『第一』の夜
CONEDs第一ビル。通称『第一』。その桑原研究室。そこでは桑原が物凄いスピードでタイピングを続けていた。ほとんどバックスペースを押すことなく、ただただ延々とカタカタという音が室内に響いている。聞いているだけでキーボードが壊れないか心配になる騒音が。それもキーボードがアナログ過ぎるのがいけないだろう。
実のことを言うと桑原の打つスピードはタイピングを速く打つ大会の優勝者に匹敵する能力を備えていたりする。しかし本人曰く、大会には興味がないらしい。この能力は仕事の効率化を推し進めた結果であって、それ以外の目的がないとか。
まあ、桑原の場合、さらに人工知能に桑原の思考を学習させて、語尾の言い回しや接続詞はエンターキーを押した瞬間に書き出されて打つ文字数も大幅に減らしているようだが。つまり、文面だけで見れば世界最速のタイピングがそこにはあるのである。
どれくらい速いかと言えば、1分で平均2000字くらいである。因みに大会の1分あたりの瞬間文字数は1000を超えるくらいだ。
「ミカエ。俺はもう寝るぞ。もう、これ以上は死ぬ……」
そう疲労感満載の言葉を放ったのは桑原の秘書であり、桑原が生み出した唯一の人工実存であるノアだ。彼は目の下に隈を作っており、もう本当に死にそうな顔をしていた。実のところ爆発事件以来、毎日睡眠時間は2時間なのである。ショートスリーパーならそれでも十分だが、ノアはそんな特別な体質ではない。死にそうなのもあながち間違っていない。
「ああ、もう寝ていいぞ」
「サンキュ……」
「だが、3時には起きてこい」
それを聞いてノアが悲壮な表情をしたのは当然であろう。なぜなら今は1時だったからだ。
というかこれが普通の会社なら労働環境の改善を訴えて裁判を起こしても勝訴するに違いない。しかし彼らが取り扱っているのはCONEDsの機密に関してだ。おかげでそれに触れられる人材も限られる。『管理者』全員がほぼ毎日徹夜していても追いつけない作業なのだからノアが駆り出されるのは仕方ない。
それにノアが目立ってしまうのは憚られた。ノア自身もそれはしっかり理解している。
「ミカエ!《アサヒ》とか《アリア》は使えないのか!?なんなら《アサギリ》でもっ!」
ノアにしては珍しく不平の言葉を叫んでいた。しかし桑原は鋭い眼差しをパソコンの画面に向けて作業を継続しながら応えた。
「何度も言わせるな。《アサヒ》が相手しているのは世界だ。演算能力には余裕を保たせておきたい。それに《アリア》はもう使ってる。それに無尽蔵にあいつを増やすのも問題があるのは分かっているだろう?《アサギリ》は隔離されていて出せないだろう?」
「……」
桑原も彼女らしくなく丁寧に教えてくれた。恐らく桑原も見えないだけでかなり疲労を蓄積しているのだろう。そしてノアもそれを改めて聞いて溜息を吐いた。確かに《アサヒ》は世界という無謀な相手に対処している。世界からの攻撃を防御し、反撃し、抑え、誘導するなんて、余裕がなくなった途端に《アサヒ》が壊されるのは自明の理だった。
本当に人工知能は不平も何も言わないから分かりづらくて困る。
もうノアは諦めた。どんなに不平を言ってもこの現状が好転するわけではないのだ。なんなら今すべきは少しでも疲れを取るために寝ることだろう。
「……じゃあ、おやすみ」
「ああ。2時間後」
「……わかってる」
どんよりとした空気を背負ってノアは部屋を出ていった。いつもはここで寝ているのだが、桑原のタイピングの音のせいで眠りが妨げられる。だから誰もいない会議室に行くのだ。
それからどれくらい時間が経っただろうか。桑原はCONEDsの表向きの対応を計画としてまとめ上げ、漸く一息吐いた。そして傍らに置いてあったキャンディーチーズを口に放り込む。それをいくつか食べて、今度はガムを口にする。集中力を長時間高めるには実はチョコレートよりもチーズがいい。急激な血糖値の上昇は集中力を欠くし、眠気も誘ってしまう。ガムも顎を動かして脳に行き渡る血行を良くする効果がある。後者はアメリカの野球選手がよくやっているやつだ。
休憩が終わる――ほんの1分ほど――とまたキーボードを叩き始めた。今度は計画書を元にシミュレーションを行うのだ。面倒臭いところは《アリア》の演算能力を借りて処理し、ほとんどの過程を桑原が処理していく。それはすぐに終わった。問題がなかったのである。しかしまだやることは多々ある。
今終わったのは表向きのこれからCONEDsが取る方針についてだ。これがかなり難しかったわけだが、何が難しいかと言うと裏側で何らかのやばい作業をやっていても疑問視されないようにする物や金の動きについてだ。今回はどうにか警察の目をロボット技術の方面だけに向けることが出来たが、それが今後も上手く行くとも限らない。
「っ」
その時、唐突に端末の着信音が響き渡った。相手は同じ『管理者』である千藤司だった。普通なら手を止めて応答するだろう。しかし桑原の場合、作業を止めるのは憚られた。なぜならどうでもいい話だった場合、その時間が無駄になるからである。だからといって出ないわけにも行かないが。
そこで『管理者』権限で科学魔法を行使し、着信に応答する。ついでに端末を浮かべて耳の軟骨に端末を当てれば振動が直接伝わって来て音漏れがなくなった。『管理者』であるからここまでの操作に魔法陣は要らない。イメージだけで済む。どんなイメージかと言われれば、それは三本目の腕を使っているようなそれだ。
「なんだ?」
相変わらず端的に問いかけると電話の向こうから落ち着いた言葉が返ってきた。
『やっと見つけた』
たったそれだけの言葉であったが、桑原は全てを理解した。『管理者』が探していること、そして今この状況で報告するようなこと。つまり全員が一致して探し求めていること。それは即ち爆破事件の犯人だ。それだけが謎なのだから。
「なるほど。それで、誰だ?」
大体は見当がついている。しかし特定は情報が少なすぎて桑原にも答えを出せなかった。分かることと言えば『管理者』の中に内通者がいる可能性がどれくらいあるかということくらいであろう。
確実に0%ではなかった。
『ずっと行方不明のあいつだった。そっちじゃない』
「やつか。それはまた面倒なことになりそうだ」
桑原は作業を続けながら今後に起こるであろうことを推測し、眉を顰めた。鋭い目がさらに怖いことになっている。
『そうですな。それにしても浜崎先生は置土産を残しすぎとは思わんかね?彼がいなくなってから仕事が5倍になった』
「面倒なことも増えたな。だが、それも当然だろう。この会社は先生が纏めていたのだから」
『縁の下の力持ち。土台をなくした組織がどうなっていったか、歴史が証明していますな』
とてつもなく不吉なことを千藤は言っているが桑原は気にしない。事実だからだ。それに嫌な思いを抱くのは全く合理的ではないし、そんなことに時間を取られる方が不効率的過ぎる。やるなら最善手を取るのがいい。
「懇親会でも開くか」
そう呟けば電話の向こうから笑い声が響いてきた。
『ははははっ!懇親会っ。あなたがですか?』
「一応は会社のトップだ。会社を直ぐにまとめ上げなければならない」
『できなければ破滅、と。まあ、それは考えておきましょう。この会社がなくなるのは少し寂しい』
「……?」
桑原はその時気になったことがあったが言及しないことにした。それをしてろくでもないことにでもなったら今の仕事量が増えて効率が落ちる。それだけは避けたかった。
「話はそれだけか?切るぞ」
『ああ。改めて会議で報告しますよ』
そして通話は終了した。端末を机の上に戻す。
「縁の下の力持ち……か」
桑原が最初に浜崎代表に出会った時、印象として彼は能力が自分より劣っていて、できることとしたら普通の事柄を熟して及第点と言ったくらいの人間でしかないと思っていた。彼女にはどこにでもいる理解し難い人間の一人に見えたのだ。そして実際それくらいの能力しか持ち合わせていなかった。
それでも同じ仕事を始めて、彼女が彼についていくと決めたのはあることに桑原が気づいたからだ。浜崎代表は確かに天才ではない。凡人でもないが、そこまで特出しているわけでもない。しかし一つだけ、桑原にも出来ないことを持ち合わせていた。それはヒトの感情を読み取れる才能だ。そしてそこから導かれる、彼らが欲していることを的確に理解する心だ。カリスマ性があるわけでもないのに、ヒトの共感を勝ち取り、信頼を得て、組織としてまとめ上げる。そんな才能を浜崎代表は持っていた。
だから気づいたときには桑原も浜崎代表を信頼し、仕事を共に熟していた。桑原にとって効率化は絶対の優先順位だ。それを理解し、結構な頻度で勘違いされる対人会話をも気にせずにしてくれるヒトは少ない。浜崎代表とは、まともに話ができる、初めて桑原が出会った種類の人間だったのだ。
同じようにして社員の信頼を得てこの会社は纏まっていた。しかし浜崎代表という支柱を失くしたこの会社は傾きつつある。《アサヒ》のおかげで延命できてはいるが、それも長くはないだろう。その先にある未来に桑原自身がいる可能性も100%とは言い難かった。
それでもこのままこの道を突き進むことを桑原は決心している。なぜならここは彼女たちにとって唯一の居場所だからだ。
そうしてその日も作業に追われ、気づけば昼になっていた。
彼らは奮闘し続ける――。
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