方的な感情の押しつけは、王である自分には最も相応しくない振る舞いだ。


 けれど、それでも、どうしても抗えないのだ。

 彼女の一挙一動、声や笑顔、すべてが頭から離れない。胸の奥が締め付けられるように苦しくなり、指先が震えるほど愛しくなる。


 ルクルーシュは、机の上に置かれたブローチをそっと掌に包み込んだ。夜の静寂の中、宝石の冷たさがじわりと指先から伝わる。しばらく躊躇いがちに視線を落とし、理性と罪悪感が胸の奥でせめぎ合う。しかし、心の中でロエナに「すまない」と小さく詫びながら、彼はとうとう決断した。


 そっと、魔力を込める。

 記録石が、闇夜のランプの下で淡く、鈍い光を帯び始める。

 静かな部屋に、ごく微かな魔法音が響くと同時に───石の奥底から、かすれた声が漏れ出した。


『……お前は、エリシャのことを、どう思っている?』


 ルクルーシュは無意識に息を詰める。次いで、ロエナの声が響いた。どこか頼りなげで、不安げな音色だった。


『エリシャ様のこと、ですか?とても勉強熱心で、心根の優しいお方だと思いますよ』


 直後、記録石から漏れ出したルベルトの声は、想像していたよりもはるかに異様だった。震え、掠れ、底知れぬ執着が滲んでいる。


『違う……違う、違う……違うはずだ、ロエナ……』


 ルクルーシュは思わず眉を顰める。

 ただならぬ空気が、魔法石を通しても伝わってくる。


『お前……本当は、エリシャのことが憎くて仕方ないんだろう?そうだろ?ずっと、ずっと王妃になることだけを夢見てきた癖に───何もかも、あの女に奪われて……それで何も思わないはずがない!そんなの……嘘だ、ありえない……!』


 ルベルトの声はどこまでも粘つき、ねじれるような怒りと妬みが渦巻いている。


『私がエリシャ様を嫌う理由なんてありません……』


 ロエナの声は、震えていた。その細い声に、ルクルーシュは知らぬ間に拳を握りしめていた。


『エリシャを……全てを奪ったあの女を……この手で、消してしまいたい───殺したいと、そう、思っているんじゃないのか……?』


 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、ルクルーシュの呼吸が止まる。


 記録石から漏れ出したその言葉は、夜の静寂を汚す異物のように、重く、粘ついた響きを帯びていた。


 ルクルーシュの指先が、反射的に強く食い込む。ぎり、と嫌な音がして、次の瞬間、パキ、と乾いた亀裂の走る音がした。記録石は、彼の握力に抗えず、表面に細いヒビを刻む。


「……っ」


 思わず息を呑む。だが、割れかけた石の冷たさよりも、胸の奥に湧き上がる感情のほうが、はるかに熱く、荒々しかった。


(……ルベルト・バインベルク……)


 喉の奥で、名前を噛み潰すようにして、ルクルーシュは歯を食いしばる。

 何を言っている。ロエナに向かって、どうしてそんな言葉を投げつけられる。


 ロエナからは、何度も聞いていた。聖女エリシャとは友人関係で、尊敬している人だと。


 それなのに───あの男は、まるでロエナの心の奥底に、汚れた衝動が巣食っているかのように決めつけ、言葉をねじ込もうとした。


 記録石の淡い光が、ひび割れた表面で歪んで揺れる。

 その不安定な光は、まるで今のルクルーシュの心そのものだった。


 怒りは、音もなく胸の内に広がり、静かに、しかし確実に、彼の思考を黒く塗りつぶしていく。

 ロエナは誰よりも誠実で、誰よりも他人の心を思いやれる───少なくとも、ルクルーシュはそう信じている。そんな彼女が、ルベルトの言葉に、どれだけ傷つけられたか。


 ルクルーシュは、ひびの入ったブローチを強く握りしめたまま、動けずにいた。その掌の中で、冷たい石が、まるで不吉な予兆のように、微かに光を返していた。


「ルクルーシュ、お待たせ。……あら? そんなところに立ち尽くして、どうしたの?」


 茶器を載せた盆を両手に抱えたロエナが、静かに部屋へ入ってくる。ランプの柔らかな灯りが、白い指先と陶器の縁を淡く照らし、夜の静寂の中にかすかな音を落とした。


 ルクルーシュは、まるでそこに縫い止められたかのように、しばし動けずにいた。

 彼女の声にようやく我に返り、慌てて視線を向ける。


 ロエナは、心配そうに首を傾げている。つい先ほど、あれほど歪んだ言葉を投げつけられたとは思えないほど、いつも通りの、穏やかで柔らかな表情だった。


 ───友人への感情を勝手に決めつけられ、踏みにじられて。

 それでも、何事もなかったかのように微笑んでいる。


 その事実が、ルクルーシュの胸を締め付けた。


「……いや、なんでもない。少し、考え事をしていただけだ」


 そう答えた声は、思ったよりも低く、かすかに掠れていた。


「そう?なら、いいのだけれど……」


 ロエナは小さく微笑み、盆を机の上に置く。そして、ふと思い出したように首を傾げた。


「……それで、さっき言いかけていたわね。ブローチのお話、だったかしら?」


 その言葉に、ルクルーシュは一瞬だけ視線を逸らし、やがて懐からブローチを取り出した。


「……ああ。このブローチなんだが……ほら、石の部分に、ひびが入っている」

「あら……本当ね。言われるまで気が付かなかったわ」


 ロエナは少し驚いたように目を瞬かせるが、すぐに気にした様子もなく微笑む。

 ルクルーシュは、言葉を探すように一瞬だけ唇を噛みしめ、それからブローチをそっと懐へとしまった。


「……すまない。俺の不注意だ。新しく作り直して、また改めて贈らせてほしい」

「そこまでしなくても……でも、ありがとう。嬉しいわ」


 ロエナはそう言って、穏やかに微笑む。

 まるで何一つ知らない、何も疑っていないような顔で。

 けれど───その微笑みの奥、誰にも見えない胸の内では、静かな笑いが、ひっそりと花開いていた。


「……そうだわ、ルクルーシュ。この前話していたリリザの果実のことなのだけれど……もし可能なら、一つ、譲っていただけないかしら?」


 唐突に聞こえるその頼みに、ルクルーシュはわずかに目を瞬かせた。


「リリザを……?ああ、構わないが……どうして、急に?」


 問い返す声には、警戒よりも純粋な疑問が滲んでいる。ロエナは少しだけ考える素振りを見せてから、穏やかな口調で答えた。


「近々、主要商会を集めた評議の場があるの。その時に、リリザの危険性について注意喚起をしようと思って。言葉だけよりも、実物を見せたほうが、きっと伝わりやすいと思うのよ」


 理にかなった説明だった。

 ルクルーシュは小さく頷き、すぐに表情を和らげる。


「……なるほど。そういうことなら、いくらでも協力しよう。保管庫にあるものを手配させる」

「ありがとう、ルクルーシュ。本当に助かるわ」


 ロエナはそう言って、ルクルーシュの前に歩み寄る。そして感謝を示すように、そっと彼の手を取った。


 その瞬間、ルクルーシュの肩がわずかに強張る。頬に、はっきりと赤みが差し、気恥ずかしそうに視線を逸らした。

 それに対し、ロエナは何も知らない令嬢のように、やわらかく微笑みを返す。


 指先が触れ合う時間は、ほんの一瞬。

 それでもルクルーシュの胸には、確かな鼓動の高鳴りが残った。


 ───けれど。


 その微笑みの奥、誰にも見えない場所で、ロエナの思考は静かに別の形を取っていた。


(……ええ、ありがとう。あなたのおかげで)


 胸の内で、黒い花がゆっくりと開く。


(復讐は、驚くほどスムーズに進むわ)


 ランプの灯りに照らされたロエナの横顔は、あくまで優雅で、慈しみに満ちているように見える。

 だが、その内側では、冷たい計算と甘美な期待が、静かに絡み合っていた。


 ルクルーシュは、その視線に気づくこともなく、ただ彼女のために役に立てたことを、どこか誇らしげに思っていた。






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