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魔国との歴史的な会談が終わってからというもの、バインベルク国内はまさに熱狂の渦に包まれていた。貴族の華やかなサロンでも、平民たちの賑やかな市場でも、話題はもっぱら「魔国との和平会談」と「次期国王ヴィルヘルト」のことで持ちきりだった。
市井の人々は朝刊の見出しを貪るように読み、街角の掲示板に貼り出された号外に群がった。新聞には、魔国の王がヴィルヘルトに感謝を述べ、深々と頭を下げて「次期国王殿下」と呼びかけた一幕が、克明に、まるで劇の一場面のように描かれている。
一方、貴族たちの間でも、話題は絶えなかった。保守派の老貴族は渋い顔をして「順序を乱してはならぬ」と口を尖らせるが、若い家臣や新興貴族たちは新たな時代の到来に胸を膨らませている。
会談から一ヶ月が過ぎ、季節の移ろいが夕暮れの窓辺に長い影を落としていた。王宮の一室では、金糸を織り込んだテーブルクロスの上に、豪奢な食器と燭台が並び、静かな晩餐の空気が漂っている。
ロエナ、ルベルト、そしてヴィルヘルトは、国王の招きでこの夕餉の席に集っていた。ロエナはその理由を、そしてルベルトもヴィルヘルトも、心のどこかで察している。誰もが無言のまま、食事の手を動かしていた。
食後の静寂を破ったのは、王が葡萄酒のグラスにゆっくりと口をつけた時だった。その仕草ひとつで、部屋の空気が一層張りつめる。
王は重々しい声で語り始める。
「……近頃、城下でも、貴族の間でも、ある名が囁かれている。皆が口を揃えて、次の王はヴィルヘルトだと───そう噂しているのだ」
その言葉に、ヴィルヘルトは反射的に背筋を正す。王の視線を正面から受け止めるその眼差しには、緊張と覚悟が浮かぶ。
一方、ルベルトは無意識に喉を鳴らした。伏し目がちにグラスを見つめ、居心地悪そうに視線を泳がせていた。
王は言葉を続ける。
「お前は、ただ深淵胎から王都の民を救っただけではない。魔国との会談においても、民の命を守るため懸命に立ち回り、両国の未来を切り拓いた。……その功を、私は決して軽んじるつもりはない」
王の言葉は、まるで静かな湖面に石を落とすように、重く心に広がった。
ロエナは、ゆっくりと口角を持ち上げる。
回帰前───ヴィルヘルトは魔国との国交断絶を招き、王国を危機に陥れた元凶とされ、その罪を一身に負い無惨な最期を迎えねばならなかった。
だが今、目の前の現実はまるで異なるものに変わっている。
ヴィルヘルトは英雄として讃えられ、魔国の王でさえ彼に敬意を表し、国中の人々が彼の名を〝王〟として口にする。
それは、ほんの一つの選択が、大きく歴史を塗り替えた証そのものだった。
「……父上、それは……あまりにも、身に余るお言葉です」
ヴィルヘルトは驚きと戸惑いを隠せず、グラスを握る指先がわずかに震えていた。胸の奥から熱いものが込み上げるが、それでも必死に平静を保とうとする。
だが、王は静かにその息子の瞳を見つめ、毅然と、そしてゆるぎない口調で言葉を紡ぐ。
「ヴィルヘルト───お前が、今や民の声と信頼を集めていること、私は王として、この目で見てきた。そして何より、魔国との会談で見せた勇気と覚悟、あの場でお前が背負った責任は、既に〝王たる資格〟に他ならぬ」
王は、グラスをそっと置き直し、深く息をついた。
「我が息子としてだけでなく、バインベルクの王としても、私は誇りに思う。ゆえに、ここで宣言する。ヴィルヘルト───お前を、正式に次期国王として指名する」
その言葉は、静かながらも重く、はっきりと部屋に響き渡った。
「父上ッ……!それは───!」
ルベルトは一瞬だけ反論の言葉を探すように口を開きかけた。しかし、その声を遮るように、ロエナが一歩前に出て毅然と口を開く。
「───わたくしは、陛下のご判断に一切異論はございません。ヴィルヘルト殿下こそ、今のバインベルクを導くべきお方であると、心より存じております」
ロエナの言葉は凛として明快で、その場の空気に一石を投じた。ルベルトはその横顔を鋭く睨みつけたが、ロエナは微動だにせず、まっすぐ国王とヴィルヘルトに視線を向けている。
その姿勢に、ルベルトはしばし口をつぐみ、わずかにうつむくしかなかった。
空気は張り詰めたまま、王はゆっくりとロエナに視線を移す。そこには父として、また王としての厳格さと優しさが同居していた。
「……もう一つ、はっきりと整理しておかねばならぬことがある」
王はわずかに間を置き、静かに続けた。
「次期国王がヴィルヘルトであるならば───その隣に立つ者も、また国を背負う存在でなければならぬ」
王は微塵の揺らぎもなく、まっすぐロエナに視線を向けた。
「エディノース嬢、そなたには、その資格がある」
王の言葉は紛れもなく、〝ヴィルヘルトの婚約者として隣に立て〟という宣言だ。重々しい沈黙が広間を満たし、すべての視線がロエナに集中した。
───回帰前のわたくしなら、涙が出るほどに望んだ展開だったでしょうね。……でも、今のわたくしは……
ロエナは一度だけ静かにまぶたを閉じ、ゆっくりと王に向き直る。
「……お気持ちは大変ありがたく存じます、陛下。しかし───」
ロエナはそっとヴィルヘルトへ視線を送る。
「バインベルクでは、聖女が生まれた年には代々その聖女を王妃として迎えるのがしきたりでございます。わたくしは、聖女エリシャ様こそが、ヴィルヘルト殿下の隣に相応しいのでは、と存じますが……いかがでしょう」
ロエナの言葉が終わるや否や、場の空気が一変した。
「……ッ!」
ヴィルヘルトは瞬く間に頬を真っ赤に染め、口ごもる。
一方、ルベルトはロエナに向けて、まるで氷の刃のような視線を投げつける。その奥には、エリシャへの歪んだ執着と、思い通りにならない苛立ちが剥き出しになっている。彼の指先は小刻みに震え、喉の奥から低い唸り声さえ漏れそうなほどだった。
王は思わず目を瞬き、ロエナを驚いたように見つめる。幼い頃から王妃となることだけを夢見て努力してきたロエナを誰よりも知っているからこそ、その言葉が信じられないという思いが表情ににじむ。
「……確かに、聖女が王妃となった例は数多い。しかし、エリシャ殿はまだ妃教育を受けておらぬのだ。一方で、そなたは幼い頃より王妃として国母となるための学びを積んできた。王家と民を結ぶ、その重責を───」
「エリシャ様は、とても聡明で、何事にも真摯に向き合うお方です。ご心配はごもっともですが、過去にも、正式な王妃となる前に妃教育を受けた聖女様はいらっしゃいました。……今からであっても、決して遅くはございません。むしろ、これほど国を思い、民に寄り添える方は他にいらっしゃらないとわたくしは信じております」
歴史上誰も成し遂げなかった魔法陣による魔法を完成させ、ロエナを回帰させた───それほど、エリシャは類い稀なる才知と努力を持つ女性だった。妃教育など、彼女であれば吸収も早いだろう。
「……もしご心配であれば、わたくしが直接、エリシャ様に妃教育を施しましょう」
その一言に、場の空気が一層張り詰める。
長年王妃の座に固執し続けたロエナから、その口でこんな言葉が出るとは、誰も想像していなかった。王はもちろん、ヴィルヘルトもルベルトも、驚きに言葉を失ったままロエナを見つめている。
「……そなたが、そこまで言うとは。だが、政略の面から見ても───」
王は困惑を隠しきれず、顎に手を当てて考え込む。けれどロエナは、そっと微笑んで最終手段を取る。
「陛下。なにより、ヴィルヘルト殿下とエリシャ様は、互いに強く想い合っておりますのよ」
その言葉に、場が揺れた。
「はッ!?」
ルベルトが驚愕に満ちた声を上げる。
「ろ、ロエナ……!何を言い出すんだ、急に……!」
ヴィルヘルトはあまりの不意打ちに、真っ赤な顔をさらに赤く染めてしどろもどろに言葉を紡いだ。視線はあちらこちらを彷徨い、ロエナと王、ルベルトの顔を交互に見ては、どうにも落ち着かない。
重苦しい空気に包まれていた広間に、一瞬だけ静寂が降りる。
だが、次の瞬間、王はその全てを吹き飛ばすように豪快に笑い声を響かせた。
「はははっ!そうだったのか、ヴィルヘルト!……ふむ、なるほどな。エディノース嬢のあの言葉を聞いて、それだけ動揺してみせるのは、まさしく本心ゆえだろう」
王は目尻を下げ、どこか嬉しそうな表情でヴィルヘルトを見つめた。そのまま、ゆったりとグラスを傾ける。
「父上、違います!私と聖女様は、その……互いに想いを告げ合ったわけでも、約束を交わしたわけでもなく……!あくまで、私たちは……!」
必死に弁明しようとするヴィルヘルトの言葉に、王はますます愉快そうに頷き、肩を揺らした。
「よい、よい。……国の安寧も、民の祝福も、そしてお前たち自身の心も、みな一つに重なれば、これほど良い縁はあるまい。想いの先に未来があるのなら、王家の伝統としても誇らしい限りだ」
その声音は、王としてだけでなく、父親としてのあたたかさも混じっていた。
ヴィルヘルトはそれでも赤面し、俯いたまま小さく息を呑む。テーブルの端で、ロエナはそっと微笑んでいる。
場に再び静寂が満ちる中、王の宣言は事実上、ヴィルヘルトとエリシャの婚約を認めるものとなった。
ロエナは、そっと視線を横に滑らせた。
視界の端に映ったのは、歯を食いしばり、怒りを押し殺すように俯くルベルトの横顔だった。こめかみに浮かぶ青筋。震える指先。抑えきれずに漏れそうになる呼吸音。そのすべてが、彼の内側で渦巻く感情を雄弁に物語っている。
───ルベルト、貴方は少し、期待したのではなくて?
ヴィルヘルトが次期国王となれば、王位は手放すことになるけれど─── その代わりに、煩わしく、目障りで、思い通りにならない婚約者の〝わたくし〟が消える。
そして空いたその場所に、エリシャを迎え入れられる。
誰の目にも触れさせず、誰にも触れさせず。
自分だけのものとして、あの清らかな存在を囲い込める。
……そう、夢想したのでしょう?
ロエナの唇が、わずかに歪む。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも冷たく、祝福や慈悲など微塵も含まない、凍りついた愉悦の色だった。
───わたくしが、そんな未来を許すとでも?
確かに、わたくしは貴方の婚約者であり続けるつもりなどない。けれどね、それは逃げるという意味ではないのよ。
わたくしは、貴方の無様な姿を、一番よく見渡せる場所に立ちたいの。
誇りが砕け、執着が剥き出しになり、理性が壊れていくその瞬間を───誰よりも近くで、誰よりも鮮明に。
───そのための特等席を、どうして自ら手放す必要があるというの?
ルベルトは、まだ気づいていない。
自分が一歩ずつ、確実に地獄の回廊を進んでいることに。
逃げ道は、もう閉ざされている。戻ることも、立ち止まることもできない。
だから───どうか、そのまま進んでちょうだい。
何も知らぬまま。
何も疑わぬまま。
貴方が辿り着く終着点で、わたくしはきっと、微笑んで迎えてあげるのだから。
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