第二十二話:連鎖するノイズ
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一通の、匿名の電子メール。
それは、県警本部に設置された、アノニマス事件合同捜査本部の、膠着しきった空気を、一瞬で切り裂く、一本の雷矢だった。
「なんなの、これは……」
深夜、仮眠室から戻ってきた相田は、当直の若い刑事が「不審な情報提供が……」と差し出したモニターの文面を読み、目を見開いた。そこには、まるで捜査会議を盗み聞きしていたかのような、驚くほど具体的で、正確な情報が、無機質なゴシック体の文字で並んでいた。
綾波玲子の名前。橘美咲との関係。そして、決定的な物証に繋がりうる、神保町の画材店の存在。
「溝口さん! これを!」
相田の声に、仮眠もせずに書類の山と格闘していた溝口が、鋭い視線を向けた。彼は、黙って文面を最後まで読むと、深く、長い溜息をついた。
「……罠、かもしれん」
「ですが! この情報は、我々が掴んでいる事実と、完全に一致します! もし、これが本当なら……!」
「ああ、わかっている」
溝口は、相田の興奮を、冷静な声で制した。
「この情報の送り主が、誰なのか。その目的が、何なのか。今は、どうでもいい。狐に化かされているのだとしても、その狐が、獲物の巣穴の場所を教えてくれているのなら、乗らない手はない」
彼は、決断した。この、あまりにも出来すぎた情報を、疑いながらも、信管として利用する。
「相田! すぐに、警視庁の担当者に連絡を! 神保町の画材店の店主から、至急、事情聴取を行うよう、緊急の協力を要請しろ!」
「はっ!」
「そして、県警にもだ。綾波玲子の自宅を、今すぐ、厳重な監視下に置け。絶対に、気づかれるな。我々が、東京での裏付けを終えるまで、指一本、触れさせるなよ」
溝口の、低い、しかし力強い声が、捜査本部に響き渡った。止まっていた歯車が、にわかに、けたたましい音を立てて回り始める。広瀬未央が放った一本の矢は、的確に、巨大な組織の中枢を射抜いたのだ。
◇
その頃、ありふれたマンションの一室。
綾波玲子は、膝を抱え、電話のスピーカーから聞こえてくる、親友の声に、ただ耳を傾けていた。
『……心配ないわ、玲子。大丈夫よ』
電話の向こうの、橘美咲の声は、不思議なほど穏やかだった。
『陽菜ちゃんは、もう、次のステージに進んだの。画材なんて、些細な問題よ。真の芸術は、物質には縛られない。彼女なら、きっと、もっと素晴らしい方法で、世界を表現してくれるわ』
その声は、もはや、親友を励ますものではなかった。自らの娘を、神として崇める、狂信者の祈りそのものだった。
玲子は、その狂気に、今更ながら、恐怖を覚えていた。自分は、どこで道を間違えたのだろう。親友を助けたい、その一心だったはずが、いつの間にか、自分は、怪物を育てるための、ただの餌になっていた。
その時だった。
コンコン、と、玄関のドアが、静かに、しかし明確な意志をもって、ノックされた。
玲子の心臓が、氷水で締め上げられたかのように、きつく収縮した。
「……ごめんなさい、美咲ちゃん。また、あとで……」
彼女は、慌てて電話を切ると、息を殺して、ドアスコープを覗き込んだ。
そこには、スーツ姿の、見知らぬ男が二人、静かに立っていた。その目つきは、明らかに、一般の訪問者のものではなかった。
警察?
どうして? なぜ、ここが?
玲子の頭の中で、パニックの警報が鳴り響く。彼女は、壁に背中を押し付け、その場にへたり込んでしまった。
外の世界と、自分を隔てる、たった一枚のドア。それが、今、破られようとしていた。
◇
橘陽菜は、何も知らない。
自分の忠実な支援者が、今まさに、法の包囲網に捕らえられようとしていることなど、知る由もなかった。
彼女の心は、次なる作品の、甘美な構想で満たされていた。
再開された学園。陽菜は、ターゲットとして定めた二年生、中地 勇斗に、ごく自然に接触した。
「中地先輩、こんにちは。この前の、雑誌に載ってた作品、見ました! さすがですね!」
陽菜は、計算された、無邪気な笑顔を向けた。
勇斗は、いかにも自尊心の強い、単純な男だった。内気で目立たない後輩からの、思いがけない賞賛に、気を良くしたように、口元を緩める。
「ああ、君か。あれは、まあ、俺にとっては、ただの練習みたいなもんだけどな」
「すごい! 練習で、あんな……! 特に、あの、高価な絵の具を、惜しげもなく使った表現! 大胆で、憧れます!」
「はは、わかる? あれは、親父に頼んで、特別に取り寄せてもらったやつでさ……」
勇斗が、自慢話に夢中になっている、その一瞬の隙。
陽菜は、彼とすれ違いざま、まるで、バランスを崩したかのように、その肩に、軽く、触れた。
「あ、ごめんなさい!」
「おっと。気をつけろよ」
勇斗は、気にも留めなかった。
だが、陽菜の指先は、その時、確かに、彼の制服の肩に、ほんの微かな「印」を残していた。それは、匂いも、色もない、特殊な樹脂の粉末。ただ、彼女だけが持つ、特別なライトでのみ、その存在を確認できる、追跡のための、目に見えないマーキング。
獲物は、印をつけられた。
陽菜は、心の中で、満足げに微笑むと、その場を立ち去った。
◇
広瀬未央は、祈るような気持ちで、パソコンの画面を、見つめ続けていた。
自分が放った情報という名の石は、果たして、水面に、どのような波紋を描いたのか。
ニュースサイトを、数分おきに、更新する。だが、それらしき報道は、どこにもない。
自分の行動は、無意味だったのか? それとも、ただ、警察が、慎重に動いているだけなのか?
疑念と、焦りが、未央の心を、じわじわと蝕んでいく。
その時だった。
スマートフォンの画面に、プッシュ通知が表示された。
それは、全国ニュースなどではない。愛知県の、地方ローカルニュースアプリからの、小さな、小さな速報だった。
『本日未明、市内のマンションにて、県警が家宅捜索。詳細は不明』
――来た。
未央は、椅子から、転げ落ちそうになった。
やったのだ。自分の、たった一通のメールが、巨大な警察組織を動かし、怪物の手足を、捕らえたのだ。
安堵と、興奮。そして、それらを、一瞬で、飲み込むほどの、巨大な恐怖。
盤面は、動いた。
だが、その動きは、誰にも、制御できない。
警察が、綾波玲子を追い詰める。
玲子は、必ず陽菜と、その母親に、連絡を取るだろう。
そして、陽菜は、自分が何者かによって、狙われていることを知る。
そうなった時、あの予測不能な芸術家は、一体どんな行動に出るだろうか。
未央は、気づいていた。
自分は、怪物の巣を、ただ叩き潰そうとしただけではない。
自分は、眠っていた怪物を、無理やり冬眠から目覚めさせてしまったのだ。
そして、飢えて、怒り狂った怪物が、今まさに自分たちのすぐそばまで、迫ってきている。




