いつもの朝と、ちょっとした緊急事態
こんにちは。
今回も投稿したいと思います。毎回読んでくださる皆様ありがとうございます。読んでいただけるだけでとても励みになります!
下の階に降りてまずやることは洗面と歯磨き。これをやらないと一日が始まらない。眠気眼の顔をしゃんとさせるにも効果的だ。
頭が冴えてさっぱりした気分になれる。
それらを終えた後はリビングの食卓に向かう。既に朝食の美味しそうな香りが漂ってきていた。
「今日はなにかな?」
なんてことのないいつもの朝。清々しい空気が家の中に満ちている。
そしてハヤトがリビングに足を踏み入れると家族全員が食卓に座り、朝食を摂っているところだった。
掃き出し窓側に父、その左隣に妹の花楓、そしてその正面が母の席。
掃き出し窓からは庭の木々の隙間から朝陽が緑光となって射し込み、有機照明で造られたテレビが朝のニュースを粛々と流している。今はちょうど天気予報のようだ。
いつもの和やかなリビングの光景。
ハヤトは母の隣の席、つまり自分の席に向かった。
「おはよう」
そう声を掛ければ、みんな各々ハヤトを見て優しく返してくれる。
「おはよう」
「おはよう、ハヤト」
「あ、お兄ちゃん……おはよう……」
中でも花楓だけが今にも閉じそうな目でイチゴパンを齧っている。それを見て思わずハヤトは苦笑した。
この夢の世界に誘われそうな彼女はこう見えていつも元気一杯に目を輝かせた家族の中で最もハキハキした女の子なのだ。
それが今、ぼうとしながら食卓に座っているのは小動物のように可愛らしく、可笑しくて仕方ない。
ハヤトが癖毛な彼女の黒鳶色の髪をくしゃくしゃと撫でてやると、花楓は少し嫌そうな顔をしつつも特に抵抗はしなかった。寧ろ少し心地よさそうでもある。
それから自分の席に着き、合掌。
「いただきます」
今日の朝食はイチゴやバナナ、ブドウを練り込んだ食パン――フルーツ食パン、略してフル食――を使ったフルーツフレンチトーストと、レタスとトマトと薄切り肉を混ぜたサラダ。そして白味噌で作った、白菜、絹豆腐、しめじにじゃがいもなどが入った具沢山の味噌汁だった。
それがあまりにもミスマッチに思えるのだが、いつものことなので気にしないでそれぞれを口に運ぶ。
洋食と和食が一緒に出るのは家の中ではよくあることだから。
ふんわり焼き上がったパンからはほんのり甘い香りが漂い、フレンチトーストの甘い味をより鮮やかにしている。それでいて甘すぎず、サラダとのコンビネーションがとても良い。
味噌汁は微妙な立ち位置だが煮干の出汁がちゃんと出ているし味自体はコクが出ていて美味だ。野菜たちもシャキシャキと口内で音を奏で、染み込んだ味噌の味と野菜特有の風味を解き放ってゆく。
これらの味に文句など言えるはずもない。
本当に美味しい。
口の中の物を咀嚼しながらテレビに視線を向けると天気予報は終わり、国際情勢の話に移っていた。
第二次米中冷戦だとか、対馬海峡で日本の漁船が拿捕されかけたとか色々言っている。ただハヤトには詳しいことは分からなかったため、特に気にも止めなかった。
「ハヤト。今日の夜開いてるか?」
テレビを横目にトーストの絶妙な甘みを堪能していると、不意に父が銀縁の眼鏡を押し上げながらながら声を掛けてきた。
口の中のトーストを嚥下して、ハヤトは顔を父に向ける。
「開いてるけど?」
「そうか」
すると沈黙が降りた。
テレビのアナウンサーの声だけが虚しく響き始める。
「?」
ハヤトは怪訝な視線を父に向けたが、心の中では軽くため息を吐いていた。
父は何か悩むように押し黙っているが、いつも何を考えているのか分からないのが父の特徴とでも言うのだろうか。
基本的に無口無表情で秘密主義。問題は自分の中でほとんど完結させてしまう。それが父だから。
ただそのせいで父の両親とはほぼ絶縁状態になってしまったとかも聞いている。
それでもこういう読めない父でも長年の付き合いで慣れてしまった。それに尊敬もしている。
こう見えて父は起業家で『CONEDs』と呼ばれる会社の代表だったりする。
普段はアンドロイドや人工知能の研究をし、会社の仲間と医療用のナノマシン開発にも手をつけているらしい。
しかも彼は料理や裁縫など家事全般に、ほぼ全ての勉強を教えることができ、歴史や政治、軍事、地政学などの様々な知識にも詳しい。極めつけは優しいという理想的な父親なのである。
ちょっと嫉妬するくらいに何でもできるヒトだが、お陰でハヤトも蘊蓄だけはやたら持っていたりする。
閑話休題。
暫くしてその父がようやくその重々しい口を開いた。
「今日会社に8時に来てくれ。逢わせたいヒトがいる」
「え? 何それ。お見合いかなんか?」
冗談交じりに言ってみる。
しかし返ってきたのは予想外な返答だった。
「ん〜そうだな。……そうかもしれない」
マジか……。
その時のハヤトの心情を表現すればそんな言葉が出てきた。
もちろんそれがほんの冗談であることくらいは家族だから承知している。承知しているのだが、生真面目な顔で言われれば誰だって信じてしまいそうだ。
中でも信じてしまいそうなのは――。
「ええぇぇぇぇぇえええぇぇっ!!!!?? お兄ちゃん、結婚するのっ!!?」
花楓の絶叫がリビングに響き渡った。
先程までの眠気はどこへやら。彼女がテーブルを叩きつけながら立ち上がった。そして驚愕に染まった眼差しをハヤトに向けてくる。
その声にハヤトも含め、この場にいた父も母も肩をビクッと震わせて、花楓がテーブルを叩きつけたせいで零れた味噌汁を拭く羽目になった。
それにちょっと耳が痛い。
「ちょっと、花楓! 食事中は大人しくしなさい!
ほら、これで拭いて」
母が花楓にティッシュ箱を手渡そうとするが、彼女はそれを無視して興奮した顔を母に向けて捲し立てた。
「でもでも! お兄ちゃんが結婚するんだって! びっくりしない方が驚きだよ!! お母さんもそう思うよねっ!?」
母もハヤトもそれを聞いて額を押さえた。対称的に父は、ハハハと小さく笑っている。
一応花楓はこれでも中学三年生だ。誰が見ても分かると思うが、彼女はかなり阿呆である。別にバカではないのだが、早とちりすることが多い。
それは彼女を明朗な性格にしている点で言えば取り柄とも言える。
彼女がいなければこの家の会話はほとんど消えているかもしれない。それほどに彼女は明るい性格をしている。
しかし今は花楓の誤解を解かなければ。
心の中で諦めにも似た嘆息を吐きつつ、ハヤトは彼女の言葉を訂正しに掛かった。
「いいか、花楓。僕は誰かに会うだけだからな? 誰も結婚するなんて言ってないぞ?」
「そうなの?」
「そうだよ」
花楓はゆっくりと腰を下ろし、そっかぁと呟く。
そして。
「そうだよね。お兄ちゃんみたいなヘタレには相手が美人でも『付き合ってください』なんて言えるほど度胸ないもんね」
「おいっ、聞き捨てならないことを……」
「分かってるって! 自信ないんでしょ? 私が後ろから見ててあげるから、アドヴァイスが欲しかったら後ろ向いてね。お兄ちゃん?」
まるで語尾にハートマークを付けたような言い回しだった。しかもついでとばかりに親指を立ててその手をこちらに向けてくる。
ちょっとイラッとしたのは一瞬のことで、ハヤトは盛大にため息を漏らした。
またか……。
はははは、と至極愉快そうな父の笑い声が響き渡る。それに母も釣られて笑い出した。対して花楓はどうして笑っているのか分からず、キョトンとしている。
ハヤトはもう一度ため息を吐き、頭を抱えた。
花楓の勘違いや妄想が暴走している。こうなってしまっては誤解が解けるのに気長に対処していかなければならなくなるのだ。最も長く掛かった時は一週間も時間を要したこともあった。
そのおかげで有りもしない噂が立って色々と生活が大変だったのはいくつあっただろうか。
……数え切れない。
それでもハヤトも両親に釣られて笑った。花楓も理由は分かっているかは別にして笑い出す。
いつもの温かい家庭がそこにはあった。何事もない、ただ平和なだけのこの時間が楽しくて仕方ない。
ずっとこうやってこんな時間が続いていくのだろう。そしてこの時を思い出してまた笑うのだ。
「?」
突如胸ポケットのメガネ端末が乱暴にアラームを奏で始め、バイブレーション機能で暴れ出した。それはもう端末ではありえないほどに。
一体何事かと素早くそれを掛ければ、《アサヒ》の姿が空中に浮かび、彼女は慌てた様子で両手を激しくブンブン振っていた。
『大変です! 大変です!』
その仕草と容姿のギャップがちょっと笑えてくる。
年頃の少女が幼稚園児のような仕草をしていると言えば分かり易いか。
少し滑稽だ。
他の家族も不思議そうにこちらを伺っている。
しかし本当に何事だ?
『遅刻可能性率98%!! 遅刻ですっ!!』
「はあぁ!!??」
反射的に勢い良く席から立ち上がった。
まさかの緊急事態、異常事態。まだいつも登校する時間より10分も早いというのに!
それなのに、98%!?
確実に遅刻だ!
ハヤトは立ったまま味噌汁をかき込み、フレンチトーストを口に押し込んで牛乳で流し込む。
喉に詰まる行為が散見されるが致し方ない。そんなことに構ってなどいられないのだ!
荷物を手に、玄関に向かって駆け出した。
「行ってきます!!」
「「「行ってらっしゃい!」」」
ドアを開け放ち、外に飛び出す。すると夏の蒸し暑いジメッとした空気と蝉の大合唱が体全体を包み込んだ。
熱気で一気に体力も気力も削がれてゆく。今日が妙に暑いのと深夜に降った雨の所為でまるで真夏のような空気になっている。
断熱防音処置を施した家の欠点が如実に現れている気がする。中は快適だが、こんなに外が暑いと温度差で精神的に参ってしまう。それに心臓にも悪い。
早速汗が吹き出してきて何もしていないのに疲れが刻一刻と湧いてくる。それでも走らない訳にはいかない。ハヤトは足に鞭を打ち、最寄り駅に向かって駆け出した。
「っていうか、なんで遅刻可能性率がいきなり上がんだよ!」
猛暑の中を駆けながら愚痴を言うと端末から《アサヒ》の声が耳の軟骨を通して振動として伝わってきた。
『横浜駅周辺で外国人労働者による小規模な暴動があり、バスが通る大通りが封鎖されています。それに伴い、混雑した横浜駅でも人身事故が発生したため、事態が収拾するまで運行見合わせのようです』
「おいおい。それじゃどんなに急いでも間に合わないじゃないか」
ハヤトは足を止めて目の前のメガネ端末の画面に映る《アサヒ》を非難するように睨みつける。別に彼女が悪いわけではない。それでも思わずそうしてしまった。
いつもハヤトはバスに乗って横浜駅で降りて、そこから電車で通っている。横浜駅が使えないとなれば電車に乗っても意味はない。もし行ったとしてどれくらい待たされることやら。
そもそも乗れるのか?
しかも大通りも封鎖されているなら必然的にバスも使えない。
大迷惑にもほどがある。
《アサヒ》は腕を組み、悩むような素振りをしてみせた。
きっと人工知能である彼女は特に悩むこともなく最善のルートを高速で検索し続けているに違いない。あとは親しみ易さを持たせるための演技か。
数秒後、《アサヒ》は閃いたとばかりに人差し指を空に向けた。
『今からでも間に合うルートを見つけました。ハヤトさんの財布事情からしてこのバスルートを使えばギリギリ間に合います』
そう彼女が言うと地図と時刻表、そして想定到着時間を表示した。
いつもは複数通りの提案をしてくるのに今は一通り。しかもそのバスルートは二回も乗り換えて、バス停間を走って渡りながら横浜駅を上手く迂回するものだった。
ハッキリ行って面倒くさそうな、でも奇跡的な道順だった。
「えっと、到着が……8時31分!? 本当にギリギリだな……」
35分を過ぎれば遅刻認定されてしまう。時間的にこれが最後の手段なのだろう。
『急いでください! でないとそのバスも行ってしまいますよ!』
「お、おう!」
ハヤトは真夏の日差しの中を《アサヒ》のナビゲーションを聞きながら、いつもとは違う通学路を走ってゆくのだった。
暴動が日本で――?
ちなみにテレビは壁に貼り付けるものらしい。壁紙を貼るような感覚ですね。小説内の時代だと有機照明は基本的にどこでもぺたっと貼り付けることが出来ます。太陽光パネルもぐにゃぐにゃなので照明だけならあまり体積を食わずに電気代がかかりません。まあ、継続的に長時間使うのであればやはり外部からの電気供給が必須です。