第四十三話:我らが父よ
丘陵地帯にそびえ立つ、ガラスと鉄の要塞。その巨大な玄関ドアは、広瀬未央がアプローチの最後の数メートルに踏み込んだその瞬間、まるで主の帰りを待ち侘びていたかのように、音もなく内側へと開かれた。
中にいたのは、あのIT技術者の男だった。彼は表情を変えず、ただ深く一礼すると、未央を中へと促し、そして幻のように闇の中へと消えていった。彼はもはや、この物語の登場人物ではなかった。ただ舞台の幕を上げるための、小道具に過ぎない。
未央は一人、その異質な空間に、足を踏み入れた。
そこは邸宅というよりは、私設の美術館だった。白を基調とした壁。天井まで届く、巨大な窓。そして、そのがらんとした空間に、まるで墓標のように白い布を被せられた、いくつかの巨大なキャンバスが、点々と配置されている。
そして、その空間の最も奥。玉座に座る女王のように、一人の女が座っていた。
橘美咲。
彼女は、深く黒いドレスを身に纏い、その膝の上には、一冊のスケッチブックが置かれていた。
「……ようこそ、いらっしゃいました。広瀬未央さん」
その声は、病的なか細さなど微塵も感じさせない、凛とした支配者の声だった。
「佐伯先生の代理としていらしたのかしら。それとも、あなた自身の意志で?」
「両方です」
未央は、臆することなく答えた。
「素晴らしい。批評家には、主体性が必要ですものね」
美咲は、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、内覧会を始めましょう。私の生涯を懸けた、最後の個展。あなたと、そしてモニターの向こうで見ているであろう愚かな警察と、そして……愛すべき宿敵、佐伯剛三先生のために」
彼女は、最初のキャンバスの前へと歩み寄った。そして、まるで愛おしい子供の顔を撫でるかのように、その白い覆いを、静かに取り払った。
現れたのは、佐伯翔の肖像画だった。写真と見紛うほどの、完璧な写実。だが、その瞳には、若さ故の傲慢さと、才能への過信が、残酷なまでに描き込まれていた。
「最初の作品。『愚かなるイカロス』。真の芸術という太陽に近づきすぎ、その蝋の翼を溶かされた少年。私の物語の序章を飾るには、相応しいモチーフでした」
次に、彼女は桐谷海都の肖像画を披露した。あの夜の石膏デッサン室の光景が、完璧に再現されている。
「二番目の作品。『金の子牛』。商業主義という偽りの神に、魂を売り渡した偶像。私の娘、陽菜の最高の習作です。彼女は、この作品で、感情を描くことを覚えた」
玲子、陽菜、そして、佐伯剛三。
彼女は、一人一人、その肖像画の覆いを外していく。その一つ一つが、彼女の歪んだ、しかし絶対的な美学に貫かれた、完璧な芸術作品だった。それは、彼女の犯行の詳細な自白であり、そして魂の解剖図でもあった。
そして最後に。
美咲は、部屋の中央に置かれた、最も大きなキャンバスの前に立った。
「そして、これこそが、この展覧会の中心。私の、本当の最高傑作」
彼女の声が、恍惚と震える。
「タイトルは、『Pater Noster』――我らが父よ」
彼女が、白い覆いを引き下ろした、その瞬間。
司令車両の溝口も、相田も、そしてその場にいる未央も、息をのんだ。
そこにあったのは、空白だった。
何一つ、描かれていない。ただ、真っ白な巨大なキャンバスが、そこにあるだけだった。
「……これが?」
未央が、思わず呟く。
美咲は、心からの笑みを浮かべた。
「ええ。わからないかしら、広瀬さん。あなたのようなジャーナリストには、そこに在るものしか見えないのでしょうね。でも、真の芸術とは、そこに在らざるものを見せること。語られざる、物語を語ること」
「これは、佐伯剛三という男の肖像画よ。彼の芸術。彼の人生。彼の、魂そのもの」
彼女は、その空白を指し示した。
「彼は、王様よ。批評家であり、権力者。だが、彼は何も生み出さない。ただ評価し、破壊し、消費するだけ。彼が通り過ぎた後には、この完璧な空白だけが残る。私のように、陽菜のように、そして彼自身の息子のように。すべての才能は、彼の前では無に帰すの。このキャンバスこそが、彼の魂の完璧な肖像だとは思わない?」
それは、復讐の最終形だった。
獅子のすべてを、無として定義し、それを芸術として、永遠に飾り上げる。
これ以上の、侮辱はないだろう。
だが、その時だった。
それまで黙っていた未央が、静かに口を開いた。
「……素晴らしい批評ですね。橘先生」
「でも、その批評は間違っています」
未央は、ゆっくりとその空白のキャンバスへと、歩み寄った。
「あなたは、これを無と、おっしゃった。終わり、だと。でも、私にはそうは見えない」
「空白のキャンバスは、終わりではありません。始まりです。無限の可能性。まだ、語られていない物語。あなたが、あなたの芸術が、ただの一つも持つことができなかった『未来』そのものです」
未央は、懐から佐伯翔の、あのノートを取り出した。
「あなたの娘、陽菜さんは天才でした。あなたの芸術も、素晴らしかった。でも、あなたたちは二人とも、一度も『創世記』を描くことはできなかった。あなたたちが描いてきたのは、いつだって終わりの物語だけだったから」
「佐伯翔くんは違った。彼は、陽菜さんの空白のキャンバスに、未来を見ていた。始まりを、信じていた。だから、彼は死んだ」
「あなたは、ここで傑作を完成させたつもりかもしれない。でも、あなたはただ、自分の物語を終わらせただけ。自ら筆を折り、何も描けなくなった自分自身を、このキャンバスに投影しているだけ」
「創造することをやめた芸術家は……」
未央は、美咲の目をまっすぐに見つめて、言い放った。
「……もう、死んでいるのと同じです」
――死。
その一言が、美咲の心の、最後の琴線を断ち切った。
彼女の完璧な仮面が、音を立てて砕け散る。
その顔に浮かんだのは、芸術家としてのプライドを、根底から否定された純粋な憤怒と、そして図星を突かれた、子供のような狼狽だった。
「……黙りなさいッ!!」
獣のような絶叫。
彼女は、傍らのテーブルに置かれていた、一本のパレットナイフをひったくった。
そして、未央に向かうのではなく、自らの最高傑作である、あの空白のキャンバスへと突進した。
「まだ……! まだ終わってなんか、いないッ!!」
そのナイフが、純白のキャンバスを切り裂こうと振り上げられた、瞬間。
「突入しろッ!!」
未央のイヤホンから、溝口の絶叫が響き渡った。
次の瞬間。
邸宅の巨大なガラス窓が、けたたましい破壊音と共に、粉々に砕け散った。
黒い戦闘服に身を包んだSATの隊員たちが、次々と内部へとなだれ込んでくる。
美咲は、ナイフを振り上げたまま凍りついた。
未央は、その地獄絵図の中で、ただ静かに立っていた。
最後の個展の、フィナーレ。
それは、作者自身が望んだ、静かな幕引きではなかった。
未央という、たった一人の批評家によって引き起こされた、最も醜く、最も暴力的な破壊によって、その幕はこじ開けられたのだ。




