23話
九條蓮司が家を出てから一日が経った。
たった一日、それだけなのに冬月澪にとっては、何年も経ったように感じられた。
「……」
ベッドの上。
澪は蓮司の枕を抱きしめていた。
もう何度目か分からない。
蓮司のスマホに電話をかける。
繋がらない。
メッセージを送る。
返事はない。
それでも澪はスマホを手放せなかった。
「……九條くん」
部屋の中に返事はない。
当然だった。
ここにはもう蓮司はいない。
机の上にはあの手紙が置かれている。
何度も読んだ。
何度も、何度も。
それでも読むたびに涙が出た。
――ちゃんと、生きてくれ。
「……」
澪は手紙を握りしめた。
「無理です」
小さく呟く。
「そんなの……無理です」
九條くんがいない。
それなのにどうして、自分だけ普通に生きられるのか。
分からない。
九條くんは自分を救った。
何も知らず。
ただ傘を貸した。
ただ隣にいてくれた。
ただ自分が泣いている時、何も聞かず頭を撫でてくれた。
その人がもうすぐ死ぬ。
それを知っていて自分だけ、何もせずにいられるはずがなかった。
「……」
澪は蓮司の手紙を持って立ち上がった。
そしてもう一度、蓮司の家を出た。
昨日、電話をくれた人にもう一度連絡をした。
蓮司が病院で話していた医師。
澪が必死に頼み込んで何度も、何度も聞いた。
蓮司がどこへ行ったのか。
どこにいる可能性があるのか。
医師は最初は何も教えてくれなかった。
でも澪は、蓮司が最後に言っていたことを伝えた。
家にいたい。
遠くへ行く。
誰にも見られたくない。
その言葉を聞いて、医師はしばらく黙っていた。
「……一つだけ」
そう言った。
「九條さんが、以前話していた場所があります」
「どこですか?」
「昔、よく行っていた海辺の町だそうです」
「……」
「ただし、必ずそこにいるとは限りません」
「行きます」
澪は迷わず答えた。
「行きます」
電車を乗り継ぐ。
何時間も。
澪は窓の外を見ていた。
蓮司はここにいるのだろうか。
もういないのだろうか。
間に合うのだろうか。
分からない。
ただ手には蓮司の手紙がある。
何度も何度も握りしめた。
「……」
駅に着いた。
そこから海へ向かう。
夏の終わりまだ暑い。
でも蓮司がいた。
あの日のように。
雨の日に傘を貸してくれた時のように。
自分が一人で立っていた時のように、今度は自分が。
蓮司を探す。
「……九條くん」
海辺を歩く…いない。
砂浜を歩く……いない。
防波堤の上………いない。
「……」
澪の足が止まった。
遠く、海の見えるベンチに誰かが座っていた。
「……」
黒い髪、細い身体。
見慣れた横顔。
「……九條くん?」
声が震えた。
返事はない。
澪はゆっくり歩き出した。
「九條くん」
今度は少し大きな声で呼ぶ。
その人がゆっくり振り返った。
「……冬月?」
「……」
澪は何も言えなかった。
見つけた。
本当に見つけた。
それだけで足から力が抜けそうになった。
「どうして……」
蓮司が苦しそうに笑った。
「来たの?」
「……」
「遠かっただろ」
「……」
「俺、帰れって言ったわけじゃないけど」
「……」
「いや、手紙には――」
そこまで言ったところで、澪は蓮司に抱きついた。
「……っ」
蓮司の身体が少し揺れた。
「冬月?」
「……」
澪は蓮司の服を掴んだ。
強く、強く。
「……何で」
「……」
「何で勝手にいなくなるんですか……」
「……」
「何で置いていくんですか……」
「……」
「何で……」
声が震える。
「私に、ちゃんと生きろなんて言うんですか……」
蓮司は何も言わなかった。
ただ澪の頭に手を置いた。
いつものように撫でる。
「……」
その瞬間、澪は声を上げて泣いた。
「……九條くん」
「うん」
「死なないでください」
「……」
「お願いします」
「……」
「私を置いていかないでください」
蓮司は空を見上げた。
「……ごめん」
「謝らないでください」
「……」
「謝らないで……」
澪は蓮司の胸に顔を埋めた。
「私は」
震える声で言った。
「九條くんがいなくなっても」
「……」
「ちゃんと生きます」
「……」
「九條くんが言ったから」
蓮司は黙って聞いていた。
「でも」
澪は顔を上げた。
「九條くんが生きている間は」
「……」
「私が隣にいます」
「冬月」
「嫌だと言ってもいます」
「……」
「帰れと言われてもいます」
澪は涙を流しながら笑った。
「だから」
「……」
「一人で死のうとしないでください」
蓮司はしばらく、澪を見つめていた。
「……困ったな」
「何がですか?」
「俺、冬月の前で死にたくなかったんだけど」
「……」
「泣かせたくなかったし」
「もう泣いています」
「そうだな」
「たくさん泣きました」
「……」
「だから、もう遅いです」
蓮司は小さく笑った。
「……そっか」
そしてそのまま、澪の肩に身体を預けた。
「……九條くん?」
「少しだけ」
「はい」
「疲れた」
「……」
「少し、寝てもいい?」
澪の顔が強張った。
「……」
「冬月?」
「……はい」
澪は蓮司の身体を支えた。
「寝てください」
「うん」
「私がいます」
「……」
「ここにいます」
蓮司は目を閉じた。
澪はその手を握った。
しばらく何も起こらなかった。
海の音だけが聞こえる。
風が吹く。
蓮司の呼吸が少しずつ弱くなる。
「……九條くん」
「……」
「蓮司くん」
返事はない。
「……」
澪は手を握る。
「蓮司くん」
もう一度呼ぶ。
それでも返事はなかった。
「……」
澪は蓮司の胸に耳を当てた。
弱い、とても弱い。
でもまだ音がする。
「……」
澪は蓮司の手を、両手で包んだ。
「ここにいます」
小さくそう言った。
「私がいますから」
蓮司の指がほんの少しだけ動いた。
澪は泣きながら笑った。
「……はい」
そしてそのままずっと隣にいた。
それからどれくらい時間が経ったのか。
澪には分からなかった。
ただ蓮司はまだ生きていた。
そして目を覚ました。
「……」
「おはようございます」
澪が隣にいた。
「……おはよう」
「おはようございます」
「帰ってないの?」
「帰るわけないじゃないですか」
「……」
「九條くんが、私の前で死にたくないと言ったので」
「……」
「なら」
澪は蓮司の手を握った。
「死なないでください」
「無茶言うなあ」
「無茶でもです」
「……」
「私も、最後まで隣にいます」
蓮司はしばらく澪を見つめた。
そして小さく笑った。
「……じゃあ」
「はい」
「帰るか」
「……え?」
「家に」
「……」
「俺の家」
澪の目からまた涙が落ちた。
「……はい」
蓮司はゆっくり立ち上がった。
澪がすぐに支える。
「一人で歩けます」
「駄目です」
「……」
「私が支えます」
「分かった」
二人でゆっくり歩く。
海辺から駅へ。
そして家へ帰る。
家に着いた頃にはもう夜になっていた。
蓮司はベッドに横になった。
澪は当然のようにその隣に座った。
「……」
「何?」
「九條くん」
「うん」
「ただいま」
蓮司は少し驚いた。
「……おかえり」
そう答える。
その言葉を聞いて澪は、静かに笑った。
「……」
「どうした?」
「嬉しいです」
「何が?」
「帰ってきてくれて」
「……」
「ちゃんと」
澪は蓮司の手を握った。
「帰ってきてくれて」
蓮司は目を閉じた。
身体はもう限界だった。
それでも不思議と怖くなかった。
隣に澪がいる。
「……冬月」
「はい」
「俺がいなくなったら」
「……」
「ちゃんと、生きろよ」
「……」
「約束」
澪はしばらく黙った。
「……はい」
そして。
「でも」
「ん?」
「九條くんがいなくなっても」
「……」
「私は、九條くんのことを忘れません」
「……」
「忘れなくても、生きていけるようにします」
蓮司はゆっくり目を開いた。
澪が泣きながら笑っている。
「だから」
澪は蓮司の手を握った。
「安心してください」
「……」
「私を助けた人が」
「……」
「最後まで、私を心配しなくていいようにします」
蓮司はしばらく何も言わなかった。
そして。
「……そっか」
と小さく笑った。
それから数時間後に九條蓮司は眠るように、静かに息を引き取った。
その時冬月澪は隣にいた。
蓮司の手を最後まで握っていた。
泣いた、叫んだ。
何度も何度も蓮司の名前を呼んだ。
それでも蓮司はもう目を開けなかった。
それから数年が経った。
冬月澪は生きていた。
毎日、笑うこともできるようになった。
泣くこともある。
蓮司のことを思い出すこともある。
でももう蓮司がいないからといって、壊れることはなかった。
ある日澪は蓮司の墓の前に立っていた。
手には一つの折り畳み傘。
「……」
あの日、蓮司が貸してくれた傘。
本当はそれしか持っていなかったのにら自分のがあるからと言って自分に貸してくれた傘。
澪はそれを大切に持っていた。
「九條くん」
墓の前で澪は小さく笑った。
「お久しぶりです」
返事はない。
でも澪はもう寂しくなかった。
「私」
澪はゆっくり話し始めた。
「ちゃんと生きています」
「……」
「約束したので」
風が吹く。
木々が揺れる。
「それから」
澪は少しだけ、困ったように笑った。
「やっぱり、九條くんのことは忘れられません」
当然だった。
忘れる必要などなかった。
「でも」
澪は空を見上げた。
「ちゃんと笑えています」
そして折り畳み傘をそっと抱きしめる。
「だから」
澪は最後にあの日と同じ言葉を口にした。
「……ただいま」
返事はない。
けれど澪は少しだけ笑った。
おかえりって聞こえた気がした。
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