第七話:共犯者の雑音
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闇の中で、聴覚は最も正直な感覚器だ。
橘陽菜の全身の神経が、物音のした廊下の先、暗がりの一点に集中する。それは錯覚などではなかった。誰かが、そこにいる。この神聖なアトリエに、招かれざる客が紛れ込んでいる。
陽菜は、壁を伝うようにして、音もなく暗闇へと近づいていった。息を殺し、獲物を狩る獣のように。
古いスチールロッカーの影。そこに、何かが蹲っている。小さな、人の形をした塊。
陽菜はポケットからスマートフォンを取り出し、その冷たい光を、躊躇なく影に向けた。
照らし出されたのは、恐怖に顔を引きつらせ、両手で口を覆う、信じられない人物の顔だった。
「……み、お?」
広瀬未央。
こんな時間に、こんな場所に、いるはずのない親友。
未央の瞳は、陽菜の姿を捉えた瞬間、さらに大きく見開かれた。
無理もない。月光とスマホのライトに照らされた陽菜の姿は、およそ普通の高校生のものとはかけ離れていた。顔に、制服に、飛び散った生々しい赤色。それが絵の具なのか血なのか、未央には判断がつかなかっただろう。ただ、それが「死」の色であることだけは、本能で理解していた。
「あ……あ……」
声にならない悲鳴を上げる未央。
その顔を見た瞬間、陽菜の頭脳は、コンマ1秒で最悪の事態から最高の脚本を弾き出した。
パニック、恐怖、そして――涙。
陽菜は、その場にへたり込むように泣き崩れた。それは、もはや芸術の域に達した、完璧な演技だった。
「未央……! よかった、未央……! 助けて……!」
「ひ、陽菜……? なに、その格好……どうして……」
「犯人が……! アノニマスを名乗る、本当の犯人が、高村さんを……!」
陽菜は、涙と嗚咽で途切れ途切れになりながら、瞬時に組み上げた嘘の物語を語り始めた。
自分もアノニマスに呼び出されたこと。準備室に着いた時には、すでに高村さんは倒れていたこと。そこにいたフードの男に襲われ、揉み合いになった拍子に、返り血と絵の具を浴びてしまったこと。
「怖かった……殺されるかと思った……!」
陽菜は、震える手で未央に縋り付いた。
その必死の形相と、これまで未央自身が信じ、広めてきた『陽菜=悲劇のヒロイン』という物語が、未央の脳内で激しく衝突する。
目の前の光景は、陽菜が犯人だと雄弁に語っている。
しかし、親友の涙と訴えは、彼女こそが被害者なのだと叫んでいる。
「け、警察に……! すぐに警察に連絡しないと!」
混乱しながらも、未央が正しい判断を口にした。
「ダメッ!」
陽菜は、それを絶叫で遮った。
「ダメ! 警察は、最初から私を疑ってる! こんな姿を見られたら、私が犯人にされちゃう! お願い、未央! 今は逃げるしかないの! 私を信じて!」
信じて。
その言葉が、未央の心を縛り付けた。自分が信じると決めた物語だ。自分が彼女を救うと誓ったのだ。ここで彼女を見捨てたら、自分まで嘘つきになってしまう。
「……わかった」
未央は、半信半疑のまま、しかし親友を見捨てることはできず、陽菜の腕を掴んだ。
「行こう。早く、ここから」
二人は、もつれるようにして闇の中を駆け出した。
一人は、友を救うために。
そしてもう一人は、友を共犯者に引きずり込むために。
◇
翌日、彩星学園は創立以来、最大の混乱に見舞われた。
旧美術棟で発見された高村沙織の遺体。そのあまりにもショッキングな状況は、瞬く間にマスコミの知るところとなった。
『舌は災いの根』を再現したかのような、儀式的な現場。壁に血文字で書かれた『偽証』の二文字。
世間は、これを『アノニマスによる連続予告殺人』と断定し、恐怖と熱狂をもって報じた。アノニマス神話は、ついに学園という小さな枠を飛び越え、社会現象へと発展したのだ。
学園は臨時休校となり、生徒たちは自宅待機を命じられた。
陽菜も、警察から再び厳しい事情聴取を受けた。だが、彼女はただ「怖くて何も覚えていない」と涙ながらに繰り返すだけだった。決定的な証拠は何一つなく、警察も彼女を容疑者として拘束することはできなかった。
すべては、陽菜の脚本通りに進んでいるように見えた。
その夜。
自室のベッドの上で、広瀬未央は一人、地獄のような葛藤に苛まれていた。
昨夜の出来事が、何度も頭の中で再生される。血まみれの陽菜。彼女の必死の言い訳。
信じたい。でも、信じられない。
ジャーナリストとしての本能が、あの完璧すぎる物語の、些細な矛盾を拾い上げて警鐘を鳴らし続けていた。
未央は、おもむろに上着のポケットから、小さなボイスレコーダーを取り出した。
昨夜、陽菜の身を案じて旧美術棟へ向かった時から、万が一のために、ずっと録音状態にしていたものだ。
再生ボタンを押す。
ザーッというノイズ。自分の荒い息遣い。軋む床の音。
そして――耳を澄ますと、遠くの第二準備室から、微かな声が聞こえてきた。
『……意外な人物だって……たぶん、女子生徒の……』
高村沙織の声だ。
次の瞬間、未央は息をのんだ。
沙織の声に被さるように、もう一つの声が聞こえた。それは、電話で何度も聞いたことのある、親友の声によく似た、低く、冷たい囁きだった。
『余計なことまで、知っていたんだね』
――ドンッ、という物音。
短い、くぐもった悲鳴。
そして、沈黙。
未央は、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、再生を止めた。
間違いない。
低い囁き声は、橘陽菜の声だ。
自分は、親友が殺人を犯す、その決定的な瞬間を、この手で記録してしまっていた。
信じていた物語は、すべて嘘だった。
自分は、悲劇のヒロインの共犯者などではない。
殺人鬼の、共犯者だったのだ。
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