第5話 なんておとぎ話のようなことがあるわけもなく。
出会って初めて、お互いにひと目で恋に落ちた。
なんておとぎ話のようなことがあるわけもなく。
ああ、この人が将来私の夫となる人なのか、とアリシアは特に大きな感慨もなく受け入れた。絵本で読むような恋物語に憧れていても、それと現実を混同するようなことはなかった。
だが、幼いなりに、この人の力になろうと思った。
「はじめまして。わたくし、アリシアと申します」
事前に母に叩き込まれた挨拶をして、精一杯優雅に見えるようにお辞儀をする。
「……オスカー」
そういったきり、目の前の彼は黙ってしまう。
綺麗な人だった。艶のある黒髪に、黒曜石の瞳。王子様めいた華やかな顔立ちではなかったけれど、鋭い美貌、というのが相応しいような顔立ちだった。
「ごめんなさい。うちの子、人見知りがひどくて」
美しく着飾ったオスカーの母が困ったように微笑みながら謝る。
いえいえ、これから仲良くなっていけばいいのですよ、と執り成す母を横目で見ながら、アリシアはぎゅっと自分の手を握った。オスカー、と一言だけ名乗った彼はぴくりとも表情を動かさず、じっとアリシアを見つめている。
怖い、と思った。
この人を支えていくんだ、なんて殊勝な決意はどこかに流れさり、この場から逃げ出したい衝動と静かに戦っていた。
後は2人で過ごして、なんてお決まりの言葉と共に2人の夫人は少し離れた場所でお茶を始める。今朝は美しく着飾っていると思っていた母も、オスカーの母と並ぶとずっと地味に見えた。
アリシアとオスカーは、近くに用意されていた椅子に腰掛ける。そこは小さな東屋になっていて、オスカーの家の広い庭が一望できる。大小様々な花が咲き乱れる庭はとても綺麗で、少しだけ心が落ち着いた。
「……」
話が続かない。話しかけようと思って口を開こうとするが、彼の無表情を見るとぎゅっと胸が縮む心地がして、結局喉からは一言も出てこない。
オスカーも自分から話し出すつもりはないようで、東屋は気まずい雰囲気で満たされていた。
この国の正式な婚約は、18歳になってからだ。とはいえ、政略結婚をさせる以上は幼い頃から仲を深めさせておこうとする親は多く、こうして婚約者同士のお茶の場が設けられることは多い。
これから、アリシアとオスカーは月に数度お茶をすることになるのだろう。
アリシアは、前途多難な婚約に心の中で小さく息を吐いた。言いようもない寂しさが込み上げる。
心のどこかで、期待していたのかもしれない。決められた婚約者が、アリシアのことを大切にしてくれるなんて。
ぐっと手を握って、勇気を振り絞って口を開いた。
「あの、オスカー様……。オスカー様のお好きな物はなんですか?」
そう聞いた瞬間に、オスカーの纏う空気が鋭さをました気がして、びくりと身体を震わせる。言い訳のように続けた。
「その、私刺繍が好きで、ハンカチに刺繍をしてオスカー様に差し上げたいと思っていたのですが、オスカー様はどんな物が好きですか?」
慣れない敬語が、心配で仕方がなかった。うっかり失礼なことを言わないか一つひとつ気にしているつもりだが、正直なところ全く自信がない。
「……剣」
たった一言。それしか言わなかったけれど、オスカーと会話が成立したというだけで少し嬉しくなる。
「ありがとうございます」
その心のままふっと笑ってオスカーを見れば、彼はふいと顔を逸らしてしまった。
再び、気まずい沈黙。
全く繋がらない会話に、アリシアは堪らずその場から逃げ出すことにした。
「少し、失礼いたします」
そう言って席を立てば、オスカーは軽く頷く。理由を言わずに離席する理由はひとつしかないから、彼も察してくれたようだった。
お手洗いに急ぐふりをして立ち去る。そして、近くの庭の植え込みの影にこっそりと入り込んだ。
泣き出しそうだった。会話は続かない。だって、何も言ってくれないのだから。
ひょっとして、もう嫌われてしまったのではないだろうか。
堪えきれなかった涙が少しだけ零れ、この日のために誂えた薄紫色のドレスを濡らした。
だが、いつまでもこうしている訳にはいかない。オスカーを1人で待たせておくわけには行かないことは、よく分かっていた。
静かに、先程の東屋へ向かう。
遠目に東屋が見え始めた時、少し驚いた。
オスカーが立ち上がっていたのだ。彼はアリシアの席の横に立ち、じっと机の上を眺めている。
一瞬ぴたりと足を止めたアリシアだが、ここでじっと立ち止まっているのも不可能だ。
ゆっくりと歩を進めると、オスカーが覗き込んでいるものが分かった。
アリシアのカップだ。
どうやらオスカーはアリシアのカップにそろそろと手を伸ばしているようで、無意識にこてんと首が倒れる。
一体彼は、何をしているのだろうか。
その問の答えは、すぐに見つかった。
アリシアのカップの縁に止まって見える、黒いもの。
虫だ。
野外で行われるお茶会では、珍しいものでもなかった。そういう場合、侍女に言って取り替えてもらうのが普通なのだが。
オスカーは虫をかするように指を動かし、追い払う。そして、困ったように顔を上げた。
その視線の先にあるのは、侍女の姿だ。だが、彼女たちは母親同士の給仕に忙しそうで、優雅に、だが相当焦って動いているのが見てとれた。
そして、オスカーはもう一度辺りを見渡す。なんだか見てはならないものを見てしまったような気分で、アリシアは咄嗟に植え込みの影に隠れてしまった。隙間から、こっそりと様子を見る。
そして、オスカーはゆっくりとアリシアのカップに手を伸ばし、
そっと、自分のカップと入れ替えた。




