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第三十七話:墓掘りの警告

毎日18時更新

 橘陽菜の狂気が白日の下に晒されてから、九日が過ぎた。世間は表面上、その熱狂的な夏の日々を忘れようとしているかのように、静けさを取り戻しつつあった。

 だが、広瀬未央の戦いは、まだ始まったばかりだった。


 彼女は、自室のパソコンの画面に映し出された、佐伯剛三からの短い、しかし不吉な警告のメールを、何度も、何度も、読み返していた。


『……橘美咲には、当時複数のパトロンがついていた。君が、その古傷を暴くことを、快く思わない人間たちがいる』


『獅子の縄張りに、踏み込んだのだ。ハイエナどもの視線には、常に注意を払え』


 パトロン。

 その言葉が持つ、ぬらりとした響き。それは、単なる芸術の支援者という、綺麗な言葉だけでは収まらない、もっと深く、暗い関係性を匂わせていた。


 橘美咲という、若く美しい天才画家。彼女の才能に群がっていたのは、純粋な美術愛好家だけだったのだろうか。金と権力と、そして若い才能への歪んだ支配欲。美術界という、華やかな世界の裏側で蠢く、醜い欲望。


 未央は、気づき始めていた。自分が掘り起こそうとしているのは、橘一家という一つの家族の悲劇だけではない。それは、日本の美術界が、長年その美しい仮面の下に隠し続けてきた、腐臭を放つパンドラの箱、そのものなのかもしれない、と。


 怯むか?

 ここで、引き返すか?

 答えは、否だった。


 彼女が書くと決めた、物語。その真実を完成させるためには、もはや引き返すという選択肢はなかった。ハイエナの群れの中に、自ら飛び込んでいくしかない。


 未央は、決意を固めた。

 デジタルアーカイブでの調査だけでは、限界がある。二十年前の空気を知る、人間の生の声が必要だ。


 彼女は、佐伯剛三から与えられた資料のリストの中から、一人の人物の名前を選び出した。


 渋沢(しぶさわ)恭一(きょういち)

 かつて、その鋭い舌鋒で画壇を震撼させた、高名な美術評論家。しかし、十年以上前に突如筆を折り、今は、湖のほとりで隠遁生活を送っているという老人。

 未央は、財団の奨学生という肩書きを最大限に利用し、彼に一通の丁重なメールを送った。



 ◇



 その頃、県警の捜査本部は、焦りと苛立ちに包まれていた。

 綾波玲子の部屋から押収された、橘美咲との手紙の束。そこには確かに、陽菜の犯行を示唆するような、数々の記述が見つかった。

 だが、そのどれもがあまりにも巧妙で、詩的な比喩表現で書かれていたのだ。


『……あのキャンバスは、もうすぐ最後の色を受け入れるでしょう。真紅の、美しい色を』


『……批評家たちの愚かな舌は、早く摘み取ってしまわなければなりませんね』


 それは、芸術論のようにも読めた。法廷で、これを具体的な殺人教唆の証拠として突きつけるには、あまりにも脆弱だった。


「……まるで、文学作品ですね」


 相田が、悔しそうに机を叩いた。


「この芸術家たちの持って回った言い方を、裁判員に理解させるのは、至難の業です」


「だから、必要なんだ」


 溝口が、呟いた。


「この暗号文を翻訳できる、通訳が。奴らが生きていた、あの世界の常識を我々に教えてくれる人間がな」


 警察もまた、過去の亡霊たちの証言を、必要としていた。だが彼らには、その亡霊の扉を開けるための、鍵がなかった。



 ◇



 翌日の午後。

 未央の元に、渋沢恭一から返信があった。

 それは、彼女の予想通り、短く、そして挑戦的な文面だった。


『佐伯剛三の、新しい猟犬か。あの老いたる獅子も、変わらんな』


『橘美咲について、私が話すことは何もない。あの女の物語は、掘り起こすべきではない悲劇だ』


『だが、もし君が本当に、あの時代の「真実」に興味があるのなら。剛三が、君に書かせたい物語ではない、本当の真実にだ。一度だけ、会ってやろう』


『明日の正午。湖の寺にある浮見堂で待つ。一人で、来い』


 未央は、そのメールを、何度も読み返した。

 渋沢は、明らかに佐伯剛三と、そして橘美咲と、深い因縁がある。彼は、何かを知っている。この事件の、根幹を揺るがすような、何かを。


 これは、罠かもしれない。

 だが、行くしかない。



 ◇



 決戦の、前夜。

 未央は、明日の準備のために、これまでの調査資料を鞄に詰めていた。佐伯翔のノート、桐谷の証言のメモ、そして陽菜と美咲の、作品のコピー。


 ふと、彼女は窓の外に視線を向けた。

 自分の部屋からは、家の前の通りが、よく見える。

 そこに、一台の黒いセダンが停まっていた。ありふれた国産車だ。だが未央は、その車が数時間前からずっと同じ場所に停まっていることに、気づいていた。


 気のせいか?

 いや、違う。


 運転席に座っている男のシルエットが、時折煙草の火で一瞬だけ照らし出される。その視線は、明らかにこの家を向いていた。

 佐伯剛三の警告が、脳裏に蘇る。


『ハイエナどもの視線には、常に注意を払え』


 ハイエナは、もうすぐそこに、いたのだ。

 自分の調査活動は、すでに誰かに察知されている。橘美咲のパトロン。あるいは、それ以外の何か。


 未央は、静かにカーテンを閉めた。

 心臓が、嫌な音を立てている。


 自分が足を踏み入れた、この過去という名の森は、自分が想像していたよりも、ずっと深く、そして暗い獣たちが、潜んでいるのかもしれない。

なんとなく、これが終わった後のことを考えていました。

決めたら、最終話で告知します。

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