楽座
戦国時代、各地で一向一揆が頻発している。
『伊賀行き』で信長が「松平家康も一枚噛ませよう」と家康に書状を送ったところ「今、三河では大規模な一向一揆が起きていて、それどころではありません」と家康から書状の返事が返ってきた。
家康が言っているのは後の世の人々が言う『三河一向一揆』だ。
一向一揆の勢いは苛烈で、一時期家康の本拠地の岡崎城にまで一揆が迫る。
何故一揆がそこまで大きくなったのか?
それは戦国時代特有の『城主が替わる』という現象が関係している。
岡崎城は元々今川義元が治めていた城だった。
それが松平家康が城主に替わったのだ。
今川は『今川仮名目録追加』という法に基づいて岡崎周辺を治めていた。
だが新しく城主になった松平家康はその法を無視する。
岡崎周辺の者達は「『不入の権』が侵された!」と大騒ぎする。
しかし松平は「それに従う謂れはない」と突っぱねる。
「民衆に最初から譲歩したら城主としてなめられる」と考えたのだろう。
しかし民衆の不満は爆発、一揆は一向宗と結びつき『一向一揆』となったのだ。
それを聞いた信長は家康に「一揆を握り潰すなら力を貸す」と提案する。
しかし家康はその提案を断る。
一揆の勢いは恐ろしく、力を貸して欲しいのはやまやまだ。
だが、家康は信長の一向宗、仏教に対する『容赦の無さ』を恐れたのだ。
ルイスフロイスが仏教を『邪教』として捉えていた可能性もある。
彼が『日本史』に書き残している事が『全て脚色なしの真実』などとは思っていない。
だがルイスフロイスは僧侶を見た信長がこう言っていた、と言っている。
「アイツらは生きていてもしょうがない。
だから俺はアイツらを根絶やしにしようと思っている」と。
どこまでが真実かはわからないが、本当なら信長の仏教に対する憎悪、嫌悪は病的だ。
欠点と言っても良い。
後に本願寺顕如の呼び掛けで『対信長連合軍』が作られるほど信長の仏教に対する残忍さ、残虐さは目に余った。
かつて信長と連合した者達が『今回は庇い立てが出来ない』と敵に回るほどに。
その呼び掛けに応じた者の中にはかつて養観院が旅を共にした『鈴木重秀』がいる。
森可成は「そんな事で信長の評価が落ちるのは勿体無い」と思っていた。
信長は確かに他の者の意見を滅多に聞かない。
だがそれは『信長の言う事が他より優れていて聞く価値がないから』だ。
現に信長は六角定頼の発した『楽市令』に興味津々だった。
六角の『楽市令』の文言を読んだ信長は「うーん」と唸る。
可成はその時の信長が忘れられない。
「どうしたのですか?」と可成。
「いや『楽市令』で市場を活性させて終わりというのが・・・市場が大きくなったら、一部の者がその利権を独占して終わりだと思わないか?
そうだ!『独占の禁止』を令の中に盛り込もう!
『座による独占を許さない』、『楽座』というのはどうだろう?」
それが後に信長が行う『楽市・楽座』の原案だ。
信長はどこに視察に行く時にも『動きやすい格好』を心がけ、どこにでも座れるように虎皮の腰蓑を常に巻いていたという。
信長が現場を、民衆を軽んじるなんて事は有り得ない。
だが信長は仏教の事となると憎悪で狂ってしまうのだ。
そんな事を森可成が考えていると、どうやら信長一行も伊賀から出発する準備が出来たようだ。
足利義昭の乗る輿の準備がされている。
「まぁ、倒れたばかりだ。
一人で馬には乗れないだろう」と利家。
輿の近くには明智光秀が馬で横に付く。
松永親子も横に付くかと思いきや、信長の家臣団の中にちゃっかり混ざっている。
もう信長の家臣気取りなのか。
横に付いたのは明智光秀だけじゃない。
藤林長門守と楯岡道順も付いている。
「誰だ?アイツ?」と信長。
「さあ?
でもさっき『信長様と話したい』みたいな事を言ってたよ?
ホモなんじゃない?」と僕。
「『ほも』?
何だ、それは?」と信長。
『ホモ』って通じないのか。
「『ホモ』の語源はギリシャ語の『同じ』という意味の言葉だ。
『ホモセクシャル』が『同性』という意味で、それが縮められて『ホモ』になったんだ。
戦国時代の人間に『ホモ』って通じないぞ。
あと保豊殿はホモじゃない!
テキトーな事を言うな!」と光秀に注意される。
へー勉強になった。
でも、どうでも良い知識だな。
「怒られちゃった。
あの人ホモじゃないらしいよ」と信長に伝える。
「?」信長は相変わらず意味がわかっていない。
結局、信長は保豊が誰かはわからなかった。
「何かよくわかんないけど、あの二人ついてくるみたい」という認識のまま信長一行は港へ向けて出発した。
一行を木の影から見送る人影が。
影の正体は『百地丹波』だ。
この時間軸でどうなるかはわからないが、養観院のいた時間軸の歴史では一向一揆と共に織田軍に挑む伊賀忍者の上忍だ。