勝利
「さっ!」
「迂闊ねえ……」
驚きの声を上げて首だけ後ろを向ける春菜。
目に入ったのは無言でじっとこちらを見つめているサレオス。その後ろには額に手を当て、ヤレヤレ顔で首を振るヴィネアがいた。
(見られた、見られちゃった。お姫様気取りで得意気にファッションショーしてるところ!)
バツの悪さにあれこれと言い訳を考えるけれど、何一つとして思い浮かばない。
「えっと、その、これは違くてですね……」
どうしていいか分からず言い淀む。
恐るおそるサレオスを見れば、その後ろに立つヴィネアがキリキリと音が聞こえそうなくらい、鋭い視線を春菜に送っていた。
春菜にはその顔が「逃げんじゃないわよ!」と言っているように見えた。
(そうだ、私)
この服に着替えたのも、化粧をしたのも何のためだろう。掃除をするだけなら、例えダサかろうが、ファッション魔人に何を言われようが気にする必要は無い。
(ただの掃除人だってことは承知してる。それでも私はサレオスさんの前で恥ずかしい格好をしていたくないんだ)
春菜は体を入り口に向けると、背筋を伸ばしてサレオスと正対する。
(ひー、それでもやっぱりこれは!)
踊り場で見られた時も猛烈な恥ずかしさを感じた。その感情の正体は“羞恥”。でも今上ってくるのはそれとは別種“照れ”だ。
『見て欲しい』とは言えない。おこがましいことは十分承知している。それでも願う気持ちは否定しようもなかった。
「……」
願いのままに、サレオスは無言で春菜を見た。爪先までゆっくりと視線を巡らして、再び上体へと上がり、真っ直ぐに春菜の目を見て来る。
沈黙の審判。春菜の鼓動が早まる。
サレオスは緋色の切れ長の目はそのままに、固く結ばれていた口を綻ばせる。
そして何も言わずに身を翻し去っていった。
「笑った」
何も言ってはくれなかったけれど、もうそれだけで十分だった。大きな仕事をやり遂げたような満足と疲労感に、ふにゃふにゃとその場にしゃがみ込む。
その様子を見ていたヴィネアは、教え子の成長を見守る教師のように、試合の勝利に喜ぶ選手を祝福する監督のように満足げに笑う。
春菜は照れく臭さと嬉しさに、思わず手で顔を覆った。
春菜は込み上げてくる笑いを押さえながら、午後の仕事を終えた。
誰かに業務時間を決めれているわけではなかったけれど、集中して作業をするには限界というものがある。
「ゴフッ!嬢ちゃん、どうしたんだいその格好!」
湯あみのためのお湯を貰おうと厨房に顔を出すと、衣装替えした春菜を見てバアルが驚きの声を上げる。
「うん、ちょっとね。鏡張りの衣装室に沢山服があって、そこで着替えてみたの」
あまりのダサさにダメ出しされて半泣きになっているところを、見かねたファッション魔人に捕まって着替えさせられました。これが真実。
「そうかい、俺には人間のことは分からんが、いいんじゃないかい」
バアルはハッキリと明言しなかったけれど、見せた顔に戸惑いや困惑は感じられない。
「今朝は肉屋みたいって思ったんでしょ」と、追求したいところだったけど、彼なりの優しさで黙っていてくれたのだろうから、その気持ちを無下にすることはできない。
「そうだ、お酢とレモンを分けてもらっていいかな」
「そりゃかまわないが、料理でもするのかい?」
「ううん、掃除に使うの」
「酢やレモン……なるほどなるほど、そういうことかい。構わないよ好きなだけ持っていきな」
「流石は料理人。すぐに察しが付いたね」
「よせやい、おだてたって何にもでないぜ。今日の晩飯のメニューは鴨のローストだ。もう少し時間が掛かるから、コイツを摘まんでな」
バアルが棚から取り出したのナッツを使った焼き菓子だった。バターの香りに誘われて、つい手を伸ばしてしまう。
「ん、おいしい!普段、バアルさんは食器や鍋なんかの後片付けはどうしてるの?」
「どうって、普通に洗って拭いてから棚に戻しているよ」
そう言って指差したのは壁際にズラリと並んだ食器類。
カップやボウルが棚に並び、鍋もフックで吊るされている。丁寧なことに皿は取り出しを考えて、木材を使った縦格子の乾燥棚に納められている。
整理された厨房は見た目にも壮観で、使い込まれたテーブルやかまども掃除がいき届いている。
「食器類を洗う時はどうしてるのかってこと」
「ああ、そういうことか。食器は粉にした石鹸を海綿で、鍋はタワシを使ってる。脂汚れが酷い時は、灰と食塩を混ぜたりもする」
そう言うとバアルは容器に入った粉石鹸と、灰色の細かな粉末を見せてくれた。
(そうか、灰はアルカリ性。昔は石鹸の材料だったっていうもんな)
「こんな贅沢に石鹸を使えるのはここが王宮だからさ。余所は今でも灰で洗ってる所が多いそうだし、そもそもオークは食器なんか使わん」
「食器を使わない?」
尋ねるとバアルは肉を手に持って、口で引きちぎって食べる動作をして見せた。
(なるほど、あの牙にはそんな役目もあったのか)
「それじゃ俺は晩飯の支度にもどるぜ。出来上がりはもう少し待っていてくれ」
「うん。私は湯あみをしてくる。お湯貰っていくね」
バアルは「ご自由に」と料理の支度に戻っていった。
たらい風呂も二日目。
1日の重労働を終えた後に、バケツでお湯を運び入れる作業はかなり応えた。
「あー、異世界に来ても日本人であることは捨てられないなー」
湯にお尻を浸けて桶で体にすくい掛ければ、苦労してお風呂を用意した甲斐があったと実感する。
厨房から貰ってきた海綿に、オリーブ色の石鹸を付けて泡立てる。
「いい匂い。なんだろうこの香り、セージかな?」
僅かに香るハーブの香りと、クリームのように細かな泡。昨日、洗濯室で見つけた石鹸(たぶん厨房で使っている粉石鹸と同じタイプ)も悪くはなかったけれど、あちらは実用本位。
なにせこの石鹸は「怠けるんじゃないわよ!」というヴィネアの激励とも叱咤とも取れる言葉の後に、数種の小瓶と共に手渡された物だ。
貝殻を意匠にした銀色のケースに入れられ、見ただけで高級品であることが分かる。
「これって、やっぱり天然素材で出来てるんだろうな」
この世界には合成洗剤はない。
泡をお湯で流して体を拭ってから、小瓶の液体を手に取り首筋に付ける。肌に延ばすと一瞬のスッとした冷たさの後に鼻腔に微かに香りが届く。
(ローズ系の香りかな。すごい滑らかに肌に広がっていく)
どういう成分なのかは見当もつかないけれど、塗り終わった肌はさらりと滑らかで、それでいてしっとり感がある。
(うーん、ファッション魔人だけじゃなく、コスメ魔人でもあるのか。女子力高いな、まさか私より……)
異世界の魔人が、これほど女子力が高いとは思ってもいなかった。それともアレは特殊な魔人なのだろうか。
(だからってあれは無いよ。うん、あれは無い)
時を遡ること少し前。
衣装室でサレオスに認められ(多分)虚脱している春菜を尻目に、ヴィネアのテンションは下がることは無かった。
「さあ、続けるわよ」
「え?まだ続けるんですか?」
「あたり前じゃないの。あんな格好をしていたくらいなんだから、部屋着だってたかが知れてるるんでしょ」
「ムッ。そんなことないですよ、私結構あの格好気に入ってるんだから」
コットン素材のチュニックとレギンスは、色こそベージュで地味だけど着心地もよく、我ながら満更でもないチョイスと思っている。
「ふふん、言ってくれるじゃないの。じゃあアンタはそのご自慢の恰好で、サレオスと会う度胸はある?」
「なっ!」
ドキッと大きく脈打つ心臓。カーッと顔に血が上り、春菜の顔が赤面する。
「なんでサレオスさんなんですか!ルームウェアとなんの関係もないじゃないですか!」
「男と会える服かって意味で聞いてんのよ。サレオスは例えよ、興奮してんじゃないわよ」
「興奮なんてしてません!」
男の人の例えとして彼を持ち出すのは反則だ。あんなイケメンが世にそうそういてたまるものか。
(ルームウェアでサレオスさんと会うシュチュエーションなんて、想定したって無駄じゃない)
「まあいいわ。ワタシもプライベートまで煩く言うつもりはないから、私がチョイスする服を持って帰って中から好きなの勝手に着なさい」
ヴィネアは先程と同様に部屋をぐるりと回りながら、服を見立ててはポンポンとソファーの上に放り投げていく。
「あ、でもこれ確かにイイかも」
偉そうに言うだけあって、チョイスされる服はセンスがいい。チュニックはもとより、クルタ風のものからシャツワンピまで種類は様々。色彩もデザイン性も豊だ。
もっとも、中にはベビードールにしか見えないきわどい物もあるから、これは遠慮しておこう。
「あとこれもね」
ヴィネアはクローゼット内の下に置かれたチェストの引き出しを開け、ぱさりと小さな布切れを放って寄越した。
春菜は急にスケールの小さくなった布を、何事かと手に取って広げてみる。
「ちょっと、これショーツじゃないですか!」
「あたり前じゃないの、他になんだっていうのよ」
それだけではない、ブラジャーまである。こちらは昨日いくら探しても見つけられなかった物だ。
しかも、この世界には紐パンしかないと思っていたのに、出て来た物にはノーマルタイプやガードルもあった。もちろん実用本位だったリネン室のショーツと違い、生地もデザインもいちいち異なる。
(あ、これなんかほとんど現代の物と変わらないな)
それだけに余計にリアルで恥ずかしさが募る。春菜はチェストの引き出しに手を伸ばしているヴィネアを止めにかかる。
「あー!もう触らないで下さい、選ばないで下さい!」
「は?何を急に慌ててんのよ。まだアンタの物になったわけじゃないでしょ」
「そうかもしれないけど嫌なんです!自分が着るかもしれない下着を触られるのは。ほっといて下さいよ、下着なんて自分で選ぶから!」
「ちょっとアンタ『なんて』って言いぐさはなによ!まさかナメてんじゃないでしょうね。下着は女の最後から二番目の武器なのよ!」
ヴィネアは声のトーンを上げて詰問調で春菜に詰め寄る。じゃあ最後の武器は何なのかと、とても聞く気になれない。
「それは言葉のあやです。別にナメてなんかいません!大切な武器なら手の内を明かしたくないって思うのは女として当然でしょ!」
「ぐっ!」
ぐうの音も出ないとはこのことか、女の砦を死守しようとする春菜に始めてヴィネアが言い負かされた。大人しくチェストから引き下がる。
その姿が心なしか寂しそうで、春菜は悪いことをしてしまったかと少し罪悪感が芽生え――
(いやいやいや、だってこの人、男だし。当たり前でしょうが)
すぐに思い直した。
落ち込んでいない証拠に、すでに何事もなかったかのように化粧品の物色を開始していた。
そして時は現在に戻る。
すのこの上には新たに見立てた部屋着と共に、新品のショーツ(紐パンではない)とブラジャーが乗っていた。
(うーん、あそこにあった服も下着も、ほとんど新品のようだったけど、誰の物だったんだろ。まさかヴィネアさんが自分でコレクションした!?いやいや、服はともかく下着まで持ってるって流石にどうなのよ)
想像したくないことに頭を巡らしている時、目隠しに張り巡らしているカーテンの向こうで微かに足音が聞こえた。
(人!?)
春菜は咄嗟にタオルを体にまいてその場にしゃがみ込む。
聞き間違いでは無い、確かに足音だ。一定のリズムで鳴る音がこっちに近づいて来る。
(そうだった、このお城には少なくても人は他にもいるんだった)
湯あみをした時間は昨日よりも早い。茜色の空の下はまだ少し明るく、ランプが無くても出歩くことは可能だ。
そして足音はどんどん大きくなり、カーテンの向こうで止まった。