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───自室の空気は淀んでいた。重苦しい静寂の中、ルベルトは机に突っ伏すようにして頭を抱えていた。
額を汗が伝い、指先はかすかに震える。胸の奥に巣食った苛立ちと焦燥が、心臓の鼓動を無遠慮に乱打する。
やらかした。──失態だった。
全身を舐め回すような後悔が、じくじくと皮膚の下で疼く。
畜生、ロエナ……あの女……ッ!!
あの女の名を心で呪うたびに、己の無力さが嫌というほど思い知らされる。そう、ロエナは思い通りにならない。どれほど計算し、罠を張り巡らせても、いつの間にかすり抜けて笑っている。
王妃の座──。
幼い頃から、それだけを目指して生きてきた女だ。誰よりも強欲で、誰よりも狡猾で、決して油断できない。だが、王位継承権はあっさりとヴィルヘルトへと移った。婚約者の席にも、エリシャが鎮座した。
あの時、ロエナが自らエリシャをヴィルヘルトの婚約者に推薦した時は、さすがに気が触れたのかと思った。だが……違う。
───あいつが、素直に身を引く女なものか。
脳裏に浮かぶのは、いつも不敵に微笑むロエナの横顔。あれは譲ったのではない。仕込んだのだ。
表向きには聖女を持ち上げ、ヴィルヘルトに恩を売る。その裏では──もっと深く、もっと粘り強く、二人の逃げ道を塞ぐための罠を張り巡らせている。
そうとしか思えなかった。あの女のことだ。表情一つ崩さず、澄ました顔で微笑むその仮面の奥に、どれだけ黒い企みを隠していることか。
もし、そうでなければ───。
ロエナがあれほど平然としていられる理由が、説明できない。
あの冷たい瞳、何もかも見透かすような視線。まるで──己の焦りや苛立ちすら、初めから計算に入れていたかのようだ。
記憶の中のロエナの声が、耳の奥でぞわりと響く。
『わ、わたくしは……そんな、そのような恐ろしいこと……!考えたことすらありません……!』
小さく震える声。憐れみを誘うような、哀しげな横顔。だが、あれは本当に怯えていたのか?あの女なら、すべて芝居だったとしても不思議はない。そう思うほどに、心の底で冷たい何かが蠢いた。
予想と違う反応。計算高く、賤しい女なら、俺の提案に頷くだろうと思っていたのに───まるで、思い通りに動くはずの操り人形が突然糸を断ち切ったような違和感が、胸に渦巻く。
どうする……。
今日、話したことをロエナが誰かに漏らせば、俺は終わりだ。王位の座はおそらく───もう、完全に失われてしまう。いや、そんなこと、許されるはずがない。何としても、口封じを───!
思考がぐるぐると同じ場所を回り始める。そのたびに、体の芯が冷たくなっていく。
───その時。控えめなノック音が、部屋の沈黙を裂いた。
「……? 誰だ……」
声が、ひどく掠れていた。戸の向こうから聞こえてきたのは、奇妙なほど落ち着いた声。
「ルベルト殿下、わたくしです。ロエナです」
一瞬、鼓動が跳ねた。
血の気が引いて、足先が痺れる。まさか、もう戻ってくるとは思わなかった。ロエナの名を呼びながら、ルベルトは吸い寄せられるように戸へと歩み寄る。
「ろ、ロエナ……!さっきの話は、冗談だったんだ!全部、忘れてくれ……!」
哀願とも懇願ともつかぬ声が、震え混じりに漏れる。戸が静かに開かれると、ロエナはそこに立っていた。
その顔は───さっきまでの怯えた仮面が嘘だったかのように、どこまでも静かで、感情の波を一切映さない湖面のようだった。
ロエナは黙って、ゆっくりと部屋の中へと進む。冷たい微笑。何もかも見透かすような瞳。その視線に射抜かれた瞬間、ルベルトの全身から冷や汗が噴き出した。
「……ロ、ロエナ……?」
喉の奥で声が擦れ、情けないほどか細く漏れた。唇が勝手に震え、うまく閉じることすらできない。ひくり、と口元が引き攣るのを、ルベルトは自分でもはっきりと自覚していた。
「き、聞いてるのか?っ頼む……さっきの話は……内密に……」
懇願するように言葉を絞り出す。その声音は、追い詰められた小動物の鳴き声に近かった。
「……いいえ」
返ってきたのは、短く、そして不思議なほど冷え切った声だった。耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。ロエナはゆっくりと瞬きをひとつし、視線を逸らすこともなく、淡々と続ける。
「自室に戻ってから、ずっと……考えておりましたの」
その声は静かだった。怒気も、苛立ちも、涙の気配もない。だからこそ、逆にぞっとするほど温度がなかった。
ルベルトは、思わず一歩、後ずさる。
ロエナの表情は、これまで見たどんな顔とも違っていた。慈愛の微笑でも、貴族らしい上品な仮面でもない。感情という感情が、薄く削ぎ落とされたような、冷えた顔。
まるで、磨き上げられた刃の平面を覗き込んでいるかのようで、そこに映る自分の姿が歪んで見える。
「……実は」
ロエナは、ほんのわずかに唇の端を動かした。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも乏しく、筋肉の動きだけを思い出したかのような、奇妙な形だった。
「平民のくせに、分を弁えもせず前に出てくる……あのエリシャのことが」
一瞬、言葉を切る。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
ルベルトは息をするのも忘れ、ただその続きを待ってしまう。
「……わたくし、ずっと……気に入らなかったのです」
静かな声だった。
けれど、その奥には、長い時間をかけて沈殿した澱のような感情が、どろりと張り付いているのがはっきりと分かった。
羨望でも、嫉妬でもない。もっと湿って、重く、腐りかけた執着の匂い。
「……そ、そうか」
喉の奥で何かが引っ掛かったような声が漏れ、ルベルトの口元は不自然に歪んだ形のまま持ち上がった。
笑っているつもりだった。だが、頬の筋肉は強張り、引き攣ったまま震えている。鏡があれば、自分でも見たくない顔をしていることくらい、分かっただろう。
(……やはり、か)
胸の内で、黒い確信が形を持つ。
この女が、王妃の座を奪われてなお、何事もなかったかのように微笑んでいられるはずがない。
長い時間をかけて、欲望と野心に血を通わせてきた女だ。そんな女が、あっさりと夢を手放せるはずがない。
そう思った瞬間、胸の奥に、安堵にも似た感情が滲んだ。敵意と同時に、共犯者を見つけた時の、生臭い安心感。
ロエナは、ゆっくりと顔を上げた。
伏せていた睫毛の影が、静かに持ち上がる。
その瞳には、先ほどまでの怯えも、取り繕った微笑もなく、冷えた水面のような静けさだけが宿っていた。
「殿下が、あのようなことを口になされた以上……きっと、何かお考えがあるのだろうと思いまして」
声は低く、滑らかで、無駄な抑揚がない。
まるで、ずっと前から用意していた台詞を、確認するように読み上げているかのようだった。
二人の視線が、部屋の中央で絡み合う。その瞬間、空気が重く沈み、呼吸するたびに、肺の奥に冷たいものが入り込んでくるような錯覚を覚えた。
「あぁ」
ルベルトは短く答え、ぎゅっと拳を握り締めた。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。その痛みが、かえって頭を冴えさせる。
逃げ道はない。引き返す場所もない。
ならば、進むしかないのだと、自分に言い聞かせるように。
「俺は……ヴィルヘルトに奪われた王位の座を、必ず取り戻す」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ、同時に、別の何かが固く組み上がるのを感じた。
理性よりも、もっと粘ついた衝動が、背骨を這い上がってくる。
「……お前も、王妃の座を取り戻したいのだろう」
視線を逸らさずに言い切る。
ロエナの瞳の奥に、自分と同じ色の闇が潜んでいると、確信していた。
「だから───」
ルベルトは、ゆっくりと言葉を選ぶように、しかし確実に、続けた。
「───あの二人には、消えてもらう」
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