Scene 07:On that day.(The morning)
目を覚ますと隣にいない。乱れたシーツの先には小さな箪笥と薄日に透けるカーテンだけ。
寝返りを打つと、食卓に向かった後ろ姿がわかった。淡い光のこちら側とは対照的に、薄暗い台所は寂しげに感じた。静かに寝床から脱け出し、何も言わずに抱き締めた。
「あ。」
「珍しい事があるものだ。二日も続けて早起きがいるぞ。」
朝に弱い彼女が俺よりも早く起きているのは、中々ない出来事のはずなのだが。
「おはようございます。」
「お早う。今日は雨でも降るのではないか。」
顔を髪に寄せて鼻孔に彼女の香りを広げる。甘い優しい気持ちに誘われ、艶髪に鼻でかきわけていく。
「わたしが早起きしたからって、雨なんて降りません。良いお天気ですよ。」
適当に相槌を打ちつつ探った耳に唇を当て、囁く。
「雨が降った方が、もう一日ゆっくり出来そうでよかった。」
「お仕事もあるでしょう。お休みできませんから。」
「しかしな。」
一拍置いて続けた。
「さすがに二日連続は疲れる。」
「もう、いじわるばかり言わないでくださいな。」
困ったように笑いながら見上げる。
「早く着替えてらしてください。朝ごはんにしましょう。」
頬に軽い口付けを残して寝室に戻る。昨日の夜に散らかした衣服は、丁寧に畳まれて箪笥の上に置かれていた。白いシャツの代わりに貰ったばかりの指輪を置く。一度叩き、気休め程度に皺を伸ばしてから羽織る。
布の切れ間から空を伺う。高く青い夏の空。泣き出す気配は微塵もない。
雨が降ればいい、とは言ったものの気持ちは半々だった。
雨が降れば、今日も彼女と二人きり。日長二人で寄り添っているのもいい。しかし、放り出した仕事や立場が後ろめたい。
晴れれば、帰らなければならない。二日も何もせずに過ごしてしまったのだ。きっと義弟や職場に迷惑をかけているだろう。
黒いズボンを履き、ブーツに脚を入れる。靴紐を編み上げながら、しかし、帰宅は憂鬱だと思う。
初めから父はジュリエンヌの正体を知って居たのだ。だから、俺達を認めようとしなかった。
不思議はない。かの国への父の友好の情は深いからだ。
彼女が全てを失った革命の際に、属領だったこの地の行き先を決める会議があった。
誰もが革命に乗じ、一国として旗をあげるべき、という中、父一人がカロリング王国に加勢し、革命を阻止するように訴えたらしい。
協調を取る事が多い父の異論に幾人かが説得を試みたらしいが、どんな手にも折れなかった。
だが、たった一人の為に総意が変わるはずもない。
結局、議会は領地を国土として、領主は国王とする事を定めた。
余程何かあったのだろう。現在になっても亡国の姫君との仲に苦虫を噛んだ顔をするのだ。
あの人の決定は融通を知らない。認められる訳がない。このままでは引き離されてしまう。仕組まれた留学まで二週間もない。それまで、出来るだけ恋人と過ごすか、負け戦を挑むかどうかを決めなければならない。
「あの、お願いがあるんですけれど。」
壁際の彼女は控え目だ。組み下ろした腕の後ろで腰と髪が落ち着きなく揺れる。何を恥ずかしがるのか。その照れた仕草がとても好きなのだ。舞い上がりそうになるのを堪えきれず口元が綻ぶ。
「どうした、急に改まって。」
「アルベールさま、どうか、怒らないでくださいね?。」
今の俺を怒らせられる者はいないと思うが。
「お前には決して怒りはしないから、言ってみろ。」
一瞬の躊躇のあと、自分の指先を見つめ弱々しく言葉を繋ぐ。
「ごめんなさい。指輪を少しだけ、持っていたいんですけれど・・・。」
呆気にとられてしまった。思い詰めた様子に変に期待をしてしまって損をした気分だ。いや、彼女にとっては一大事なのだろう。大切な形見に関わる事なのだから。
「だから言っただろう。お前が大切に持っていろと。」
「いいえ、今日だけなんです。明日には必ずお返ししますから、なので・・・。」
「わかった、わかった。今更かしこまることもあるまい。」
言い訳を遮り、指輪を箪笥から白い掌に移す。
「ありがとうございます。」
ああ、やはりこの笑顔だ。日向でより一層輝くこの笑顔こそがジュリエンヌの魅力なのだ。それが隣で花咲く。何という幸せ者だ、俺は。
「必ずお返しします。」
固く握りしめ、真摯に約束する。自分に強いている様に見えた。そうまでして証を立てずとも、側に居てくれればいいのだ。
「無理しなくてもいい。元を正せば、お前の母上の物だ。」
「でも、昨日あなたに差し上げたんですもの。お返ししなきゃ、失礼ですから。」
この女も融通が効かない。一度決めた事には何処まで真面目だ。意地悪に言えば、言い出したら聞かない強情でもある。肩を下ろして、彼女の胸元の手に、手を重ねた。
「その指輪はな、かけがえのない物だ。大事に扱ってくれ。」
「わかりました。」
言葉に潜ませた愛情に身を縮める。包み込むように抱き締めてやった。着たばかりのシャツを掴んで、更に密着する。子供のような甘えだ。
「朝食にするのではなかったのか。」
あやす声音で問いかけると、顔を胸に埋めて隠す。
「うん。でも、もう少しこうしていても、いいでしょう。」
肩と声が震えた。苦笑いで頭を撫でる。
「どうした。泣いてばかりだな。」
覗き込もうとするほど顔を隠す。布越しに伝わる滴でばれているのだが。
今生の別れじゃない。すぐに逢えるから。
もしも、逢えなくても大丈夫。
わたしたちが想い合っていれば、わたしたちの世界はずっと続くの。
でも、背に回した腕をほどけない。不安がわたしの力を強くする。
このまま、時が止まって、このまま、抱かれていたい。
「一体、今日はどうしたんだ。随分と甘えたがりではないか。」
その問いかけには答えられなかった。少しでも答えたら全てを話してしまう。
「手を放してくれないか、ジュリエンヌ。」
聞こえない振りをする。あと三分だけ、わたしを放さないでいて。
「ジュリエンヌ。」
穏やかな呼びかけで頭を撫でてくれる。
「もう行かなくては。寂しいのならば、今日も来るぞ。」
優しい言葉。でも、もう、あなたはここに来れないわ。
「・・・じゃあ、待ってます。必ず来てくださいね。なんだか、今日は心細くて。」
今日これからのこと、知っているのに嘘を吐いた。
待っているのも心細いのも本当。でも、この部屋では待てない。
彼から離れて少し頬を解す。わたしを少しも疑わない、ただ愛しいだけの視線が痛い。
「わかった。早い内に来よう。」
口づけが署名の代わりで約束が結ばれる。
「またあとで。」
「ああ。後でな。」
深緑の外套をなびかせて恋人が去って行く。誘う様に揺れる裾を追いかけたい指を堪えて、しっかりと見つめる。
艶消しの黒髪、長い襟足から覗く褐色の肌。幅広の肩と服越しにも分かる逞しい背中。それでいて、脚はすらりと長い。わたしの髪をすき、頬を撫で、指を絡めあった手は骨太で、剣技のために厚く固い。
階段を降りる彼は壁に消える。一瞬見えた横顔は嬉しそうに微笑んで居て、心が痛む。
ごめんなさい。
ごめんなさい、アルベールさま。
わたしはあなたに嘘を吐いています。
あの指輪はもう、きっと還らない。わたしたちはもう、ここへは戻れない。
あなたが今の生活を、貴族として過ごしたいなら、お別れです。
いいえ。違うわ。
本当なら、わたしがあなたから離れなくてはいけないのに。
そんなこと、わかっているのに、わたしはわたしのために彼を諦められない。
あなたがいないと、わたしの世界は続かないの。そのためならわたしはあなたにだって嘘を吐く。
だから、お願い。
わたしから離れないで。わたしを放さないで。わたしと一緒に居て欲しいの。
「お嬢様―いえ、旧カロリング王国第一王女、ジュリエンヌ・テレーズ・カロリング姫。」
いつもの夢の終わりを告げる声が今日は恭しい。振り返ると司祭さまを始め、十人前後の男女がお辞儀をする。
「おはようございます。本国へのご帰還のため、我ら参上致しました。」
数年振りに見た朝の風景にとても違和感を覚えた。自分に言われた気がしない。
「姫、指輪は手元にございますか。」
「ええ。」
司祭さまの手が差し出される。獲物を狙う蛇のように。
「お預かり致します。」
わたしの手はコマネズミの震え。
「やはり、これでなくてはだめなのですか。」
「姫、お気持ちは察しますが、指輪一つと御身やこの街の命には換えられませぬ故。」
本当に察しているの。
本当に察しているのなら、わたしのことなど放って置いて欲しかった。貴女たちが私を担ぎ出すから、あちら側にさとられてしまうのではなくて。
わたしが生きていることも。わたしが形見を大事に持っていることも。わたしがこの街での生活を失いたくないことも。何もかも。
「そう、ですね。」
泣く泣く、指輪を手放す。もう青の美しい指輪はわたしの手には戻らない。
「ありがとうございます。それではご帰還のため、支度をなさって頂きます。」
わたしは身一つでよいのだけれど、大きな荷物を持った人達に部屋へと押し込まれてしまった。
廊下に残った女司祭と幾人かの修道女。その内、特に信頼している一人を呼び寄せる。
「これをアルデンヌ卿令息、アルベール様に。姫がお呼びと。」
「はっ。」
片手から両手に青い指輪が落とされる。手早くしまう部下に更に言葉が掛かった。
「次に独裁派の男にお渡しなさい。」
「本当によろしいので。姫の望むところではないようですが。」
「ええ。街一つと一人の感傷でしたら、街の方が遥かに重い。ただし、必ずやアルベール様をお連れすることです。」
独裁派との取引だ。
『王族の証たる指環を渡さなければ、町を焼き払う』
随分と一方的な要求だが、偵察に行ったはずの仲間が舞い戻り、要求を伝えたきり目の前で火柱になれば呑まざるを得ない。
恋人が居れば抉った傷も少しは癒えるだろう。ただのお飾りでしかない小娘の傷などにかまっている暇はないが、駄々を捏ねられても困り者だ。
「わかりました。」
「そうしたならば、貴女は単独で帰還なさい。『王女、確保セリ』と皆に伝えるのです。」
「了解しました。」
修道女の決意の眼差しに軽く頷き、女司祭は高らかに告げる。
「作戦決行は14時。あとは各員、指示通りに。」