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 ルクルーシュの唇から真実がこぼれ落ちる前に、ロエナは巧妙に話題をすり替えた。微笑みの下に隠されたしたたかな知性で、ブローチに宿る魔法石の危うさを煙に巻き、ルクルーシュが記録石の存在を口にする隙を与えなかった。


 そのやりとりを終え、ロエナはゆっくりと胸元にブローチを留めた。ルクルーシュの瞳と同じ、深く鮮やかな紅。胸の上で冷ややかに光るその宝石は、ただの贈り物というにはあまりに重く、まるで彼女の決意と策略を封じ込めたかのように静かに煌めいていた。


 ロエナはひとつ深呼吸し、背筋を伸ばす。自分の内側で蠢く〝使いどころ〟の思惑を整理しながら、まっすぐ廊下を歩いていく。その歩みは揺るぎなく、ドレスの裾が床を優雅に滑る音だけが、静まり返った王宮の中に響いた。


 ルベルトの居室の前に立ち、慎重な手つきで扉をノックする。


「ルベルト殿下、失礼いたします」


 返事を待ってそっと扉を開けると、部屋の中は薄暗く、どこか淀んだ空気に満ちていた。重厚なカーテンは半ば引かれ、外の光を拒むように分厚く垂れ下がっている。部屋の奥、執務机の脇に据えられた椅子にルベルトは座り、身体ごと深く沈み込んでいた。


 彼の姿は、一目で分かるほど疲弊しきっていた。かつては自信に満ち、常に昂然と背筋を伸ばしていた男が、今はまるで抜け殻のように見える。髪は乱れ、身だしなみもどこか投げやりで、机上には読みかけの文書や空になったグラスが散らばっている。


 エリシャも、王位継承権も───これまで見下してきたヴィルヘルトにことごとく奪われたのだ。プライドも、未来への希望も、あらゆるものが砕かれ、残ったのは深い虚脱感だけだった。


「……ロエナ」


 ややかすれた声が、静寂を破る。ルベルトはゆっくりと顔を上げた。かつては氷のように透き通り、傲慢な自信を湛えていたサファイアの瞳。その光は今や曇り、疲労と失意に濁っている。


 ロエナが一歩踏み込むと、彼は視線を迷わせ、何かを決意するように短く息を吐いた。そして、唐突に切り出す。


「……お前は、エリシャのことを、どう思っている?」


 静寂を切り裂くような問いだった。ロエナは一瞬、何かを測るように首を傾げ、それから作り物のような微笑みを浮かべる。


「エリシャ様のこと、ですか? とても勉強熱心で、心根の優しいお方だと思いますよ」


 答える声は柔らかく、まるで何の警戒も含まないかのよう。


「……は?」


 ルベルトは目を見開き、ロエナの返答が信じられないと言わんばかりに言葉を呑む。その瞳の奥に、どす黒い感情が溜まっていくのが見て取れた。


「違う……違う、違う……違うはずだ、ロエナ……」


 掠れた声で、まるで壊れた玩具のように同じ言葉を繰り返す。否定するたび、言葉は呪いのように重なり、部屋の空気をじわじわと蝕んでいく。


「……殿下?」


 ロエナが問い返しても、ルベルトはもう聞いていない。髪を乱暴に掻きむしり、顔を歪めて、喉の奥から絞り出すように言葉を吐いた。


「お前……本当は、エリシャのことが憎くて仕方ないんだろう?そうだろ?ずっと、ずっと王妃になることだけを夢見てきた癖に───何もかも、あの女に奪われて……それで何も思わないはずがない!そんなの……嘘だ、ありえない……!」


 ルベルトの手が無意識に机を叩き、指先が震える。口の端は引き攣り、笑っているのか泣いているのか分からない、不安定な表情を浮かべていた。


「私がエリシャ様を嫌う理由なんてありません……」


 ロエナはわざと声を震わせ、目を伏せて呟く。


「嘘だ、嘘だ嘘だ……!お前は、俺と同じだ……失うことが、怖いんだろう……?奪われる痛みが、どれほど深いか、知っているはずだろう……?そうだろ、ロエナ……俺たちは───俺たちは同じだ……そうだ、そうに決まってる……!」

「……ルベルト殿下、何を仰って……」


 ロエナが一歩退こうとすると、ルベルトの視線がそれを逃がすまいと絡みつく。


「認めろよ……なあ、ロエナ……お前も、エリシャを憎んでる。憎くて、憎くて、仕方ないんだろう……?そう言ってくれ……俺にだけでいい……頼む、頼むから……!」


 哀願とも呪詛ともつかぬ声が、ねっとりと部屋に広がる。言葉は空気に染み込み、壁や天井に張りつくように重く沈殿していく。


「なあ……ロエナ……もう、嘘はいい……本当のことを言え……」


 ルベルトの声は次第に掠れ、しかしその目だけは異様なほどの熱を帯びている。震える瞳が、ゆっくりと、逃げ場を塞ぐようにロエナへと向けられた。


「エリシャを……全てを奪ったあの女を……この手で、消してしまいたい───殺したいと、そう、思っているんじゃないのか……?」


「……え……?」


 ロエナは目を見開いた。驚愕を装ったその表情の裏で、心臓は強く、高鳴っていた。


 胸の奥で、何かが弾ける。


 可笑しくて、愉快で、たまらなく甘美な衝動が、喉元まで込み上げてくる。思わず口角が緩みそうになるのを、ロエナは必死に抑え込んだ。


(……ああ、ルベルト……貴方って、本当に……最高ね!)


 心の中で、歓喜の声が踊る。


(よくぞ、その言葉を……この瞬間に……この状況で……口にしてくれたわ!ええ、ええ……これ以上、都合のいい台詞はないじゃない!)


 ロエナはゆっくりと胸元に手を伸ばし、ブローチの上に指先を置いた。宝石はひやりと冷たく、まるで彼女の内心を知っているかのように、静かに脈打つような存在感を放っている。


 表情は、あくまで困惑した令嬢のまま。だが、その仮面の奥では、歪な計算と甘美な期待が、黒い花のように咲き誇っていた。


「なっ、なにを……!何を仰るのですか、ルベルト殿下……!」


 ロエナは大きく目を見開き、震える声で一歩、二歩と後ずさる。白い指先は小刻みに揺れ、まるで本当に恐怖と混乱に囚われた少女のようだった。


「わ、わたくしは……そんな、そのような恐ろしいこと……!考えたことすらありません……!」


 その声には涙の気配。ロエナはそっと目尻に手を当て、乾いた頬をぬぐうふりをした。だが、その指先は決して濡れてはいない。


「……今のは、聞かなかったことにして差し上げます……ですが二度と……二度とそのような不吉な言葉を、私の前で口にしないでくださいませ……!」


 ドレスの裾が床をすべり、ロエナはルベルトに背を向けて、素早く部屋の戸口へと向かった。


「ロエナ……!ロエナ、待ってくれ……!」


 追いすがるような声が背中に投げかけられる。だがロエナは、決して振り返らなかった。

 ゆっくりと、しかし確実に扉を閉め、静かに息を吐く。


 ───戸が、重い音を立てて閉ざされた。


 その瞬間、ロエナの唇が小さく震え、ついに堪えきれなくなりそうな笑いが喉元までせり上がってくる。だが、まだ、まだここで笑ってはいけない。ロエナは胸元のブローチを強く握りしめ、ひとつ深く息を吐く。


(……まだ、よ。いま笑ってしまっては、すべてが台無し)


 背後の部屋からは、誰かが崩れ落ちるような微かな気配。


(ルベルト……あなたは、まだ底を見ていない。もっとだわ。もっと深く堕ちて……あなたの誇りも自尊心も、醜く泥に塗れて、二度と戻れないほどに壊れてしまえばいい)


 愉悦が、じくじくと心の奥で広がっていく。ロエナはゆっくりと背筋を伸ばし、踵を返す。カツ、カツ、と廊下に響くヒールの音が、静けさの中に不気味な余韻を刻み込む。


 外見は、従順で儚げな令嬢のまま。けれどその内側───仮面の下には、黒い炎のような悪意と歓喜が渦巻き、今にも顔を覗かせそうになっていた。


(……その時がきたら、遠慮なく、大声で笑ってあげる。あなたがどんな顔で、どんな絶望を晒すのか……とても、とても楽しみだわ)


 ロエナはそっと目を閉じ、微かな吐息を漏らす。微笑は、どこまでも薄く、どこまでも冷たい。

 廊下に漂う香水の残り香すらも、不吉な影を帯びていた。







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