運命
温かい。
どこか懐かしい、落ち着いた空間に自分はいる気がする。柔らかい毛布に包まれて、目を開けるのも億劫なほどの眠気が襲ってくる。不安なんて何もない。ただ心地いいだけ。
波に揺られているみたいで、母親の腕の中で抱かれているみたいで、自分がここにいることが望まれてさえいる気がする。それがまた心地よかった。全てを受け入れてくれるようで、とても嬉しい。
ずっとこのままでいたい。
このまま何事もなく。
微睡みの中で。
この幸福を噛み締めていたい。
そう、心の底から願った。
ふとそんなところに空腹を誘う香りが漂って来る。それは鼻腔を擽り、身体がその匂いの元を本能的に求める。早くその美味しいものを舌の上で楽しみ、喉を通して満足感に耽りたい。
だからエヴェリンは重い瞼を開ける。見開いた先にあったのはかつて彼女が住んでいた家のリビングだ。
まあ、家と言っても表向きは研究室ということになっていた生活感溢れる一室であるのだが。
それでも懐かしいことには変わりない。
料理の音のする方に目を向け、しかしよく見えなかったので上体を起こす。そうすれば懐かしい後姿が見えた。それと共にきゅっと胸が苦しくなってしまう。
いつも意味不明に思いつつ見慣れてしまった白衣。寝癖があってちっとも整えられていなくて、遺伝なのか年にしては全然禿げていない白髪混じりの黒鳶色の髪。銀の縁の眼鏡を掛けた五十路の男性。
そう。大好きだった父が、そこにいた。
「…お父、さん?」
声が聞こえたのか肩越しに彼が振り返る。優しい笑みを浮かべて、その柔和な眼差しを向けてくる。
「ん?どうした?」
どうしてだろう。父を見ると胸が締め付けられる。
確かに父はもう死んでしまった。忘れてしまいたい。そんな事件があったことなんて。いっそのこと今目の前にいる父が本物だと信じて、このままここにいたい。
これは夢。そんなことは分かっている。それでも違うと分かっていても、ここが現実だとどうしても願ってしまう。
でも確かなことがある。それは父に逢えたことが心の底から嬉しかったこと。そして幻想でしか逢えないことを理解してしまう悲しみを覚えている自分のこと。
「…ぁ……」
声を出したいのに口が開くだけで何も出てこない。いや、違う。出せるけども、出したくないのだ。言ってしまうのが怖かったから。何か言葉を発してしまったら、夢が終わってしまうような気がして……。
もう訳の分からない感情に支配されて涙が溢れそうだった。
そして目の前にいる父はそんな彼女を慈しむように目を細め、手元に視線を向けた。そして作っていた料理を丼に盛り付ける。それが終われば、リビングにそれを持ってきてテーブルに並べた。
湯気が立ち上って、出汁の香りがさらに辺りを満たしてゆく。
「麺が伸びる前に食べよう」
気づけばそのテーブルの前にエヴェリンは立っていた。眼下には懐かしい父のうどんがある。人参、大根、小松菜、しめじ、にんにく、生姜、ハム、椎茸、ネギ等々具沢山のカツオの風味が香るうどんだ。
二人だけの時に作ってくれた少しハムの存在がイマイチな懐かしい料理。野菜の切り方とか、盛り付け方が父のそれでとても見覚えがある。嬉しくて嬉しくて、つい頬が緩んでしまった。
座って、箸で麺と具を一緒に口の中に運ぶ。そうすれば味醂と醤油の味が口内に広がり、そしてそれはほんのり甘く、ちょっとピリッと辛かった。絶妙な味のバランス。調味料と具材のハーモニーがそこにはある。父の得意料理のひとつであるこれは本当に名状しがたい芸術と言っても過言ではない気がする。
美味しい。
本当に美味しい……っ。
もう食べることが叶わない、世界で一番美味しい料理をエヴェリンは頬張り続けた。
口の中の具を咀嚼していたら頬を何かが、すっと流れていった。そしてそれはそのまま顎を伝い、テーブルの上に落ちる。それが何度も何度も続いた。噛めば噛むほど味が染みて、その度に熱い何かが目から溢れる。視界が歪んでこの見た目も綺麗な料理をしっかり記憶に留めておきたいのに、それだけのことが出来ない。とても嬉しいはずなのに。はずなのに……っ。
分からない。
どうしてこんなに目の前が見えなくなるの?
どうしてこんなに胸が締め付けられるの?
「大丈夫か?」
「…え?」
顔をあげると父が心配そうにこちらを見ていた。それを認めて初めて自分が泣いているのだと認識した。不思議と涙を流していたのに泣いているなんて気づいていなかった。やはりこれは夢だから、色んなことがあやふやで矛盾だらけなのだろう。
そして目の前の父もその矛盾の一つだ。だって、彼はもうこの世にいないのだから。
エヴェリンは自分の気持ちを漸く理解した。
後悔。
悲願。
自己嫌悪。
そんなどうしようもない自分勝手なものばかりの感情を。
「…お父さん」
それでも父を呼ぶ。
「ん?なんだ?」
「お父さんっ!」
無意識に父に抱きついていた。そのときには既に景色が変わってしまっている。しかしエヴェリンはそれに気づかなかった。気にしなかった。
周りには何もなく、ただ父と共にいる空間だけがここにある。明るくて、それでいて暗い。静かで騒がしい。暖かくて寒い。そんな矛盾だらけの、望んだものも望まないものも存在して存在しない、混沌の世界が辺り一面に広がり、閉じていた。
それはもうありえないはずの、そう。言うなれば、夢の空間。
そこでやっと、本当に夢なんだとエヴェリンは確信した。明晰夢だと理解した。だから彼女は泣きながら言葉を発することしか出来ない。
「ごめんなさいっ。お父さんを、守れなかった……っ」
「……」
ここにいる父は自分が思い描いた彼自身。本当の彼ではない。どんなに言葉を発しようとも、どんなに願い続けても、例え全てを捨て去る覚悟をもってしても、決して、決して父に届くことはない。そしていつしかこの夢も薄れて記憶から消え去ってしまう。
それがとてつもなく悲しい。
ああ、なんでわたしは……っ。
大事なことを何も出来てない。
何も成し遂げてない。
ただ、失っているだけ――。
それでもここにいる父は優しく抱き返してくれる。その体温が暖かくて、愛おしくて、さらに胸が苦しくなった。痛くなった。
嗚咽が止まらない。止めどなく涙が溢れる。
これは幻影。幻想。虚像。そして夢想。自分が願ったその形。
現実なんかじゃない。
「本当に……ごめんなさい……っ」
ポンポンと頭を撫でられる。手櫛で髪を梳かしてくれる。
「良いんだよ。お前はお前の道を選んだんだ」
その言葉を最後に父は消えていた。唐突に、跡形もなく、エヴェリンだけがこの夢幻の世界に取り残される。腕の中にあったはずの温かさも、匂いも、感触も全てが消え失せ、消失感が心に襲い来る。
そして心に広がるのはただの虚無感だった。
「ぁ、ぁぁ……」
本当にそこには何もなかった。触れるものが何もない。大切な人はもういない。もう逢えない。その認識と共に、彼女の夢は終わりを告げた。
多大な悲しみと共に。
†
目を開ける。最初に認識したのはオレンジ色の街灯の明かりだ。それが妙に目立っていて辺りの景色よりそちらを注目してしまった。そして僅かに、連続的に伝わってくる振動を感じて自分が車の中にいるのだと暫くしてから気づく。だから目を覚ましてから自分の居場所を認識するまで少しタイムラグが生じてしまった。
暗い場所に目が慣れて、視線を上げる。目の前にハヤトとエレナが寄り添うように寝ていて、ハルカも設けられた椅子を三つ占拠して爆睡している。全くハルカからは先程の緊張感は感じられず、ハッキリ言ってだらしなかった。一応女子なのだから身を守るためにも気をつけてほしい。
まあ、彼女の場合殺す気でいけば大抵のヒトは返り討ちにできるだろうが。
「大丈夫ですか?」
不意に声がして隣を見るとサヤがなぜが心配そうな顔で問いかけていた。
「……」
それが分からずにいると、ふと自分の頬が僅かに濡れているのが感じられた。指で触れると確かに濡れている。たぶん先程見た夢を見て泣いてしまったのだろう。本当に情けないことだ。
それに、見られた。
恥ずかしい……。
エヴェリンは涙を少々乱暴に拭い、忽然と感情を殺して無表情で言った。
「…問題ない。気にしなくていい」
「しかし――」
「…大丈夫だから」
最後は少し語気を強めて言ってしまった。サヤは悪くないのに。そして案の定彼女は二の句を継がないでいるようで何も返って来ない。少し悪いことをしたかもしれない。
でも、あんな夢を見てしまうなんて、やはり色々と面倒だ。これからのことを考えれば早く忘れてしまいたい。できればなかったことにしてしまいたい。
この記憶は、邪魔だ。
いらない。
不必要に過ぎる。
パキッ。
物理的な痛みが腕の表面に奔る。それで思わず顔を顰めてしまう。トレンチコートの裾から少し覗いた腕を見やるとまた結晶が仄かな青白い光を放っていた。その結晶が腕を斬りつけるように幾筋も食い込んでいる。夢を見たせいでさらに悪化してしまっているようで、今まさに結晶は成長を続けていた。血も滲むが、それさえも結晶に変わっていく。
しかしそんなことは些事に過ぎない。今やるべきことはこれじゃない。これからのことに気を配らないと。
涙の跡が残らないようにもう一度拭ったあたりで運転席の方からヴィルの声が飛んできた。
「リーダー。そろそろ新潟市に入ります。ご準備を」
「…わかった」
呼吸を意識する。大きく長く吸って、吐く。それを繰り返せばほんの僅かに体内が酸欠状態となり、全身に酸素を送ろうと心拍が早くなる。それによって体温も上昇した。少し凝ってしまった筋肉を動かして解し、肩甲骨を360度回し、身体中の関節を動かしていく。そうすれば体温も充分なほどに上がり、準備運動をした後と同じ状態になった。
これで準備は万全である。いつでも動ける。
窓から外を見やれば、ちょうど高速道路から一般道に入る大きく円を描くように設計された道を走っているところだった。
運転手に負担を掛けないために曲率を一定割合で変化させた軌跡、クロソイド曲線。この道路はそういう曲線の形で造られている。人間の運命の糸を紡ぐとされるギリシア神話の女神クローソーが由来になっている曲線。
その先に何があるのかと、エヴェリンはふと思案してしまう。
この先に待ち受ける運命は一体どのようなものか。それはまだ分からない。しかしそれでも見えてしまうことがある。自分の行き着く先がどのようなものであるかを。
そしてそれを端的に表現するならば、それは――。
無意味、かもしれない。
それでも彼女はこの道を選んだ――。
本日も本小説をお読み下さりありがとうございます。
さて、前置きがながながと続きましたが、今回の解説、あとがきです。今回はエヴェリンの夢の話でした。そして彼女は父と出逢います。今までエヴェリンが感情をさらけ出すシーンはなかったと思うので、今回初めて2051年7月時点の彼女の心情が描かれたのではないでしょうか?彼女は父を愛していたのかな。大切だと思っているからこそ涙を流したのでしょうね。
それでも彼女は夢から目を覚ますと感情を殺しました。さらに言えば父との夢を見て、そんな記憶が無くなればいいと願っています。まあ、感情を制御できなければただの子供と言えますし、エヴェリンの質からしたら、ね。
では、今日はここまで!まだまだ忙しいので、一週間後、またお会いしましょう!皆さんも健康には気をつけて。感想、評価、質問、お待ちしております!ブックマークもぜひ!またまた〜。




