第四十二話:観客たちの開演
その日の朝。目覚めと同時に、戦場になった。
橘美咲が、自らの潜伏先を公表し、宿敵である佐伯剛三を名指しで招待したという、ニュース。それは、市民の生活を、完全に麻痺させた。
市の北部へと続くすべての道路は、警察によって封鎖された。だが、その検問の手前には、この世紀の対決を一目見ようと集まった、おびただしい数の野次馬と、報道陣の車列が、延々と続いていた。空には、旋回するヘリコプターの爆音が鳴り響き、ネットの掲示板はこれから始まるリアルタイムの惨劇への期待と、憶測で溢れかえっていた。
橘美咲は、たった一人でこの街の機能を、完全に掌握したのだ。彼女は、もはや単なる犯罪者ではない。人々の心を操る、恐るべき演出家だった。
◇
丘陵地帯の森の中に設置された、警察の移動司令車両。その内部は、緊迫した空気と電子機器の低い唸りで、満たされていた。
「……作戦会議を始める」
溝口の、低い声が響く。
集まったのは、溝口、相田、そして昨夜、この前線基地へと呼び出された、広瀬未央。そして、大型モニターの画面の向こう側には、書斎に座る、佐伯剛三の姿があった。
これが、この狂った事件を終わらせるための、最初で最後の合同作戦会議だった。
「状況を、整理する」
溝口が、邸宅の見取り図を指し示した。
「目標は、邸宅の内部に潜伏中。協力者の、IT技術者と二人きりだ。SAT(特殊急襲部隊)は、すでに周囲を、完全に包囲している。だが、問題は邸宅そのものだ。あれは、ただの家ではない。建築家、鳴瀬――先日失脚した、あのパトロンの一人だ――が、設計した要塞だ。防弾ガラス、電子ロック、そしておそらくは、何らかの罠が仕掛けられている可能性もある」
『ならば、躊躇うことはないだろう』
モニターの向こうから、剛三の冷たい声が響いた。
『奴がパフォーマンスを始める前に、すべてを破壊し、踏み潰せばいい。それが、最も確実で効率的なやり方だ』
「それはできません」
その獅子の言葉を遮ったのは、未央だった。
全員の視線が、彼女に集中する。
「陽菜もそうでした。彼女たちの本当の目的は、暴力的な破壊行為ではありません。彼女たちが望んでいるのは、自らの芸術と思想を、我々に理解させ、その物語を完成させること。もし、我々が力ですべてをねじ伏せれば、それこそが彼女の思う壺です。『理解されなかった、悲劇の芸術家』として、彼女は殉教者となり、アノニマスの神話は、永遠に生き続けることになる」
「……では、どうしろと?」
相田が、問い詰める。
未央は、まっすぐにモニターの向こうの剛三を、見つめた。
「彼女が望む通り、観客になってあげるんです。彼女の、最後の個展の、たった一人の観客に」
「……正気か」
「彼女が招待したのは、佐伯先生、あなたです。この物語は、あなたと彼女の、二人の物語なのだから。あなたが行かなければ、幕は上がりません」
その、あまりにも危険な提案。
だが、それは、この膠着した状況を打破する、唯一の鍵だった。
長い沈黙の後、溝口が決断した。
「……わかった。だが、佐伯先生を行かせるわけにはいかない。代理人を立てる」
溝口の視線が、未央に注がれた。
「広瀬さん。君に行ってもらう。君だけが、橘美咲という人間の言語を、理解できる」
◇
その作戦が、最終的に決定されたのは、日が傾き始めた午後のことだった。
作戦の最終確認中、未央のポケットで、スマートフォンが震えた。父親からだった。
テレビで事件を知ったのだろう。その声は、震えていた。
『未央……お前、まさか、あんな危ない場所に、いるんじゃないだろうな』
「……大丈夫だよ、お父さん」
未央は、必死に平静を装った。
「私は、安全な場所にいるから。心配しないで。すぐに帰るから」
その嘘が、自分の心をどれだけ深く傷つけたか。
だがもう、後戻りはできなかった。
◇
丘陵地帯の邸宅。
その巨大なリビングの中央で、橘美咲は静かに目を閉じていた。
彼女は純白ではなく、深い喪の色を思わせる、黒いドレスを身に纏っていた。
部屋の中には、彼女がこの数日間で描き上げた数枚の肖像画が、白い布を被せられ、イーゼルの上に立てかけられている。
「……来ます」
協力者の男が、窓の外を見ながら、声を震わせた。
「警察も、マスコミも……そして、佐伯剛三の手の者も。すべて、あなたの筋書き通りに」
「ええ」
美咲は、薄く目を開けた。
「芸術家が、個展を開くのですもの。観客と、そして批評家がいなければ始まらないわ」
彼女は、部屋の中央に置かれた、最も大きなキャンバスに、そっと触れた。
「そして、彼こそが私の生涯でただ一人。その評価を聞くに値する、批評家なのだから」
◇
宵の明星が、西の空でひときわ強く、輝き始めた。
約束の時が、来た。
未央は、服の下に超小型のカメラとマイクを装着していた。耳には、溝口との通信を確保するための、小さなイヤホン。
彼女は、司令車両から一人、降り立った。
ひんやりとした、高原の空気が、肌を刺す。
ここから邸宅までは、約二百メートル。その暗い一本道を、たった一人で歩いていく。
道の両脇の森の闇の中には、何十人ものSAT隊員たちが、息を殺して潜んでいる。空には、赤外線カメラを搭載したドローンが、旋回している。
だが、未央は一人だった。
これから始まる舞台の主役は、自分なのだから。
ガラス張りの邸宅は煌々と明かりが灯され、まるで闇の中に浮かぶ、巨大な宝石箱のように見えた。
美しい、罠。
イヤホンから、溝口の緊迫した声が聞こえる。
『……聞こえるか、広瀬さん。君を映像で捉えた。全世界が、君を見ている。……幸運を祈る』
未央は、一つ深く息を吸うと、その光の箱へと続く道を、一歩、一歩踏みしめるように歩き始めた。
最後の個展。
その幕が、今静かに、上がろうとしていた。




