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第三十八話:ハイエナたちの饗宴

毎日18時更新

 広瀬未央は、彩湖さいこの湖畔に一人、立っていた。

 夏の終わりの強い陽射しが、きらきらと湖面に乱反射している。そのあまりにも、平和な風景の中で、彼女の頭の中だけが、数時間前に聞いた元美術評論家・渋沢恭一の言葉によって、激しい嵐に見舞われていた。


『――あれは、カルトだよ。橘美咲を女神として崇める、選民思想に凝り固まった権力者たちのね』


 浮見堂の朱塗りの欄干にもたれながら、渋沢は吐き捨てるように言った。


『奴らは、自分たちを真の価値がわかる最後の貴族だと思い込んでいる。橘美咲のあの潔癖すぎる芸術は、奴らにとって商業主義に汚染された、現代社会への反逆の狼煙だったのだ。パトロン、などという、生易しい、ものではない。信者だよ。美術界だけではない。建築、金融、文学……各界に散らばる影響力のある、人間たちが、彼女のサロンに集っていた。そして、佐伯剛三はそのすべてを体現する敵だった。芸術を金に換え、権威という玉座にふんぞり返る、俗物の王。剛三が、美咲の作品を否定した、あの日。奴らは、自分たちの、思想そのものが、世界から嘲笑されたのだ』


 未央は、ようやく理解した。

 橘陽菜の狂気は、ただ母親の復讐心だけを受け継いだのではなかった。彼女は、この巨大なカルト思想の希望の星であり、そして最初のテロリストだったのだ。


『……気をつけたまえ、小娘』


 渋沢は、最後にそう、言い残した。


『君が、首を突っ込んでいるのは、ただの殺人事件ではない。ハイエナたちの饗宴だ。下手にその肉を横取りしようとすれば、君自身が骨まで食い尽くされるぞ』



 ◇



 その警告は、あまりにも早く、現実のものとなった。


 彩湖から、彩ノ宮市の中心部へと戻る最終のバスを降りたのは、もう日が完全に落ちた後だった。自宅へと、続く、慣れた住宅街の道を、歩いているその時だった。


 一台の黒いセダンが、音もなく彼女の隣に並んだ。

 後部座席のウィンドウが、静かに下がる。中には、上質スーツを着こなした、初老の男が座っていた。その、笑みは穏やかだったが、目は一切笑っていなかった。


「広瀬未央さん、だね」


 男は、タブレットの画面を、未央に向けた。

 そこに映し出されていたのは、未央の自宅の、リビングの映像だった。画質は荒いが、テレビを見ながら談笑している、彼女の両親の姿が、はっきりと見て取れる。盗撮だ。


「……っ!」


「君のご両親は、実に穏やかで幸せそうに見える。芸術だの、思想だの、そんな馬鹿げたものとは無縁の、素晴らしい人生だ」


 男の声は、どこまでも優しかった。


「橘美咲の物語は、悲劇だ。悲劇は、静かに幕を下ろさせておくべきなんだよ。君のような若者が、興味本位でその墓を暴くべきではない。いくつかの物語は、語られないままの方が美しい。……わかるね? 広瀬さん」


 それは、完璧な脅迫だった。

 セダンは、未央の返事を待つこともなく、静かに走り去っていった。

 未央は、その場に立ち尽くした。心臓が、氷の手で鷲掴みにされたかのように、痛んだ。自分のせいで。自分の家族が、危険に晒されている。



 ◇



 自室に駆け込むと、未央は震える手で、スマートフォンを握りしめた。


 警察に、電話をするか?

 いや、無駄だ。証拠は、何もない。あの男たちは、決して尻尾を出さない。


 頼れる相手は、一人しかいなかった。

 悪魔を狩るためには、悪魔の力を借りるしかない。


 彼女は、佐伯剛三の弁護士から渡されていた、緊急用の番号に電話をかけた。

 数回のコールの後、電話の向こうから、あの重い声が聞こえた。


『……どうした』


「佐伯先生。私です、広瀬です」


 未央は早口に、しかし正確に、何があったのかを伝えた。渋沢から聞いた、カルトの話。そして、たった今受けた脅迫。両親が盗撮されている、という事実。


 電話の向こうで、長い、長い、沈黙が続いた。

 未央は、息をのんで待った。

 やがて聞こえてきたのは、地獄の底から響いてくるような、低く押し殺した声だった。


「……そうか」


 その声は静かだったが、万雷の怒りが込められていた。


「あの腐ったハイエナどもめ。まだ、生きていたのか。そして、息子の死を冒涜するだけでなく、この私に牙を剥く、と」


「……先生?」


「礼を言う、広瀬さん。君は、素晴らしい仕事をしてくれた。ただの、蛇の尻尾だと思っていたが、その奥に、巨大な毒腺があることを突き止めてくれた」


「もう、いい。君は、もう何もしなくていい」


「あとは、獅子の仕事だ。ハイエナの狩り方を、教えてやろう」


 一方的に、電話は切れた。

 未央は、呆然としていた。

 自分は一体、どんな怪物のスイッチを、押してしまったのだろう。



 ◇



 未央は、眠れずにベッドの上で、ニュースサイトを眺めていた。

 その瞬間は、前触れもなく、訪れた。


 スマートフォンの画面が、一斉に速報のテロップで、埋め尽くされていく。


 それは、帝都の大手メディアからの、一斉同時多発的なスクープだった。


『速報:大手設計事務所『アステシス・デザイン』、数十億円規模の、脱税疑惑! 帝都地検特捜部が、強制捜査へ!』


『衝撃:有名ベンチャーキャピタリスト・鳴瀬氏、インサイダー取引の疑いで、事情聴取!』


『文壇激震:直木賞作家・伊集院氏、過去の受賞作に深刻な盗作疑惑が浮上!』


 未央は、凍りついた。

 アステシス・デザイン。鳴瀬。伊集院。

 その名前は、すべて昨日渋沢が橘美咲のカルトの中心メンバーとして挙げていた、名前だった。


 これは、警察の捜査ではない。

 もっと巨大で、もっと容赦のない力。


 佐伯剛三が、動いたのだ。彼は、警察でも、検察でもない。彼が持つメディアと、金融界への影響力という、私的な「軍隊」を動かしたのだ。

 彼は、カルトのメンバーたちを、一人、一人、社会的に抹殺する全面戦争を始めた。


 未央は、震えが止まらなかった。

 自分は、ただ真実を知りたかっただけなのに。

 いつの間にか自分は、神々の戦争の引き金を、引いてしまっていた。

 そして、この戦争の行き着く先に、一体、何が待っているのか。


 もはや、誰にも予測することはできなかった。

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