プロローグ 約束 〜純情の少女〜
最初のプロローグです。一編ごとにプロローグとエピローグを入れるつもりです。内容は世界観を深めるものであってほしいと願っています。
この想いはいつまでも、願いはどこまでも。
例えこの世界にあなたがいなくとも。
私はまた、あなたに出逢う。
『エレナのある日の日記』より
†
――6年前。2045年某日夏。
初夏の蒸し暑い日差しも傾き、辺りはどこまでも澄んだ鮮やかな茜色に染まっている。
その日、誰もが空を仰ぎ見た。
頭上に広がるは澄み渡った真っ赤なキャンパス。そこに桃色で描かれた千切れ雲と積乱雲。太陽光を浴び、至上の陰影を生み出している光と影のコントラストは瞬く間に全国のニュースで取り上げられた。
『今世紀最高の夕日!』
『過去前例を見ない日暮れ時!』
『奇跡の映像今ここに!』
ネットの世界は歓喜に溢れていた。きっと彼らはこの光景を一生胸中に収めながら生きてゆくことになるだろう。それだけこの夕日は荘厳かつ優美なものだった。
しかし夜迫る東の空に忍び寄るその黒さも併さり、昼と夜の境界線は血のように赤い。まるでこれからこの美しさとは裏腹に何か不安を煽るものが来る。その予兆のようでもあった。
そんな空の下、やはりその子もこの夕日に心を奪われていた。夜のことなど眼中にない。ただただ輝しい西空をその目に焼き付けている
「……」
海辺の公園、芝の生い茂る一角でその幼い少年は柔らかなそれに腰を下ろし、ただ美しいこの世界を眺め、聴いて、感じていた。耳を澄ませば、海の漣の音が風に乗り、その風が草木をさわさわと揺らしている。後ろに意識を向ければヒグラシが一日の終わりを告げるように悲しく唄っていた。
今彼の心中は感動で打ち震えているに違いない。
彼はずっと飽きることなく、あの沈みゆく陽を眺めている。
そんな、音と音が重なる中、一つ今までになかった音が聞こえてきた。芝を踏みしめ、一歩々々彼に歩み寄ってゆく、そんな音。
少年が振り返れば、そこには白銀の髪を夕日に晒した同い年の少女がいた。茜色の光をその銀糸のような髪が散乱させ、キラキラ輝く髪の輝きはまるで天頂の月の輝きか星の瞬きのよう。深い青銀の瞳は澄み渡った深海のよう。端麗な顔立ちはまだ幼く、この景色の中でも異様なほどの美しさを醸し出している。
謂わば、御伽噺に出てくる妖精のようであった。
「綺麗だね」
少女はそう言って少年の隣に腰を下ろした。少女もまたこの夕日に心を奪われている。そして彼女は胸の内に秘めた感情を悟られないように夕日だけに目をやった。
しばしの時が流れる。
日が沈むのは早い。そう感じるだけということは分かっている。けれどそう思えてならない。
時間は、何にも囚われることなく進み続ける。
時には良き思い出を残し、大切な感情を抱かせ、またある時は残酷な傷を残して。
ふと少女は少年が自分を見ていることに気づいた。彼の顔を見返せば、その顔には寂しさが滲み出ている。
彼は不安そうに小さな口を開いた。
「また、逢えるよね?」
その時、少女は確かに少年の心を感じ取った。
寂しいのは自分だけじゃない。彼もまた寂しいと感じてくれている。
……いや、本当は、悲しい、かもしれない。
同じ気持ちであることがその時は互いに嬉しかった。だから少女は彼に微笑みかけ、その手を強く握り締める。
少年も同じように小さな手で握り返してくる。
少女も温かみのある眼差しを向けて宥めるように言った。
「いつか、必ず」
「約束?」
「うん。約束」
二人はそのまま身を寄せ合い、幻想的な夕日を一緒に眺めた。
こんな時間が永遠に続けばいいのに。
でも、いつまでも続かないことは分かっている。
いつかは終わる。
必ず終わってしまう。
夢のように。
あり得るはずがなかったこの時間は奇跡に他ならない。
けれど、夢から醒めるようにいつか向き合わないといけない。
けど、今だけは――。
水平線の彼方、その場所にもうじき陽は完全に沈む。気づけば辺りも先程より暗くなってきていた。太陽がどんどん沈む度に、だんだん世界は暗くなっていく。空に星が輝き始め、すでに天球の半分以上が黒く染められている。
視界が暗くなる程に少女はさらなる悲しみを覚えていた。
あの夕陽が沈んでしまったら、もう彼とはお別れなのだ、と。
お別れの時間が否応なく迫っている、と。
悲しみに耐えきれず、一筋の涙が少女の頬を伝う。
胸が痛い。
とても苦しい。
別れたくないっ。
再会がいつになるかわからないサヨナラなんて。
どうしようもなくなって少年を見やり、しかし少女は驚いた。
少年は笑っていたのだ。瞳に涙を浮かべながらも、決して泣かない。少女を悲しませまいと必死に涙を堪え、少女のために無理やり笑顔を作っていた。
自分は大丈夫。
安心して。
本当はすぐにでも泣き出したいだろうに。
少女もつられて涙ながら笑った。
彼は強い。
私よりもずっと。
だから私がいなくなってもきっと逞しく生きていける。
なら、私は彼を遠くで見守っていよう。
いつか彼が全てを忘れる日まで。
少女はそう、思った。
陽光が消えていく。もう互いの顔もよく見えない。ヒグラシも鳴き止み、代わりに夏の虫の声が静かに響いていた。どこにいるかもわからない相手を切なく呼ぶ合唱と漣の音が二人を包み込む。
少女は最後に彼を抱き締めた。少年は少し驚いたようだが、すぐに彼女の背中に腕を回す。
互いの温もりが伝わっていく。感情が伝わっていく。
強く惹かれ合う想いが。
もう離れたくなかった。永遠に、このままずっと一緒に居たかった。
だが、少女は自分の想いに鞭を打ち、暫くしてから名残惜しそうにその身を離した。二人の温もりを引き裂くように、風が二人の間に流れていく。
「ねえ、ハヤト。最後にもう1つ約束をしよう?」
「うん。いいよ」
ハヤトと呼ばれた少年は二つ返事で返した。
そして2人はどちらからともなく右手を挙げて、小指を絡ませる。
ハヤトはその指を見て、少女を見やる。そして尋ねた。
「約束は、なに?」
「それは――」
少女がそれを口にした頃には、もう既に夜だった。
天上に星々が煌めき、昼とは打って変わって寒々しい風が吹いてくる。赤々と輝いていた空の面影はどこにもなく、檳榔子黒の天球が覆っていた。
これからの悲劇など知らぬ彼らの頭上には、それでも宝石箱をひっくり返したような満面の星屑と、割れた真珠のように輝く半月が昇り、地上にどこまでも美しく悲しい程に優しい景色を生み出していた。
別れがたい二人――。
二人の視点が混じる文章はそれゆえのこと。全貌がわかるのは、100万字後くらい先。




