閑話 仏教
「悪いが一益、お前とお前の手勢は帰りの船には乗れない。
勝手に養観院が義昭様一行を清洲に招待してしまった。
陸路を使ってくれ。
清洲に顔を出さなくても構わん」と信長が一益に言う。
「それは構いません。
我が本拠地は伊賀からそんなに距離はありませんし一旦清洲に顔を出さないならば、かえって手間にならないくらいです」と一益。
「悪いな」信長は軽く一益に頭を下げる。
「しかし信長様にこんな態度を取らせるとは・・・」滝川一益が僕を見ながらため息をつく。
信長は敵対者には残虐な一面を見せる。
相手が女子供でも容赦がない。
切れないノコギリで首を斬る処刑方法は信長の残虐さを語る上で欠かせない話だろう。
信長は『出来もしない大言壮語を吐く者』も嫌う。
信秀の延命の祈りを申し出た僧侶達を信長は撃ち殺している。
信長は僧侶を『民衆をたぶらかす詐欺師』と言っているが、それは父親を救えなかった僧侶を憎んでいたからかも知れない。
しかし自分に懐いて来る者、自分が可愛がっている者にはとことん慈悲を見せている。
光秀の妹『ツマキ』、秀吉の妻『ねね』、利家の妻『まつ』などを信長が可愛がっていたエピソードは多い。
敵対者の女子供相手に『容赦なし』の態度を見せた信長は味方の女子供相手には甘い。
宣教師ルイスフロイスは「顔を覗き込もうとして女性の被り物を無理矢理持ち上げようとした兵士を見かけた信長が兵士の首を自ら斬り落とした」というエピソードを『日本史』の中で語っている。
信長は味方の女性を本当に大事にしている。
元祖『フェミニスト』と言って良い。
養観院は好き勝手はしているが、信長に逆らう事だけはしない。
狙っている訳ではないのに『信長が嫌う事、信長が怒る事、信長が見限る事』だけはしないのだ。
その絶妙な匙加減がほとんどの人には真似出来ない。
唯一利益だけは養観院と同じように好き勝手しているのに、何故か信長の逆鱗には触れないのだが。
一益は気になった。
信長の『仏教嫌い』は徹底している。
なのに法号を名乗っている謙信との間に軋轢を全く感じない。
お互いに『義昭様を担ぐ者』として気を使っているのだろうか?
遠慮がちに聞いてみる。
「信長様、謙信公をどのように考えているのですか?」
「坊主相手に『詐欺師』呼ばわりする俺が謙信公と揉めるんじゃないか、と思っているのだろう?」信長が一益に楽しそうに言う。
「い、いえ!
そのような事は!」ダラダラと汗をかきながら一益は言い訳する。
「良い。
一益は心配しているだけだろう?
『もしこちらの態度が原因で交渉が決裂したら?』と」
「は、はい。
申し訳ございません。
出過ぎた心配を・・・」
「心配は尤もだ。
しかし俺とて弁えている。
遠征時には寺に泊まる。
そこで無礼に騒いだりしない。
同様に仏教を信仰している者の前で仏を悪し様には言わない。
それに俺は謙信公を認めている」
「それはどうして?」
「俺は敵対者にはとことん冷徹であろうと心掛けている。
俺が情をかけた者が味方の寝首をかかないとも限らない。
俺が敵に対して冷徹である事が味方を助ける場合がある、と信じている」
「存じております」
「しかし謙信公は違う。
謙信公は『敵にも情をかける』のだ。
判断基準は常に『正しいか?』『間違っているか?』
『正義か?』『悪か?』
俺は場面、場面でコロコロ態度を替える輩を好かん。
だが謙信公の態度は終始一貫している。
俺とは判断基準が全く違うが。
俺が『行動に一貫性がある謙信公』を嫌う訳があるまい?
謙信公も俺の事を『自分とは全く考え方が違うが認めている』と言っていた」
「では養観院の事は?」
「アイツは・・・訳がわからん。
ただ俺はアイツに一度たりとも腹を立てた事がない。
不思議なヤツよな」
「本当に不思議な者です。
何者なのでしょうか?」
「わからん。
どこから来たのだろうか?
堺で会った時には『記憶がなく、どこから来たのか自分でもわからない』と言っていた」
一益と目が合った養観院はこちらへ近付いて来る。
相変わらず何を考えているかは不明だ。
一益にわかっている事といえば両手の指を交互に組んで、両手の人差し指だけ立てている・・・つまりカンチョーしようとして近付いて来ている事だけだ。