階段
「うん、悪くないねコレ」
春菜は新しく完成したフロアー用モップの具合を確かめていた。
掃除用具室に置かれた古いモップは、絵筆を逆さまにしたような形。新しく完成したのは自在ぼうきによく似た形の“水拭きモップ”といわれるタイプ。
「でも城内で水拭きモップ使える場所って意外と少ないんだよね」
城内に使われている床材は、基本的に石材と木材の二種類。どちらも水に強いとは言えず、拭くなら水気をしっかり落とさないと床を痛めてしまう。
では何処で使うのに適しているかというと、酷い汚れを落とす時(例えば床に零した液体を吸着させたり)や、ワックスなどを塗布する場合。実はモップはもっと前に完成していたけれど、使えなかった理由が――
「ようやくモップ絞り器が完成したからなのですよ」
二つのローラーが付いたバケツで、挟み込んでモップを絞る装置。ローラーの強い力で挟み込む機構がなかなか実現出来ず、力を貸してくれたのがサブナックだった。
先日――
サレオスが侮辱されたと受け止めたグシオンは、空に向かって手をかざし、サブナックの周りに円形の幾何学模様を描き出した。
(そっかー、サレオスさん実はこの服かわいいって思ってくれてたんだ。イケズだなー、言ってくれればいいのに)
浮かれる春菜に目の前の状況は映らない。
「さあ、断罪の時間だ。後悔は今のうちにしておけ」
「ま、待って下さいグシオンさん。俺は知らかったんだ。その娘っ子、もといお嬢様がサレオス様が選んだ人だなんて」
「ブツブツ……」
聞く耳を持たないグシオンは何事かを唱え始め、幾何学模様は回転しながら拡大を始める。
春菜はくねくねと体をよじらせて浮かているとビフロンに声を掛けられる。
「嬢ちゃん、嬢ちゃん、グシオンさんは本気だ。止めないと大変なことになる」
「へあ?……って、なにあれ魔法陣?」
我に返った春菜が目にしたのは、サブナックを中心に広がる幾何学模様に目を疑う。異世界に詳しくなかろうと、なにかが起きる判断するしかない怪しげな図形だった。
「サブナックは裏表がないだけなんだ。思ったことは口にしてしまう。だが、悪い奴じゃないし、大工の腕もある。止めてやってくれんか」
それはそれで困った人であることに変わりはないが、目の前で人が消滅するような現象は見たくない。春菜は頷く。
流石に魔法陣に入るのは怖いので、横から覗きこむようにしてグシオンに声を掛ける。
「グシオンさんストップ、ストップ!」
しかし魔法陣の旋回は止まらない。
「ま、まずいなこれ。何か考えないと……!」
春菜は視線をグシオンの後方に向ける。
「あ、サレオスさん――」
「え?」
その名を聞いたとたん魔法陣が止まり、グシオンは後方を振り返る。
「――のお部屋はここからじゃ見えないか。うん、残念」
しれっと言う春菜の横顔に、グシオンの視線が注がれる。
(うおお、視線が痛い!でもしらばっくれるしかない!)
「あなた、ここからサレオスの部屋が見えるわけがないでしょう。彼の部屋は……」
素に戻ったグシオンは、丁寧にサレオスの部屋の位置を説明してくれた。春菜はその後、サブナックの姿を見て異世界にも土下座が存在することを知った。
――現在
せめてものお詫びにと、ビフロンは徹夜でモップ絞り器の木製ローラーを完
成させた。
「サブナックさんにも最初から私がサレオスさんの命を受けた掃除人であることを伝えていればよかったのか。そうすればグシオンさんの前であんな発言はしなかったろうし……。うーん、少しは気を付けよう」
絞り器の効果は上々。試しに一階大廊下の隅で使ってみると、床がびしょ濡れになることもない。
(でもやっぱり石材には控えておいた方が無難かな。楽なのは確かだけど)
モップの使い勝手を確認していた時、辺りが突然暗くなる。
(停電?いや、そんなわけない。電気は通ってないんだから)
咄嗟に周囲を見回すと、城内は日暮れのように暗かった。
「なんなのこれ……何が起きてるの。おかしいよこれ」
今は昼間。その証拠に窓の外は明るい。しかし、陽の光が城内に差し込んでいないのだ。さっきまであった影も全て消えている。
辺りに僅かな低音が響く。唸り声のような、地震がの地鳴りのような、不気味な響きだ。
(なにこの音、どこから……地下?)
指向性を持たない低音は発生源の方角が分かりずらい。しかし春菜の肌は地下でそれが鳴っていると教えてくれる。
(あそこから)
廊下の隅には地下へ降りる階段が続いていた。せり上がってくる圧迫感に息を飲み込んだ時、城内に明るさが戻った。
「音が止んだ」
さっきまで感じたプレッシャーも、僅かに聞こえた唸り声のような音も、全て治まっていた。
(今のなんだったんだろう)
廊下の隅にある薄暗い地下への階段が、不気味な存在感を発していた。
緊張に体を強張らせながら下を覗き込むと、黒ずんだ石階段の奥に大きな扉があった。両開きの漆黒の扉は固く閉じ、こちらと地下の世界を遮断している。
(立ち入り禁止って言われたけど、あの先に何があるの……)
「……ルナ。ハナザワハルナ!」
「はいー!」
不気味な地下の気配に身構えていた春菜は、突然声を掛けられて飛び上がる。
「何か起きた?」
「ヴィネアさん、大きな声を出さないで下さいよ」
「普通に声をかけたら、あんたが反応しなかったんでしょ。それで、何か起きたの?」
尋ねるヴィネアの目がいつもより険しい。
「ありましたよ、びっくりです。さっき、辺りが突然暗くなったんで、停電かと思いました」
「停電?」
「ああ、私の世界で起きる怪奇現象ですよ。さっきのは何だったんですか」
「あれはね、グシオンがこの城に張られた結界を組み替えたの」
「結界の組み換え、なんですそれは?」
「グシオンの魔は結界を作るの。それをによって、内部に様々な効果を付与する。そういう力」
「へー、じゃあ組み替えたってことは、今までもこのお城には結界の効果が掛かっていたってことですか」
ヴィネアは答える代わりに「馬鹿ねえ」と言いたげに、やれやれと両手を広げ首を振る。
「なんか、ヴィネアさんにそれやられると傷つくんですけど。なんででしょう?」
「知らないわよそんなこと!こっちが聞きたいわよ!」
「教えて下さいよ。何が掛けられていたんですか?」
「この城には四職以外は入れない仕組みになっているって言ったわよね」
バルバスが来た日、確かにそんなことを言っていた。春菜は頷く。
「あれは罰則を設けて入ることを禁止しているとかじゃなくて、グシオンの結界によって実効がされているの。だから四職以外の者は城内には文字通り入れないのよ」
「あー、それで警備の人がいないんですか」
「そうよ。城には誰も入れないんだから必要ないの」
「あれ?じゃあ私はどういう扱いなんですか?」
「あんたはサレオスと同じ扱いよ。召喚獣なんだから、それこそ“サレオスの肉体の一部”として認識されてるはずよ」
なぜか一部分を強調するヴィネア。
(私がサレオスさんの肉体の一部! ……いや、淫靡な響きを感じるのは気のせいかな)
「何赤くなってんのよ?気のせいだから安心なさい」
「なってませんよ!勝手に心を読まないで下さい!サトリかあんたは、おっかない」
「ワタシにそんな魔はないから心配しなくてもいいわよ」
「ホ、ホントにいるんだ、そういう力持った人」
「さあて、どうかしらねえ。割と何でもアリだけど、流石にそんな便利な魔を持つ者はいないんじゃないかしら?って、話が脱線しちゃったわ。それで何か変わったことは起きなかった?」
「え、だから今言ったことですよ。辺りが暗く」
「それ以外で」
「辺りが暗くなって、それで、なにか音が聞こえたような気がしたんです。唸り声みたいな、地響きみたいな。それが地下から来るみたいに感じてここへ」
「ふーん、他にはなにかあった?」
「いえ、何もありませんでした。なにか、この地下にあるんですか?」
「アンタは気にしなくていいのよ。私は結界に綻びが無いかを見てまわっていただけ。どうやらその心配もなさそうだから戻るわ。あんたも仕事にもどりなさい」
「はあ、わかりました」
ヴィネアはいつもと変わらぬ気楽な体で去って行く。しかし、春菜は眉間に筈かに皺が浮かんでいるのを見逃していなかった。




