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第三十四話:獅子との謁見

毎日18時更新

 広瀬未央は、眠れずに自室の冷たいフローリングの上に、座り込んでいた。スマートフォンの画面だけが、暗闇の中で青白く、彼女の顔を照らし出している。


 そこに表示されているのは、昨夜届いた、一通のメール。


『佐伯剛三』


 その名前が持つ、重さ。

 日本画壇の頂点に君臨する、帝王。最初の被害者、佐伯翔の父親。そして、すべての悲劇の遠因となった、橘美咲の心を折った、男。


 彼が、自分に会いたがっている。

 その真意は、何だ?


 息子の死を悼む、父親としての純粋な悲しみか。

 息子を殺した橘親子への、燃えるような復讐心か。

 あるいは、自らの社会的権威を守るため、この醜聞に満ちた事件の物語をコントロールしようとする、権力者の傲慢さか。


 おそらく、そのすべてだろう。

 この男に会うことは、危険だ。それは、虎の縄張りに、自ら足を踏み入れるようなものだ。

 だが、未央はわかっていた。この誘いを断るという選択肢は、自分にはない、ということを。

 佐伯剛三が持つ、『すべての力』。それは、陽菜たちが遺した狂気の神話を、完全に破壊するために、必要不可欠な武器になるかもしれない。


 未央は、短い返信を打ち込んだ。

 場所は、こちらから指定する。市内の、ホテルのラウンジ。自分のテリトリーで戦う。それが、彼女にできる、唯一の武装だった。



 ◇



 その日の、午後。

 ホテルの最上階にあるラウンジは、クラシック音楽が静かに流れ、窓の外には街並みが、ミニチュアのように広がっていた。


 指定された席に、その男は、すでに座っていた。


 佐伯剛三。


 未央は、息をのんだ。雑誌やテレビで、何度も見たことのある顔。だが、そこにいたのは、メディアが作り上げた傲慢な芸術家のイメージとは、少し違っていた。


 彼は、高価な仕立ての良いスーツを、完璧に着こなしていた。だが、その深い皺が刻まれた目元には、拭いきれない疲労と、そして、息子の死を悼む父親の苦悩が、確かに滲んでいた。彼は、獅子だった。だが、深手を負った、孤独な獅子だった。


「……広瀬未央さん、だな。来てくれて、感謝する」


 彼の声は、低く、重かった。


「早速だが、単刀直入に聞かせてもらおう。君が知っている息子の真実を。警察や、メディアが語らない、本当の話を」


 未央は、覚悟を決めた。

 彼女は、佐伯翔のあのノートに書かれていた、彼の本当の想いを、一言一句、丁寧に紡いでいった。陽菜の才能への賞賛と、嫉妬。美術界への絶望。そして、彼女を救おうとした、あまりにも若く愚かだった、彼の計画。


 剛三は、ただ黙って聞いていた。その表情は、能面のように変わらない。だが、テーブルの下で、彼が強く拳を握りしめているのを、未央は見ていた。


 すべてを話し終えた後、長い沈黙が落ちた。

 やがて、剛三が口を開いた。


「……そうか。あいつは、そんなことを考えていたのか。この父親に反発するばかりで、何も語ろうとはしなかった、あの愚かな息子が……」


 その声には、わずかな悔恨の響きがあった。


「広瀬さん」


 剛三の目が、再び未央を捉えた。その瞳には、もはや、感傷の色はなかった。そこにあるのは、冷徹な支配者の光だった。


「法による裁きなど、無意味だ。橘美咲もその娘も、精神疾患という盾の後ろに隠れて、罪を償うことはないだろう。真の正義など、この国には存在しない」


「……」


「だが、記録は残せる。真実の記録をだ」


 彼は、そこで一度言葉を切ると、最終的な提案を口にした。


「君の将来を、私が保証しよう。東京の大学の、学費、生活費、すべて私が出す。息子の名前で、ジャーナリズムを支援する財団を設立する。その最初の奨学生として、この事件のすべてを、一冊の本にまとめてほしい。誰にも邪魔されず、妥協もせず、君が望む形で、真実を世に問う機会を与えよう」


 それは、あまりにも魅力的で、そして、あまりにも危険な提案だった。

 未央は、その提案の裏にある、本当の意味を理解していた。


「……その見返りは、何ですか」


「見返り、か」


 剛三の口元に、初めて冷たい笑みが浮かんだ。


「私が望むのは、ただ一つ。真実だ。橘美咲という、狂気に逃げ込んだ凡庸な画家の真実。その母親の亡霊に取り憑かれた、空っぽの娘の真実。彼女たちの名前と、そのまがい物の作品を、美術の歴史から完全に抹殺する。そして、私の息子、佐伯翔こそが、その欺瞞を暴こうとした唯一の人間であったと、永遠に記録する。それだけだ」


 それは、正義ではなかった。

 復讐だ。

 それも、一族の名誉を懸けた、徹底的な殲滅戦争。


 彼は、自分にその復讐の代行者となれ、と言っているのだ。


 なんと、歪んだ功利主義だろうか。彼の望む結末は、結果的にアノニマスの神話を破壊するという、自分の目的と一致する。

 だが、その過程で、自分はこの獅子の牙になることを、受け入れなければならない。


 未央は、しばらく黙って、考えていた。

 そして、顔を上げると、はっきりと言った。


「……お申し出は、お受けします。佐伯先生」


「ほう」


「ですが、一つだけ条件があります。私が書くのは、あなたの復讐の物語ではありません。私がこの目で見た、真実の物語です。そこには、翔さんの気高さと、愚かさが描かれます。陽菜の狂気と、その奥にあった悲しみも、描かれます。桐谷先輩の、絶望と、再生も。そして、あなた自身が、この悲劇に、どう関わっていたのかも。それは、単純な英雄と、悪役の物語にはなりません。それでも、よろしいのですね?」


 その、あまりにも大胆な返答。

 剛三は、一瞬虚を突かれたように、目を見開いた。そして、やがてその口元に深い笑みを、浮かべた。


「……面白い。実に面白い。息子の奴は、とんでもない少女を、見つけ出したものだ」


「よかろう。君の物語を書け。広瀬さん」


「その物語が、橘家の者どもを奈落の底へと突き落としてくれる限り、私は、何も言うまい」


 こうして、奇妙な同盟が結ばれた。

 悲劇を生き延びた少女と、悲劇を生み出した獅子。


 未央は、強力な武器を手に入れた。

 だが、同時に彼女は、自らの魂を、悪魔に売り渡したのかもしれない。

 そのことに、まだ気づかぬまま。

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