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 最初に、聖女エリシャをこの目にした瞬間───俺の中で、何かが、鈍く弾けた音がした。


 それはきっと、運命だったのだろう。あるいは、呪いだったのかもしれない。


 ───綺麗だった。言葉にならないほど、恐ろしいほどに。


 柔らかな亜麻色の髪が陽光の光を受け、ほのかに金色を帯びて揺れている。首筋に零れるその一筋一筋までが、俺の目には宝石のように映った。目元を縁取る睫毛は長く、影を落とし、翡翠のような瞳がただ真っ直ぐにこちらを見ていた。


 その瞳は、まるで異世界の泉の底を覗き込んでしまったかのように澄んでいて、どこまでも深く、冷たく、触れれば一瞬で砕けてしまいそうだった。


 ───いや、壊したいのかもしれない。俺だけのものにして、他の誰の目にも触れさせたくない。そう、そうだ。他人の手垢がつくくらいなら、いっそ壊してしまったほうが美しい。


 指先が、無意識に震えた。


 どうしても、手に入れたかった。


 俺は生まれながらにして、玉座を約束された存在だ。臣下たちは俺に跪き、望むものは全て与えられてきた。気に入った玩具も、衣服も、食事も───そして、誰もが羨む美しいものも。


 だから、エリシャもその例外ではない。あれほど純粋で、神聖で、誰よりも輝く存在でさえ、俺が欲しいと願えば、手に入るはずだと───そう、信じて疑わなかった。


 しかし、エリシャは違った。


 どれほど甘い言葉を選び抜いて囁いても、どれほど高価な宝石や、王家の蔵から引きずり出した美術品を与えても、彼女はただ困ったように、曖昧に笑うだけだった。


 その「困ったような微笑み」が、俺の神経を逆撫でした。


 ───なんだ、その顔は。


 まるで、哀れんでいるような。

 まるで、俺を〝どう扱えばいいのか分からない子供〟でも見るかのような目。


 理解できなかった。いや、理解したくなかった。


 俺が、ここまでしてやっているというのに。

 俺が、誰だか分かっているのか。

 次期国王だぞ。生まれた瞬間から、この国の頂点に座ることを約束された存在だ。


 世界は、俺のために用意されている。

 欲しいものは、与えられるのが当然だ。


 それなのに、エリシャは俺の手から零れ落ちる。


 思い通りにならない彼女を前にすると、胸の奥がざわざわと掻き乱される。苛立ちと焦燥が絡まり合い、喉の奥にぬるい何かがこみ上げてきた。

 ───腹が立つ。

 ───気に入らない。


 だから、俺は「正しい方法」を選んだ。


 エリシャが育った孤児院。

 彼女が「大切にしているもの」。


 それを、人質にした。


 簡単な話だ。守りたいものがあるなら、従えばいい。俺の言うことを聞けば、あの場所は無事でいられる。聞かなければ───どうなるかは、考えるまでもない。


 するとどうだ。

 エリシャは、あっさりと従った。


 ああ、そうだ。これだ。この瞬間、胸の奥に溜まっていた濁りが、すうっと溶けていくのを感じた。


 ほら、みろ。

 結局、人はこうやって縛ればいい。思い通りにならないことなんて、俺の世界には存在しない。


 あとは、邪魔なものを片付けるだけだ。


 ロエナ・エディノース。

 あの女。


 王妃の座に固執しているだけの、つまらない女。顔だけは整っているが、それ以外に価値などない。誇り高ぶった目も、澄ました態度も、俺の人生には不要だ。


 あの女さえ消えれば───すべては、あるべき場所に収まる。




 何かがおかしい───そう感じたのは、エリシャの孤児院に妙に支援者が増えはじめ、もう孤児院という鎖で彼女を縛れなくなった頃だ。


 最初は意味が分からなかった。なぜ、俺の力が届かない?なぜ、エリシャの表情から怯えや迷いが消えた?


 調べればすぐに分かった。

 ───ロエナ・エディノース。

 あの女の仕業だった。


 怒りが込み上げる。胃の奥が焼けるように熱い。爪が、握った拳に食い込む。


 やはり、あの女は底意地が悪い。自分の保身と執着のために、俺の思惑を潰すとは。

 王妃の座を死守したいがために、俺の計画を先回りして邪魔をする。そうか。最初から全部見抜いていたのだろう。

 俺がエリシャを正当な理由で隣に据えるため、ロエナを悪女に仕立て、婚約破棄を画策していることも、全部。


 だが、まだ終わりじゃない。

 俺には、使える駒がある。

 エリシャを思い通りに操る糸はまだ残っている。

 ……そう思い込もうとしたが、ロエナは俺の先を行く。

 一つ一つ、俺の世界を構成する糸が、見えない手でぷつり、ぷつりと断ち切られていく。


 苛立ちと、焦燥と、憎悪。

 その渦の中で、俺はただひとり喘いでいた。


 嗚呼、愛しいエリシャ。

 ───待ってくれ、こんなはずじゃなかった。


 気付けば、エリシャの視線は俺ではなく───〝剣しか能のない無能の兄〟ヴィルヘルトに向けられていた。


 なぜだ。

 どうしてだ。


 ───ヴィルヘルト。


 あの男を見つめるエリシャの瞳。エメラルドの輝きが、ぬるりとした熱を帯びて揺れている。


 ……違う。


 その目は、俺に向けられたことがない。

 どれほど囁き、どれほど触れようとし、どれほど与えても───決して浮かばなかった、甘く、柔らかな色。


 胸の奥で、何かが音を立ててひび割れた。


 馬鹿な!

 ありえない!


 そんな男の、どこがいい?

 血筋か?力か?それとも、俺にはない何かを、あの男が持っているとでも言うのか。


 ヴィルヘルト───!


 貴様……貴様……!


 王の座も、エリシャも、俺のものだ。

 それを、兄だというだけの存在が、横から掠め取ろうとする?


 許されるはずがない。


 視界が、ぐにゃりと歪む。

 世界が反転し、色が溶け、輪郭が崩れていく。

 エリシャの笑顔が、ヴィルヘルトの影に塗り潰され、頭の奥で黒い感情が膨れ上がった。





「……っ!」


 喉が引き攣るように声を漏らし、はっと目を覚ました。


 暗闇。

 荒い呼吸。

 心臓が、胸を破りそうなほど脈打っている。


 肌にまとわりつく冷たい汗が、不快に背中を濡らしていた。悪夢の余韻が、まだ脳裏にへばりついて離れない。


 ───夢だ。

 そうだ、ただの夢だ。

 だが、その言葉は、何度繰り返しても胸に落ちない。


「………クソッ!」


 吐き捨てるように呟き、ルベルトはシーツを強く握りしめた。冷え切った闇の中で、ルベルトの中の何かだけが、いつまでも醜く蠢いていた。




♦︎




 窓からは午後の日差しがやわらかく差し込み、静かな執務室に紙とインクのほのかな匂いが漂っていた。

 ロエナは机の向こうで書類に目を通しながら、ちらりとエリシャの様子を伺う。エリシャは分厚い教本を熱心に読み込み、時折メモを取ったり、真剣な眼差しで質問を考えている。

 妃教育を始めてしばらく経つが、彼女の表情には疲れの色はなく、むしろ何かに夢中になっている子供のような輝きがあった。


「エリシャ、そろそろ休憩にしましょうか?」


 ロエナが声を掛けると、エリシャはパッと顔を上げ、ほんの一瞬だけ考えた末に首を横に振った。


「いえ、大丈夫です。知らなかったことを学べるのはとても楽しいですから」


 その声は弾んでいて、頬には小さなえくぼが浮かんだ。花がふわりと咲くような、眩しいほどの笑顔に、ロエナは思わず見とれる。


「そう。それなら安心したわ。無理はしてほしくないから」

「ありがとうございます。でも、できるだけ早くお役に立ちたくて、休んでいる時間も惜しいと言いますか……」


 少し恥ずかしそうに、しかしどこか決意を秘めたように、エリシャは言葉を続ける。


「まあ、それは……やっぱりヴィルヘルト殿下のためかしら?」


 ロエナが悪戯っぽく問いかけると、エリシャは「そ、そんなことは……!」と顔を真っ赤に染め、慌てて手を振った。


「違うんです、本当に!みなさんのお役に立ちたいだけで……その、殿下のことも、もちろん……」


 言葉をもごもごと曖昧に濁し、俯いたエリシャの頬はますます紅潮していく。その様子があまりにも初々しくて、ロエナはふっと柔らかく微笑んだ。


 すると、次の瞬間───。


 コンコンと規則正しいノックの音が室内に響く。


(誰かしら?)


 ロエナが扉を開けると、そこには仏頂面のルベルトが立っている。薄暗い灯りの中で、その影がやけに大きく見えた。


 彼女は一瞬、眉根を寄せそうになったが、すぐに完璧な笑顔を作ってみせた。作り物の微笑み───しかし、それを見抜けるほどルベルトは繊細ではない。


「あら、ルベルト殿下。ご機嫌よう。何かご用件でも?」


 ロエナの問いに、ルベルトは口の端を不遜に吊り上げ、やや見下すような視線を投げる。その態度には、あからさまな嘲りがにじんでいる。


「……いや、驚いたな。まさか本当に、エリシャに妃教育なんてものを施しているとは思わなかったよ」


 ロエナは動じず、あくまで優雅な口調を崩さない。


「ええ、陛下から正式にお預かりした身ですもの。わたくしにできる限りのことを、と努めておりますわ」


 ルベルトは鼻で笑った。その笑みには、侮蔑と苛立ちが微かに混じる。


「まあ、どうせ今さら詰め込んだところで、形だけ整えても無意味だ。そんな急ごしらえの妃教育で、まともな后になれると本気で思ってるのか?───なあ、エリシャ」


 上から目線の問いかけ。本人の前だというのに、遠慮も容赦もない。


「無理してるんじゃないのか?お前に、こんなこと求めるのは酷だ。ロエナの真似事に付き合うなんて、時間の無駄だぞ?」


 ルベルトの口調はますます傲慢さを増し、どこか楽しんでいるような色すら感じられる。


「ほら、エリシャ。本当はこんなの嫌だろ?わざわざ自分を追い詰めなくてもいいんだ」


 その口調は甘やかしにも似て、けれど根底には明らかな侮蔑がある。人の心を逆撫ですることに関しては、天才的ですらある。ロエナは内心で舌打ちしつつも、表向きは穏やかな微笑みを崩さない。


(……妃教育の妨害に来たのね。これ以上は付き合わせられないわ。どうご退場願おうかしら───)


 そう思案していた、その時だった。


 不意に、椅子の音が鋭く空気を裂いた。エリシャが勢いよく立ち上がる。その瞳は、怯えや戸惑いなど微塵もない。意志の光を湛えて、まっすぐルベルトを射抜いていた。


「私は、無理などしておりません」


 静かながらも凛と響く声だった。ルベルトは虚を突かれたように、一瞬目を見開く。ロエナも思わず息を呑む。


「妃教育を受けるのは、私自身の意思です」


 ルベルトは面食らったように、一瞬だけ眉をひそめる。


「……誰かに言わされたのか?ロエナが強制しているなら、そんなもの従う必要はない」


 皮肉と疑念をないまぜにしたその問いにも、エリシャは首を横に振った。その瞳には迷いも恐れもなく、ただ一つの信念だけが宿っている。


「違います。誰かに言われたからではありません」


 彼女は一歩、ルベルトに近づいた。か弱く見えたその姿に、どこか毅然とした気高さが宿る。


「ヴィルヘルト殿下が、この国を背負って立つ方だから……その隣に並ぶなら、私は無知なままではいたくない。どんなに大変でも、自分の手で学びたいと思ったんです」


 エリシャの言葉が静かに部屋に響き渡った瞬間、ルベルトの唇がわずかに引きつった。それまで勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべていた顔が、見る間に翳りを帯びる。皮肉や余裕で武装した仮面の下に、ほんの一瞬、悔しさや戸惑いが覗く。


 そんな二人の様子に、ロエナの瞳にはかつてのエリシャの面影が重なっていた。


 ───いつも怯えた目で、ルベルトの一挙手一投足を窺っていたあの頃。逆らえば何をされるか分からないという恐怖に、身をすくめ、小さな声で肯定の言葉を繰り返すしかなかった少女。支配され、抑えつけられ、彼女の世界はただルベルトの顔色ひとつで塗り替えられていた。何かを望むことさえ罪のように、誰にも助けを求められず、ただ静かに震えているしかなかった日々。


 でも今、目の前に立つエリシャは違う。


 揺るぎない眼差しで、自分の意志をはっきりと言葉にし、誰にも支配されずに“自分自身”としてここに立っている。ロエナはその変化を痛いほど感じ取り、静かに目を細めた。


 ───もう、あの頃の貴方ではないのね。


 ロエナは、そっと目を細める。その眼差しは、エリシャの背をやさしく包み込むように、静かに、けれど確かな温度を宿していた。


 ルベルトは唇を噛み、舌打ちをひとつ。その表情には怒りと屈辱が交錯し、もはや隠そうともしていない。

 やがて、エリシャにもロエナにも背を向け、踵を鳴らして部屋を出ていく。


「きゃっ……!」


 ちょうど戸の前で控えていた使用人が、不意に押し出されたルベルトの体にまともにぶつかり、呆気に取られた声を上げた。しかしルベルトはその存在すら気にも留めず、無言のまま通り過ぎる。扉の向こうへと去っていく足音は、まるで憎悪の残響のように廊下にこだまする。


 廊下に一瞬、不自然な静寂が広がる。ロエナは小さくため息をつき、戸惑う使用人へと視線を向けた。


「大丈夫かしら?」

「は、はい……ご心配、痛み入ります、ロエナ様……!」


 ロエナが手を差し伸べると、使用人は恐縮して自ら立ち上がった。その拍子に、何かを思い出したようにハッとし、震える手で封筒を差し出してくる。


「あ、あの。こちら、ロエナ様宛のお手紙でございます。本日、執事より預かりまして……」

「わたくし宛の?」


 ロエナは受け取った瞬間、指先に伝わる冷たさに、僅かに眉をひそめた。封蝋に刻まれた紋章を見た途端、胸の奥で、何かが静かに軋む。


 手紙は、ロエナの実家───エディノース侯爵家からのものだった。






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― 新着の感想 ―
ルベルトの悔しい思いと、浅はかな性格がよくうかがえる表現でした。 強くなったエリシャがかっこいいです。 また一波乱あるのでしょうか?実家からの手紙、何が書いてあったのでしょう?
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