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第六話:赤色のフィナーレ

毎日18時更新

 月の光は、時として太陽よりも残酷に真実を照らし出す。


 深夜、午前一時。彩星学園の旧美術棟は、分厚い埃と忘れられた芸術の亡霊たちが眠る、静寂の聖域だった。

 高村沙織は、スマートフォンのライトだけを頼りに、軋む床板に悲鳴を上げさせながら、その聖域の奥深くへと足を踏み入れた。


 第二準備室。

 プレートの文字を確認し、唾を飲み込む。震える手で、重い鉄製のドアノブに手をかけ開くと、中は真っ暗ではなかった。すりガラスの窓から差し込む青白い月光が、部屋の中央に立つ一人の人影を、不気味なシルエットとして浮かび上がらせている。

 フードを深く被り、顔は影になって見えない。小柄なように見えるが、闇の中では輪郭さえ曖昧だ。


「……アノニマス、さん?」


 沙織の声は、自分でも驚くほど上擦っていた。

 人影は、言葉を発さずに、ゆっくりと頷いた。


「本当に……助けに来てくれたの?佐伯くんを殺した犯人を知ってるって……本当なの?」


 再び、人影は頷く。そして、おもむろにスマートフォンを取り出し、その画面を沙織に向けた。テキスト読み上げアプリだろうか、無機質な合成音声が、静寂を切り裂いた。


『そうだ。佐伯を殺したのは、神の名を騙る不届き者。彼は、その正体に近づきすぎた』


 その言葉に、沙織はわずかに安堵した。やはり、アノニマスは自分の味方なのだ、と。


「じゃあ、犯人は……」


『それを突き止めるために、君の情報が必要だ。佐伯は、他に何か言っていなかったか?正体について、心当たりは?』


「彼は……」


 沙織は、必死に記憶を辿った。


「アノニマスの正体は、きっと女子生徒だって。それも、普段は目立たないような、意外な人物だって……それで、私、もしかして橘陽菜のことじゃ……」


 沙織が、その名前を口にし終えるか、しないかの刹那だった。

 目の前の人影が、ふっと消えた。そう錯覚するほどの速さで、アノニマスは沙織の背後に回り込んでいた。悲鳴を上げる間もなかった。慣れた手つきで口を塞がれ、抵抗しようとした腕は、驚くほど強い力で背後から拘束される。


「んんっーー!?」


 耳元で、初めてアノニマスの「生の声」を聞いた。

 それは、合成音声とは似ても似つかぬ、少女のものとも取れる、低く、冷たい囁きだった。


「余計なことまで、知っていたんだね。佐伯くんも、君も」


 裏切られた。

 その事実を悟った時、沙織の瞳は絶望に見開かれた。

 月光が、アノニマスの手の中で鈍く煌めくものを映し出す。それは、絵を描くための、ごく普通のデザインナイフだった。


 赤い液体が、闇に舞った。

 それはまるで、新しいキャンバスに、インスピレーションのままに投げつけられた、鮮烈な一滴の絵の具のようだった。


 沙織の意識が途切れる寸前、彼女は見た。フードの隙間からのぞく犯人の口元が、恍惚とした、歓喜の笑みを浮かべているのを。



 ◇



「作業」は、冷静沈着に進められた。

 陽菜は、息絶えて床に横たわる沙織の体を、一つの「作品」として仕上げていく。その手つきに、躊躇いや罪悪感は微塵もなかった。


 持参した、黒く塗装したワイヤーで作った茨の蔓のオブジェ。それを、力なく開かれた沙織の口元に、そっと「飾る」。アノニマスの作品『舌は災いの根』の、完璧な再現だった。


 次に、陽菜は絵の具のチューブを取り出した。

 赤色。それを壁に叩きつけ、指で大きく、禍々しい文字を描いていく。


『偽証』


 これで、完成だ。

 神を冒涜し、偽りの証言で他者を陥れようとした愚かな少女への、天罰。この劇場型の事件は、アノニマスという神話を、さらに絶対的なものへと昇華させるだろう。


 陽菜は、血と絵の具で汚れた手袋を慎重に外してポケットにしまい、証拠が残っていないかを入念に確認する。そして、自分の「作品」の出来栄えに満足げに頷くと、静かに準備室を後にした。


 旧美術棟の、月明かりだけが射す長い廊下。

 自分の足音だけが響く空間を、陽菜はまるで舞台のカーテンコールを終えた女優のように、誇らしげに歩いていた。

 窓ガラスに映る自分の姿を見る。返り血のように付着した赤い絵の具が、彼女を高揚させた。


 出口まで、あと少し。

 完璧な夜。完璧な芸術。完璧な犯罪。

 そう思った、その時だった。



 ーーカタン。



 廊下の、ずっと向こうの暗闇から、何かが床に落ちるような、乾いた小さな音が聞こえた。


 陽菜の足が、ピタリと止まった。

 全身の神経が、針のように研ぎ澄まされ、音のした一点に集中する。

 風の音か?古い校舎の物音か?

 いや、違う。


(誰か……いる?)


 陽菜の表情から、初めて恍惚の色が消えた。

 完璧だったはずの舞台に、予期せぬ観客が紛れ込んでいた。

 そのたった一つのノイズが、彼女の完璧な芸術作品を、台無しにしてしまうかもしれない。


 陽菜は、ゆっくりと、音のした暗闇の方へと顔を向けた。

 その瞳には、芸術家の高揚に代わって、冷たい殺意が宿り始めていた。

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