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第三十五話:法廷という劇場

毎日18時更新

 二月。

 街は、海沿いから吹き付ける、冷たい乾いた風に震えていた。


 あの狂乱の夏から、半年。世間のアノニマス事件に対する熱狂的な関心は、まるで嘘のように薄れ始めていた。日々、生まれては消えていく新しい事件や、スキャンダル。人々の記憶は、残酷なまでに上書きされていく。


 だが、終わったわけではなかった。

 水面下では、巨大な法廷闘争の準備が、着々と進められていたのだ。


 地方裁判所。

 その荘厳で冷たい石造りの建物の前で、広瀬未央は、深く息を吸い込んだ。黒いリクルートスーツに身を包み、髪を一つに束ねた彼女は、もはやどこにでもいる高校生ではなかった。佐伯剛三が設立した育英財団の、第一期奨学生。そして、アノニマス事件の最重要証人。それが彼女の、新しい肩書きだった。


「……緊張していますか?」


 隣に立つ溝口が、低い声で尋ねた。彼もまた、今日の証言のために、東京から駆けつけていた。


「少しだけ」


「でしょうね。だが、忘れないでください。ここは、劇場です。そして君は、もはや観客ではない。真実という最強の武器を持った、主役の一人だ。堂々としていればいいんです」


 その励ましの言葉に、未央は、小さく頷いた。


 今日行われるのは、綾波玲子の初公判。

 彼女の弁護団は、優秀だった。橘美咲の一族が、その財力を、惜しげもなく注ぎ込んでいるらしかった。


 彼らの主張は、一貫していた。

 玲子は、長年の友人である美咲の、精神的な苦しみに寄り添うあまり、正常な判断能力を失っていた。彼女は、陽菜の犯行計画など何も知らず、ただ純粋な善意から、画材の購入などを手伝っていたに過ぎない。彼女もまた、橘親子に利用された、哀れな被害者なのだ、と。


 それを覆すことができるのは、玲子が犯行を認識していたことを証明できる、ただ一人の証人。

 広瀬未央の、証言だけだった。



 ◇



 法廷の空気は、張り詰めていた。

 被告人席に座る綾波玲子は、この半年でまるで別人のようにやつれ、その瞳からは、すべての光が失われていた。

 証言台に立った未央は、検察官の淡々とした質問に、一つ、一つ、丁寧に答えていった。


 あの日、喫茶店で聞いた、玲子の電話の内容。『次の作品』という言葉。それは彼女が、陽菜の計画を明確に認識していたことの、動かぬ証拠だった。


 弁護士からの、執拗な反対尋問。未央が、陽菜を追い詰めるために行ってきた、数々の非合法な調査活動を突き、彼女の証言の信憑性を貶めようとする。


「あなたは、親友であった橘陽菜さんに、強い嫉妬心を抱いていたのではありませんか?」


「あなたは、ジャーナリストとして名を上げるため、この事件を利用しようとしたのではありませんか?」


 悪意に満ちた、言葉のナイフ。

 だが、未央の心は揺らがなかった。彼女は、ただ事実だけを語った。


「私がしたことは、許されることではなかったかもしれません。ですが、それは私がこの目で見た真実です。綾波さんは知っていた。陽菜が、次に何をしようとしていたのかを。そして、それを止めようとはしなかった。それだけが事実です」


 その揺るぎない証言が、決定打となった。


 数週間後。綾波玲子には、執行猶予付きの有罪判決が下された。

 それは、あまりにも軽い罰だったかもしれない。だが、法は彼女を、明確に「犯罪者」として断罪したのだ。



 ◇



 そして、物語はついに、最後の怪物との対決へと向かう。

 検察は橘美咲を、殺人教唆の容疑で起訴する、最終的な決断を下したのだ。


 決め手となったのは、綾波玲子の全面的な自供と、溝口が、執念で掘り起こした一つの物証だった。


 美咲が、療養施設から玲子に送っていた、大量の手紙。その、一見当たり障りのない日常を綴った手紙の行間に、特殊なインクで書かれたもう一つのメッセージが、隠されていたのだ。それは、陽菜の犯行を具体的に指示し、その芸術性を賞賛する狂気の指令書だった。


 彼女は、病気の仮面の下で、冷静にすべてをコントロールしていたのだ。


 だが、美咲の弁護団は最強だった。佐伯剛三に匹敵するほどの権力と金を持つ彼女の一族が、総力を挙げて、彼女の無罪を主張していた。

 彼らの切り札。それは、橘陽菜本人だった。



「……陽菜ちゃんに、会ってほしいの」


 拘置所で、玲子は未央に、そう懇願した。


「あの子は、今も心を閉ざしたまま。でも、あなたになら……あなただけが、あの子の本当の心を引き出せるかもしれない。お母さんの呪縛から、あの子を解放してあげられるのは、あなたしかいないのよ」


 未央は、迷った。

 今更、陽菜に会って、何を話せばいい?

 だが、彼女は行くことを決意した。

 それが、この物語を終わらせるための、自分に課せられた、最後の役割なのだと悟っていたからだ。



 ◇



 警察病院の、特別面会室。

 アクリル板の向こう側に、橘陽菜は座っていた。

 白い病院着。長く伸びた髪。その顔には、何の表情もない。ただ、虚空を見つめているだけ。

 未央は、受話器を手に取った。


「……陽菜」


 呼びかけても、反応はない。

 未央は、ただ静かに語り始めた。

 自分たちが出会った、あの日のこと。二人で笑い合った、何気ない放課後のこと。そして、彼女がアノニマスとして墜ちていく、その悲しい軌跡のこと。


「……私は、あなたを止めなければならなかった。でも、憎んでいたわけじゃない。あなたの才能を、誰よりも信じていたのは、私だったのかもしれない」


 その言葉を口にした瞬間。

 陽菜の虚ろだった瞳が、ほんのわずかに動いた。


 その視線が、ゆっくりと未央を捉える。

 そして、彼女の唇が、かすかに震えた。


 何かを、言おうとしている。

 長い、長い、沈黙の後。

 受話器の向こうから、ほとんど音にならないような、か細い声が聞こえてきた。


「……あなたは」


「……だれ?」


 その一言は、未央の心を、深く、深く抉った。

 彼女は、本当にすべてを忘れてしまったのか。


 それとも、それすらも彼女が作り上げた最後の、そして、最も哀しい芸術作品なのか。

 答えは、永遠にわからないだろう。

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