最終話:匿名のアトリエ
あれから、五年。
かつての街は、あの狂乱の夏を、まるで忘れてしまったかのように、穏やかな日常に包まれていた。
彩星芸術学園の校門を、一人の女性がくぐった。
広瀬未央。二十三歳。
首都の大手出版社で、ジャーナリストとして働く彼女は今日、五年ぶりにこの母校へと帰ってきた。
『悲劇を乗り越えた、芸術学園の今』
編集部が、彼女に与えた、特集記事のテーマ。それは、彼女にとってあまりにも皮肉で、そしてあまりにも切実な宿題だった。
校舎は、あの頃と何も変わっていなかった。だが、そこにいる生徒たちの顔は、もう誰も知らない。彼らにとって、五年前のアノニマス事件は、もはやリアルタイムの記憶ではない。先輩から語り継がれる、都市伝説のような、ただの古い物語だ。
未央は、一人校舎を歩いた。
メインステージとなったエキシビションホール。陽菜が、最後に崩れ落ちたあの場所では、今は演劇部が楽しそうに、文化祭のリハーサルをしている。
桐谷先輩が、心を壊された、旧美術棟。そこは取り壊され、新しいデザイン科の校舎が建っていた。
時の流れは、残酷なほどにすべてを洗い流し、新しい日常を作り上げていく。
あの後、橘美咲と綾波玲子は法廷で裁かれ、今は医療刑務所でその罪を償っている。
橘陽菜は、今も心を閉ざしたまま、専門の医療施設にいると聞いている。
桐谷先輩は、一年間の休学の後、復学し、今は海外で風景画家として、静かに活動しているらしい。時折、彼から送られてくる美しい光に満ちた絵葉書だけが、未央との繋がりだった。
佐伯剛三は、二年前、病でこの世を去った。獅子は、最後まで孤独だった。
そして、溝口刑事は、昨年、定年退職した。
すべてが、過去になっていく。
それでいいのだ、と未央は思った。
「……あの、広瀬さん、ですよね?」
取材のために集まってくれた、数人の三年生の生徒たち。その中の一人、絵画科の女子生徒が、少し興奮したように未央に話しかけてきた。
「私、読みました! 広瀬さんが書かれた、あの本! 『匿名のアトリエ』!」
「……ありがとう」
「私たち、あの事件のことは、伝説でしか知らないんですけど……。でも、今の彩星があるのは、広瀬さんのお陰だって先生たちが」
「そんなことないよ」
未央は、静かに笑った。
「それよりも、こんな遅い時間にごめんね?……今の彩星は、どんな感じ? 何か面白いこと、ある?」
彼女は、ジャーナリストとしての質問を投げかけた。
すると生徒たちは、顔を見合わせ、悪戯っぽく笑った。
「面白いこと、ですか? うーん……」
最初に話しかけてきた女子生徒が、声を潜めて言った。
「……実は、いるんですよ。今の彩星に。『神様』が」
「神様?」
「はい。正体不明なんですけど、すごいんです。時々、真夜中にだけ、ネットに作品を投稿するんですけど、そのレベルがもう高校生じゃなくて……」
未央の心臓が、嫌な音を立てた。
「……そ、その、アーティストの名前は?」
「みんな、こう呼んでます」
「――アノニマス、って。奇遇ですよね」
生徒たちは、屈託なく笑っている。
彼らにとって、それは恐怖の名前ではない。純粋な、憧れの象徴なのだ。
「昔の事件とは、全然違うんですよ! その人の絵は、すごく優しくてキラキラしてて……見てると、泣きそうになるんです」
「へえ……」
「あ!」
その女子生徒が、不意に声を上げた。
「もうすぐ日付け、変わりますね。もしかしたら……そろそろ投稿、あるかも」
彼女は楽しそうに、自分のスマートフォンを操作し、その画面を未央に向けた。
「ほらみんな、こうやって待ってるんですよ。神様が、降臨するのを――」
その、瞬間だった。
スマートフォンの、画面の一番上に、一本の通知が滑り込んできた。
そこに表示されていたのは、五年前のあの日々と、まったく同じフォントの、そして、まったく同じ言葉だった。
『Anonymousが新作を投稿しました』
『題:再会を祝して』
ここまで読んでくださってありがとうございました。
これにて、この作品は完結となります。
誰かが与えた評価に一喜一憂するのも、悪くはないと思います。
が、それに傾倒し過ぎると、大切なものを見失ってしまいます。
彼女らのようにならないように、私も気をつけなければなりませんね。




