2話『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
【第一章 2話】(:百鼠の夜襲)
「……アチラの動向を、ソソソ(探索)してまいります」
それが、吉良邸のお掃除奉公人にして公儀御庭番の班長・ソソソの尾三次が、毎朝残していく決まり文句であった。
時の権力者・柳沢吉保からの「上意」の鑑札をこれみよがしに懐から覗かせ、至極真面目な顔でそう告げられると、吉良家の面々も「うむ、公儀の隠密行動ならば止められぬな」と頷くほかなかった。
――が、しかし。
「え? 脇坂様の御屋敷であいつ何してんだ!」
吉良邸の物見櫓からお隣の脇坂淡路守の屋敷を見下ろしていた清水一学は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
一学の視線の先、お隣の脇坂邸の庭では、尾三次が手ぬぐいを深く被った異形の姿のまま、右、左、右、左、と目にも留まらない「高速の寄せ」のステップを踏んでいた。竹箒の残像がうなりを上げ、脇坂邸の庭の落ち葉から微細な塵芥にいたるまで、一瞬にして芸術的な一塊へと掃き寄せられていく。
脇坂殿の家臣たちが「おお……素晴らしい腕前だ、尾三次殿!」と、握り飯を差し出して大層悦んでいる。
「探索じゃねえだろ! 完璧にただのお掃除じゃねえか!」
一学の痛切なる叫びが、本所松坂町の寒空に虚しく響き渡る。
尾三次の「掃除が滅法巧くて人が良い」という評判は、まずはこのお隣の武家屋敷からじわじわと広がり始めていた。だが、本人の言い訳は常に「上意による探索」の一点張り。吉良家としても、上様(柳沢)の鑑札を出されるとそれ以上は踏み込めない。
そして、その守りの要が「お隣のソソソ」に出かけている隙こそ、赤穂の天才が待ち望んだ瞬間であった。
「――フッ、お庭番が消えたな。吉良殿、お留守番の準備はよろしいか」
脇坂邸の生垣の陰から、浅野内匠頭長矩が不敵な笑みを浮かべて姿を現した。
内匠頭は懐から、一本の不可解な「笛」を取り出す。それは赤穂の特産である塩の壺を洗う道具……ではなく、特製の「鼠呼びの笛」であった。
内匠頭が息を深く吸い込み、笛を唇に当てる。
ピィィィィィィィィィー――ッ!
元禄の静寂を切り裂く、高音の響き。
次の瞬間、地響きのような、しかしどこか軽快な足音が、本所松坂町の裏路地から湧き起こった。
チチチチ、ソソソ、チチチチ!
吉良邸の正面門、そして裏門の隙間から、津波の如く雪崩れ込んできたのは、丸々と太った「トビネズミ百匹」の軍勢であった。内匠頭が事前に江戸中から買い集め、この日のために赤穂上屋敷の床下で英才教育を施した、精鋭なるネズミたちである。
「な、なんじゃあ!? 鼠じゃ! 鼠の群れが庭へ入ってきたぞ!」
門番の叫び声に、奥の間から吉良上野介が慌てて飛び出してきた。
「一学! ランマル! 何をしておる、早くその汚らわしい獣どもを叩き殺せ! 一匹残らず叩き潰すのじゃ!」
「なりませぬ、殿ッ! 刀をお収めくだされ!」
物見櫓から猛スピードで駆け降りてきた清水一学が、必死の形相で吉良の羽織を引っ掴んだ。
「何を言うか一学! 離せ!」
「お忘れですか殿! 今は『生類憐れみの令』の真っ最中にございます! 鼠とて、上様が憐れむべき生類! もし今、ここで我らが刀を抜き、鼠を一匹でも害してみなされ……浅野のバカ殿に『吉良が公儀の法度を破って命を奪った』と即座に通報され、我が吉良家は瞬く間に改易、我らは漏れなく割腹にございまする!」
「ひえっ……!?」
吉良上野介の動きが、ピたりと止まった。
そうなのだ。これこそが内匠頭の「元禄ハッキング」。
お上の悪法を逆手に取り、「殺してはならぬ軍勢」を送り込むことで、吉良邸の武力を完全に無力化したのである。
「チチチ、ソソソ」と鳴きながら、百匹のトビネズミたちは、吉良自慢の庭の植木をかじり、縁側の青畳を無惨に噛み千切り、縁起物の屏風の裾で爪を研ぎ始めた。
吉良上野介は、目の前で愛着のある調度品がネズミの楽園と化していく地獄絵図を見ながら、一歩も動けず、ただガタガタと震えるしかなかった。
その様子を、脇坂邸的生垣から首だけ出して見ていた内匠頭は、静かに数珠を繰りながら、格調高く呟いた。
「これぞ雅。一滴の血も流さず、お上の慈悲の法を以て、吉良殿を合法の檻に閉じ込める。……さあ、夜はこれからにございますぞ」
(第三話へ続く)
【今宵の一句】
叩けぬ刃 鼠の庭に 月清し
(意訳:生類憐れみの令が怖くて、刀を抜くこともできないのだろう。百匹のネズミたちが楽しそうに踊るお前の庭を、今夜の月は実にあかあかと照らしているよ)
第一章 2話 筆者(あっちゅ寝太郎)の強引な解説エッセイ
おいおいおい!始まったぜ、内匠頭殿の第一の合法嫌がらせ「百鼠の夜襲」!
尾三次さんがお隣の脇坂殿の屋敷で「探索(という名のお掃除)」をしておにぎりを貰ってる隙に、完璧なタイミングでネズミの軍勢を解き放ちやがった!
吉良のじいさんは「叩き殺せ!」って大騒ぎだけど、さすが知性派の清水一学、「一匹でも殺したら生類憐れみの令でアウト、我が家が切腹!」って見事なブレーキを踏んだな。一学、苦労人すぎるだろ!
刀を抜けば切腹、抜かねば屋敷がネズミの楽園。どっちに進んでも地獄のチェックメイト!これぞ内匠頭殿の雅なるハッキングだぜ。
さあ、ネズミのやりたい放題にされた吉良邸、このまま黙って引き下がるわけがねえ。次回、吉良が私費で雇ったあの忍び、甲賀のランマルくんがいよいよ最新の防衛カラクリを引っ提げて迎撃に出るわけだ!
内匠頭のネズミ軍団 vs ランマルの生け捕りカラクリ、本所松坂町のせめぎ合いは次回、さらにヒートアップするぜ!




