第6話 本当は誰よりも優しい人だ。
アリシアのためを思った行動なのは明白で。それは、間違いなく虫の止まったカップからお茶など飲みたくないだろうという配慮で。
頑張って抑えている涙が、また零れそうになった。
アリシアが見ている場で、好印象を与えるためにした行動ならまだ分かる。でもオスカーは、誰にも見えない場所でそんなことをしたのだ。
怖い、なんて。
今更ながらそんな風に考えてしまった自分が嫌になる。
だって彼はきっと、誰よりも優しい人だ。
ふっと心が温かくなる。オスカーのことをもっと知りたい。もっと仲良くなりたい。婚約者であることも忘れて、そんな思いが込み上げる。
オスカーの元に帰ろうと顔を上げて、植え込みの隙間からばっちりと目が合った。
「……」
やってしまった、と思いつつ席に戻り、座る。すぐに、オスカーが言いづらそうに口を開いた。
「……見てた?」
「はい。その、ありがとうございます」
そう言ってふわりと笑うと、オスカーはわずかに眉を寄せる。
彼の顔の中で、眉が一番雄弁なようだった。
「アリシアは、俺が怖くないの?」
先程までの自分の思考を読まれたようでぎくりとするが、今はそんな思いなど何も残っていない。
「最初は、その、少し怖かったですが」
でも、と続けながら微笑む。
「オスカー様は、誰よりも優しい方ですから。怖くなど、ありません」
そう言った瞬間、オスカーがふいと顔を背ける。怒らせてしまったかと心配になるが、その耳が少し赤く染まっていて。
これは、照れた時の彼の癖だと気づいてしまった。オスカーは照れている。それがわかった瞬間に、アリシアの顔にも熱が集まり始める。
自分の頬がかなり赤くなっていることは、よく分かっていた。
オスカーがちらりとこちらに視線を向け、アリシアの顔を見た瞬間にばっと顔を背ける。その耳が、さらにじわじわと赤みを帯びていくのが分かった。
恥ずかしい。でももっと見たい。そんな想いが浮かび上がってきて、近くにいる彼を想像して胸が高鳴って、理解した。
これが、恋か。
恋物語のような始まり方ではなかったけれど、アリシアはその日、確かに恋をした。
恋をした、といっても、そんなに簡単に関係は変わらない。オスカーと会えるのは多くても月に数度が当たり前で、母によると、正式に婚約するまで共に過ごす時間はとても少ないという話だった。
だが、それも当然だ。アリシアは令嬢としての教育に追われていたし、聞いた話ではオスカーは騎士団に入ったらしい。優秀な騎士だという噂が、アリシアの元まで流れてきている。
そんな彼が誇らしいと同時に、自分などが彼の隣に立てるのか不安だった。だから、精一杯レッスンに打ち込んだ。完璧な令嬢。優雅な姫。そんな風に呼ばれるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
オスカーと正式に婚約する日が待ち遠しかった。
相変わらず彼は無表情だが、よく見れば少しだけ表情が動いているのが分かる。会話も、以前よりは弾むようになってきた。
アリシアが精一杯話すことに、ああ、とかうん、とかしか言わないけれど、彼の雰囲気は柔らかく、楽しんでもらえていることはアリシアでも分かる。それに頼んだ時は、ゆっくりと騎士団の話もしてくれた。
ただ口下手なだけなのだ。本当は誰よりも優しい人だ。
正式に婚約したら、この想いを告げようと思っていた。応えてもらえるかは分からない。でも、嫌われているわけではないと思う。
あなたのことをお慕いしていると、なにがあってもあなたを支え続けるつもりだと、そう一言だけ言えればよかった。
その日を目指して、日々を送っていた。
◇
「オスカー様」
「アリシア」
そう言って、彼の口角がほんの少し上がる。遠目には何も変わっていないけれど、これは彼が微笑んでいる時の顔だ。
婚約が決まってから10年。2人は、正式に婚約する。
オスカーの背はぐっと伸び、声も艶めいた低音に変わっている。鋭い瞳は成長するにつれてさらに鋭さを増し、触れたら切れそうな雰囲気を纏っていた。身体は細いものの、実はしっかりと筋肉がついていることを知っている。彼が騎士団で誰よりも努力している姿を見ているから。
すっと鼻梁も通り、輪郭も奇跡のように美しいのに、彼の元に群がる令嬢はほとんどいない。
その理由のひとつは、今日が2人の婚約のお披露目式であること。そしてもうひとつは、間違いなく彼が纏う雰囲気の鋭さだ。
正式な挨拶は終わり、宴の雰囲気になってきている。皆、仲の良い相手を見つけて談笑を始めていた。
1人で壁のそばに立ち、飲み物を口に運んでいるオスカーの姿を認め、アリシアは声をかけた。特に用がある訳ではないが、特別な日なのだ、彼のそばにいたいと思うのは自然なことだろう。
すっとオスカーの隣に立つ。彼に反応はないけれど、この沈黙もかつてのように苦しくはなかった。
「……アリシア」
声をかけられ、オスカーを見上げる。その瞬間オスカーがふいと顔を逸らして、アリシアはくすりと笑った。久しぶりにオスカーが照れている。
「その……受け取ってほしい」
それだけ。たったその一言。
その言葉と共に、アリシアの首にひとつのネックレスがかけられた。
アリシアの瞳の色、深い紫の石の周りを細かい金の細工が彩っている。よく見るとそれは葉や蔦を象っていることが分かった。本物と見間違えるくらいの精緻なつくりだ。
この国では、婚約ではネックレス、結婚で指輪を贈る。婚約の証を渡したにしては、あまりにも短い言葉だったけれど。
「ありがとう……ございます」
途端に熱くなる頬を誤魔化すように、笑って礼を述べる。触れるのが怖かったけれど、どうしても触れてみたくて、それを指先でそっとなぞった。滑らかな感触に、ふわりと心が浮き立つ。
好きだな、と思った。
アリシアは口を開く。告げるなら今か。
幸いにして周囲には人は少なく、誰もが自らの話し相手に夢中で、こちらに注目している人はいなかった。
「……オスカー様」
あの、と少し躊躇って続けて。胸に秘めていた想いを告げる。