第二十一話:加速する狂気
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「……次の、作品」
喫茶店の窓越しに降りしきる、冷たい雨。広瀬未央の耳には、雑踏の音も、店内のBGMも、もう何も届いていなかった。ただ、イヤホンから聞こえた綾波玲子の、あの焦燥に満ちた声だけが、無限に、残酷に、リフレインしていた。
自分の仕掛けた罠は、確かに機能した。陽菜の計画の物理的支援者である「X」の正体を暴き、その補給路を断つことにも成功した。論理的には、それは勝利の一手のはずだった。
だが、彼女は、致命的な計算違いをしていた。
相手は、論理や合理性だけで動く、ただの犯罪者ではなかったのだ。
橘陽菜は、芸術家。それも、常軌を逸したサイコパス。
「補給路を断たれる」というアクシデントは、彼女にとって、計画の頓挫を意味しない。それは、予期せぬインスピレーション。新たな表現手法を試すための、またとない「天啓」となってしまったのだ。
自分の行動が、怪物の喉の渇きを、さらに刺激してしまった。次に生まれる作品は、一体、どれほどの犠牲を要求するのだろう。
未央は、雨の中を走り去っていくタクシーの、赤いテールランプを、呆然と見送っていた。
綾波玲子を見失った今、次に打つべき手は、何だ?
いや、違う。追うべきは、玲子本人ではない。彼女の「生活」だ。
未央の思考が、再び冷徹な計算へとシフトしていく。玲子の自宅、職場、行動範囲。その物理的な痕跡を特定し、監視下に置くこと。それが、今、自分にできる唯一のことだった。
◇
その頃、橘陽菜は、自室のアトリエで、新たな恍惚に身を浸していた。
玲子からの、ヒステリックな電話報告。それを、陽菜は、まるで新しい画材の到着を告げる吉報のように、静かな興奮をもって聞いていた。
「そう。画材が、手に入らないんだ?」
素晴らしい。
なんと、素晴らしい展開だろう。
これまでの自分の作品は、どこか予定調和に過ぎたのかもしれない。最高の画材、完璧な計画、思い通りに動く駒たち。それは、美しいが、退屈だ。
しかし、この「欠乏」という名のスパイスが、自分の芸術を、次のステージへと引き上げてくれる。
『無からの創造』
それが、彼女の脳裏に稲妻のように閃いた、新しいテーマだった。
特殊な画材が、ない。ならば、もっと、ありふれたもので。もっと、日常に溶け込んでいるもので、至高の芸術は創れないだろうか。
彼女の視線が、机の上に無造作に置かれた、一本の鉛筆へと注がれた。カッターナイフで、神経質なまでに鋭く削られた、その芯先。
黒鉛。炭素。すべての有機物の、根源。
陽菜は、楽しそうに、新しいスケッチブックを開いた。
そこに描かれていくのは、具体的な人物ではない。無数の、点、点、点。
何億、何十億という、黒い点の集合体。それは、見る者によっては、銀河のようにも、あるいは、細胞分裂のようにも見えるだろう。
そして、その無数の点の集合体が、ゆっくりと、一つの、巨大な「肖像画」を形作っていく。
その肖像画のモデルは――この、彩星芸術学園、そのものだった。
一人一人の生徒、教師、職員。そのすべてを「点」として、学園全体を一つのキャンバスに見立て、巨大な「死の点描画」を創り上げる。
なんと、刺激的な構想だろう。
だが、そのためには、まず、手始めに、見せしめとなる「一点」が必要だ。
誰がいいだろう?
陽菜は、楽しそうに、生徒名簿を指でなぞった。そして、ある名前の上で、その指を、ぴたりと止めた。
美術品収集家である父親の権威を笠に着て、自らは何の努力もせず、高価な画材を浪費し、空虚な作品ばかりをSNSに投稿している、二年生の男子生徒。
才能の「浪費」。無からの創造とは、まさに対極。
彼を、最初の「点」にしよう。
◇
市内にある、橘美咲が入所している療養施設。
溝口と相田は、その鉄壁のアリバイに、手も足も出せずにいた。
「間違いありません。橘美咲は、桐谷海都くんが襲われた夜、一度も病室から出ていません。複数の看護師が、三十分おきに巡回し、その都度、睡眠状態を確認しています」
施設の責任者は、困惑した様子で、記録簿を差し出した。
溝口は、その完璧すぎる記録に、逆に違和感を覚えていた。
「……そうですか。ところで、彼女には、よく面会に来られる方がいるそうですね」
何気ない世間話のように、溝口は尋ねた。
「ええ。綾波さんですね。昔からの、ご友人だとか。毎週のように、遠くからいらっしゃって。本当に、感心しますよ」
「綾波……玲子さん、ですか」
その名前を口にした瞬間、相田の表情が、わずかに変わった。彼女は、先日、この名前を、過去の美術界の資料の中で目にしていた。
二人の刑事の頭の中で、バラバラだった情報が、一つの線として繋がり始めていた。だが、まだ、確証がない。綾波玲子が、橘美咲の共犯者だとして、その証拠が、どこにあるというのか。
◇
未央は、動いていた。
綾波玲子という名前と、ぼやけた写真一枚。それだけを頼りに、彼女は、再びネットの深海へと潜った。地方のタウン誌の電子版。同窓会の名簿。不動産の登記情報。あらゆるデータベースに、合法、非合法の手段でアクセスを試みる。
そして、ついに、玲子の現住所を、ありふれたマンションの一室として、特定することに成功した。
どうする?
この情報を、警察に渡すか?
いや、ダメだ。それでは、前回と同じことの繰り返しになる。警察が、慎重な裏付け捜査をしている間に、陽菜が、次の犯行に及んでしまう。
陽菜の、次のターゲットは、誰?
わからない。だが、彼女の行動を、予測するのではなく、こちらから、強制的に動かすしかない。
未央は、一つの、危険な賭けに出ることを決意した。
彼女は、深夜、ネットカフェの、最も隅の席に座っていた。公共のWi-Fi。痕跡の残らない、一時的なメールアドレス。
彼女は、一通の、短いメールを作成した。
宛先は、静岡県警の、ウェブサイトに公開されている、情報提供用のメールアドレス。
『アノニマス事件について』
本文には、感情を一切排した、事実だけを、箇条書きで記した。
・実行犯の協力者の一人は、綾波玲子。
・橘美咲の、古くからの友人。
・彼女が、橘陽菜の母親を装い、犯行に必要な特殊画材を、神保町の画材店で購入していた。
・店主が、その事実を証言するはずだ。
これでいい。
これだけなら、自分の存在が、表に出ることはない。警察は、この匿名情報をもとに、綾波玲子という存在に、否が応でも、注目せざるを得なくなる。
未央は、一瞬、送信ボタンの上で、指を躊躇わせた。
このメールを送れば、もう、本当に、後戻りはできない。自分は、警察と、陽菜たち、二つの巨大な存在の間で、見えない糸を操る、危険な人形遣いになる。
だが、彼女は、もう迷わなかった。
マウスの、クリック音が、静かな店内に、小さく、響き渡った。
その一通のメールが、この膠着したゲームの盤面を、大きく動かすことになるのを、まだ、誰も知らなかった。
石は、投げられたのだ。
その波紋が、誰を飲み込み、誰を救うのか。それは、神ですら、予測できないだろう。




