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第四十五話:夏への扉

毎日18時更新

 あの悪夢のような夜が明けてから、二日が過ぎた。街を覆っていた異常な熱気は、少しずつ、その濃度を薄め、街はまるで何事もなかったかのように、気だるい夏の日常を取り戻しつつあった。


 広瀬未央は、その日、最後にやるべきことを済ませるために、行動していた。


 最初に向かったのは、桐谷海都が入院している病院だった。

 病室のドアを開けると、彼はベッドの上で上半身を起こし、窓の外をぼんやりと眺めていた。彼のそばには、一冊のスケッチブックが開かれている。


「……もうすぐ、退院できるんだって」


 桐谷は、未央の姿を認めると、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、まだぎこちなかったが、確かに彼自身のものだった。


「そっか。よかった」


「よくはないさ。学校には一年休学届を出した。今の俺に、あそこに通う資格は、ない」


 彼は、自分のスケッチブックを指し示した。そこに描かれているのは、ただのぐちゃぐちゃの線の集合体。


「陽菜は俺を、自分の作品にしようとした。でも、失敗した。だから、これから俺が描くものは、どんなに下手くそで価値のないものでも、全部俺自身のものだ。……そう思えるようになるまで、少し時間がかかりそうだけどな」


「……うん」


「お前は、どうするんだ?」


「私は、書くよ」


 未央は、きっぱりと言った。


「この事件のすべてを。翔くんのこと、先輩のこと、そして、陽菜のこと。私が見てきた、本当の物語を」


 二人の視線が、交差する。

 そこにあったのは、もはや憐憫や同情ではない。同じ地獄を生き延びた、生存者同士の、静かでそして、深い共感だった。


「……達者でな、広瀬」


「先輩も」


 短い、別れの言葉。

 だが、彼らはわかっていた。自分たちの魂は、この先一生どこかで繋がり続けるのだと。



 ◇



 次に、未央は一本の電話をかけた。相手は、佐伯剛三。

 彼女は、警察から聞いた事件の法的な結末を、淡々と報告した。そして自らがこの事件を、一冊の本として書き上げる決意を、改めて伝えた。


 電話の向こうの獅子は、すべてを聞き終えた後、深く長い息を吐き出した。その声には、あれほどの激しい怒りの炎は、もう残っていなかった。ただ、すべてを失った男の、深い、深い疲労だけがあった。


『……そうか。終わったのだな』


「はい」


『好きに書け、広瀬さん。君が見つけた真実を、君の言葉で書けばいい。財団は、君の活動を全面的に、支援する。それが、息子にしてやれる、最後の償いだ』


 そして、彼は続けた。


『……もう、私に連絡してくるな。私の役目も終わった。君は、もはや私の代理人ではない。一人の、ジャーナリストだ。……行け。そして二度と、我々のような世界の人間と、関わるな』


 それは、彼なりの優しさであり、訣別の言葉だった。

 この電話を最後に、未央と佐伯剛三が言葉を交わすことは、二度となかった。



 ◇



 最後に未央は、あの場所を訪れた。

 溝口に、特別な許可を取り、一人静かに閉鎖された彩星芸術学園校舎へと、足を踏み入れた。

 あれほど喧騒に満ちていた中庭は静まり返り、祭りの残骸は、綺麗に片付けられていた。


 彼女はまっすぐに、エキシビションホールへと向かった。

 ステージの上は、がらんどうだった。あの、忌まわしい空白のキャンバスも、黒い手形もすべてが消え去り、そこにはただ何もない空間だけが、広がっている。


 未央は、ステージの中央に立った。

 そして、目を閉じる。

 陽菜の絶叫。観客たちの悲鳴。警官たちの怒号。

 一つの世界を、終わらせたのだ。

 勝利感も、達成感もない。ただ、深い、深い哀しみだけが、胸に広がった。

 だが、後悔はしていなかった。



 ◇



 夏休みの、最後の日。

 未央の部屋は、段ボール箱で溢れていた。帝都の大学への進学。そのための、引越しの準備が、始まっていた。

 彼女は、自分の本棚から、本を一冊、一冊、丁寧に箱に詰めていく。

 そして、最後に二冊のノートを手に取った。


 佐伯翔の遺した、鍵付きのノート。

 そして、自らが『匿名のアトリエ』と、記した真新しいノート。


 彼女は、その二冊を、最も大切な宝物のようにタオルに包むと、手荷物用のバッグの一番奥にしまった。

 すべての荷造りが、終わった。

 がらんどうになった部屋。壁のホワイトボードがあった場所には、その痕跡だけが、うっすらと残っていた。

 それが、彼女がこの夏に戦った、唯一の証だった。


「未央ー! もう、行くわよー!」


 階下から、母親の声が聞こえる。


「……うん、今行く」


 彼女は、部屋のドアを開け、そして最後に一度だけ、その空白の空間を振り返った。


 さようなら。

 私の戦場。

 さようなら。

 私の、狂ってしまった青春。


 ドアを閉める。

 カチャリ、というラッチの音が、静かな部屋に響き渡った。

 それは、一つの時代の終わりを告げる音だった。


 夏が終わった。

 秋が訪れ、そして冬が来た。

 綾波玲子と、橘美咲の裁判は、世間の関心が薄れた中で、静かに進み、それぞれに相応の判決が下された。


 そして、広瀬未央は、約束通り自らの物語を書き始めた。

 それはやがて、日本中を震撼させる一冊のノンフィクション作品となるのだが……それはまた、別の話である。

次回、最終回です。

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