32
侯爵家での重苦しい対話を終え、ロエナが王宮へ戻る頃には、すっかり夜の帳が降りていた。
長い廊下を歩き、自室の扉を閉じると、途端に肩から力が抜ける。深く椅子に腰を沈め、ひと息つく。外はすでに夜闇が広がり、窓辺のカーテンの隙間から月明かりが静かに差し込んでいる。
そのとき、不意にテラスの方から、コンコン、と小さな音が響いた。
テラスから誰かが訪れるなど、まず有り得ない。ロエナは驚き、警戒心を覚えながらもそっと視線を向ける。
カーテン越しに見える人影。
恐る恐る近寄り、戸を開けると、夜気の中に佇むのは、見慣れた黒髪の青年───ルクルーシュだった。
「ルクルーシュ……?」
ロエナは思わず声を潜める。まさか王宮のテラスからやって来るとは、想像もしていなかった。
ルクルーシュは、いつになくそわそわと落ち着かない様子で足元を見つめる。
「……すまない。こんな時間に押しかけてしまって」
「構わないけれど……何か急ぎの用事?」
「いや、手紙ひとつで済むような用事ではあるんだが……なんというか、その、直接顔を見たくなったんだ」
小さく息を詰めて、顔を背ける。その頬が、月明かりの下でほんのり赤く染まっているのが分かる。普段は冷静で威厳すらある彼の、そんなわかりやすい仕草に、ロエナは思わずくすりと笑みを漏らした。
「……もう、とりあえず中に入って。誰かに見られたら大変よ」
そっと手招きしてルクルーシュを部屋へ迎え入れソファに座らせた。
王宮に魔国の王が訪れていると知れれば、きっと大騒ぎになる。ロエナはそっと扉を開けて廊下へ出ると、使用人にお茶を部屋の外まで持ってきて欲しいと静かに告げた。
程なくして廊下で盆を受け取り、自ら部屋へと戻り、テーブルに茶器を並べる。
ロエナは自ら丁寧に二人分のカップにお茶を注いだ。そっとカップを差し出すと、ルクルーシュは小さく礼を言いながら受け取る。
「ありがとう。……本当に、すまない。迷惑だったな」
「どうして?」
「顔色が優れないようだ」
ルクルーシュは気遣うようにそっとロエナの顔を覗き込む。その声の響きは、不器用ながらもまっすぐで、ロエナの心にじんわりと染みていく。
「少し疲れているだけよ。気にしないで」
そう言いながら、ロエナは静かにルクルーシュの正面に腰を下ろした。
「……そういえば、用って何かしら?」
ロエナのその言葉に、ルクルーシュははっと我に返ったように顔を上げる。微かに逡巡しながらも、静かに口を開いた。
「最近、魔国とバインベルクの間で交易が盛んになっただろう。特に果実類が……色々と流通してきている」
「えぇ。王都でも評判よ。色も形も見慣れないものばかりで、皆、物珍しそうにしているわ」
ロエナはそう答えながら、湯気の立つカップを口元に運ぶ。異国の品がもたらす華やぎを思い浮かべつつも、ルクルーシュの表情が僅かに翳るのを見逃さなかった。
「ああ。だが───その中には、魔族にとっては何の害もないが、人間が口にすると体に合わないものも混じっている」
ロエナは、ふと動きを止める。カップから視線を上げると、ルクルーシュの瞳は真剣そのものだった。
「量や体質にもよるが……人の身には、危険になりうる」
夜の静けさが、その言葉の重みを強調する。
ルクルーシュは小さく息を整えると、指を一つ鳴らした。
その瞬間、彼の掌の上に、ひとつの果実が現れる。
檸檬色の皮は淡く艶めき、小ぶりな桃のような丸みを帯びている。灯りを受けて柔らかく光るその姿は、甘美で無害そうに見えるが、どこか人ならざる気配を宿していた。かすかに漂う香りは爽やかでありながら、鼻腔の奥に微細な刺激を残す。
「リリザという果実だ」
ルクルーシュは静かに続ける。
「制約が結ばれるよりも、ずっと前のことだ。魔国とバインベルクがまだ自由に交易していた時代、この果実を口にして命を落とした人間がいた……そうした記録が残っている」
ロエナは果実に目を向けたまま、ゆっくりと頷いた。
「なるほどね……なら、こちらでもしっかり流通を管理しておかなくちゃ。万が一、誤って口にする人がいれば、どんな悲劇が起きるか分からないもの」
「ああ、よろしく頼む。こちらでも対策は講じるが、人間社会の細かな流通まで把握するのは難しい。ロエナの手も借りたい」
ルクルーシュはロエナの言葉に満足げに頷いた。その目には、王としての威厳と、同時に彼女への信頼がほのかに宿っていた。
───その時だった。
静まり返った部屋に、控えめなノック音が響いた。
夜も更けているはずの王宮で、不意に訪れた気配にロエナは一瞬だけ身を強張らせる。ルクルーシュに「少し待っていて」と小声で断りを入れ、椅子から静かに立ち上がった。
蝋燭の炎が、戸口の影をゆらゆらと伸ばす。
ロエナは用心深く扉の前に立ち、ノブに手をかけると、ほんの少しだけ扉を開いて廊下を覗き込んだ。
そこには、侍女の姿があった。
彼女は深く頭を下げ、低く落ち着いた声で告げる。
「ロエナ様。夜分遅くに失礼いたします。ルベルト様より御伝言を預かってまいりました」
「……ルベルト殿下から?」
思わず眉を寄せて問い返す。
「はい。明日の夜、自室までお越しいただきたいとのことでございます」
簡潔な伝言。その言葉の奥に、何かただならぬ思惑が潜んでいるような気がして、ロエナは無意識に唇を引き結ぶ。
───突然、何のつもりかしら?
ロエナは胸の奥に小さな警戒心を覚えつつも、穏やかな表情で返事をした。
「分かったわ、ご苦労さま。下がっていいわよ」
侍女は丁寧に礼をして、廊下の暗がりへと消えていく。扉を静かに閉じると、先ほどまでの静寂が戻った───が、部屋の空気はどこか緊張を孕んでいた。
椅子へ戻ろうとしたロエナに、後ろから低く静かな声がかかる。
「……行くのか?」
どうやら先程のやりとりが聞こえていたらしい。ルクルーシュは腕を組み、難しい顔でじっとロエナを見つめている。
「えぇ。無視するわけにもいかないし……」
「なら、俺もついて行く」
その予想外の言葉に、ロエナは一瞬きょとんと目を丸くした。次いで、堪えきれずにくすりと吹き出す。
「ふふ……だめよ。あなたが一緒に来たら、きっとルベルト殿下、驚きすぎて椅子ごとひっくり返るわ」
「だが───」
言いかけて、ルクルーシュ自身も自分の言葉の滑稽さに気づいたのだろう。
眉をひそめ、口ごもりながら視線をそらす。耳の先が、夜の灯にかすかに赤く染まる。
「……いや、そうか。……無茶だったな」
曖昧に頷く姿は、いつもの威厳や理知的な佇まいとはまるで違う。ロエナはそんな彼の不器用な優しさが、なぜだか愛おしくてたまらなくなる。
「ルクルーシュったら、わたくしとルベルト殿下が何を話すのか、気になって仕方ないのね?」
わざと揶揄うような声音で尋ねると、ルクルーシュはぎくりと肩をすくめ、さらに耳まで真っ赤にして顔をそむける。
「……揶揄うな、ロエナ」
ぶっきらぼうな返事が、かえって子供のように聞こえる。その反応に、ロエナは堪えきれずまた小さく笑ってしまう。
(かわいい人)
威厳も力も持つ魔国の王という肩書きの奥で、彼はこんなふうに不器用に心配してくれる───そのことが、今日の重苦しさをほんの少し和らげてくれた。
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