silent greatful bullet
2. silent greatful bullet
静樹静は自然に目を覚ます。静樹静は目覚ましをかけない。カーテンからこぼれ出る日光から起きるべき時間であることを認識する。静樹静は寝坊をしたことがない。
静は起きて顔を洗い、キッチンへと向かう。
「おはよう。」
と一言。
「おはよう。」
静ママも一言。
「パパは?」
「昨日遅かったから、もう少しだけ寝させてあげてね。」
会話をしながら静は静ママの家事の手伝いをする。食器をじゃぶじゃぶ。
「先に食べてなさい。パパは待たなくていいから。」
静は濡れた手をタオルで拭いて、食卓へ向かう。
「ありがとう。ママ。」
静ママによって手渡された茶碗を受け取り礼を言う。
「今日から新学期ね。はなちゃんたちと一緒のクラスになれるといいわね。」
静は眉をしかめる。はなちゃんたち、はいらない。はなだけでいい。
「そうね。楽しみよ。」
静は笑顔を静ママに向けて放つ。静ママは安心したような表情を見せる。
静は目玉焼きをおかずに、白ご飯を平らげる。唯一はなと意見が合わないのが朝食はパンかご飯かだが、静もはなもこれだけは譲れなかった。静は旦那はご飯派かどうかで適当に決めようと心に誓っていた。赤みその味噌汁を飲み干し、ほっと一息。そのときになってやっと掛け時計を見る。
「はなが家を出るまであと三十分もあるわ。」
静はさっと身支度を済ませ、リビングのソファに腰を下ろす。
「アホ毛が立ってるわよ。」
今日はいい天気ね、という具合に静ママが言った。だが、静は気にしない。アホ毛はいつものことだし、そこそこの美人は大雑把に身だしなみを整えるとまあまあの美人になる。もとが美人だが、静はとても美人になることを潔しとはしていない。まあまあの美人は得をするが、とてもな美人は損をする。そのことをよく心得ていた。
静はカバンから取り出した文庫本を開く。桜庭一樹の『荒野』。主人公のキャラクターが非常に気に入っている。テレビの音はしない。静パパが朝のテレビを嫌っているためである。なぜなら、ニュースばかりだから。
「そろそろかしら。」
はなはページを三十ページほど読み終わると時計を見上げる。三十分ほど経っていた。はなは自分が一ページに一分時間を費やすことを熟知していた。決して速読派ではない。
「行ってきます。」
玄関を出たはなを迎えたのは、燻ぶるほどの春の陽気であった。まだひんやりしていた家の中とは違う。汗ばむほどの陽気。ブレザーでは暑いだろうな、と静は日差しを睨んで言った。あらゆる草木の汗ばんだ臭気が混沌として静の鼻腔に飛び込んでくる。春も善しあしだわ、と静は歩を進める。ローファが少しきつくなった気がした。
あと、60秒。
静は心の中でカウントしていた。
あと、十五秒。
静は胸の高鳴りを抑えるので必死だった。もうすぐ、もうすぐなのだ。
「私、花田はな十四才。今日から中学三年生になりまーす!」
素っ頓狂なセリフとともに少女が飛び出してくる。明るい色の身近な髪を片方だけ結んでいる活発な女の子。花田はな十四才。
「朝から元気ね。」
静は焦って言う。はなが静に気付かず行ってしまうところだったからだ。
「静ちゃん、おはよう!」
はなは急いでその見事な脚線美で地面を押し、勢いを相殺する。そして、静に向かって笑顔を向ける。その笑顔に静は骨の髄まで蕩けてしまいそうであった。
「恥ずかしい少女漫画的始まりから聞こえてたわよ。」
恥ずかしさをごまかすために静は口走る。
「へ?」
はなが周りを見回すと、周りの生徒たちがくすくすと笑っていた。それは悪気のないものだとは分かってはいるものの、静にとって心地の良いものではなかった。
「新学期楽しみだね。」
少しの間赤面していたはなであったが、すぐに気を取り直して歩き出す。杞憂であったか、と静はすこし呆れた。
「はなは本当に学校好きね。」
幼いころより変わらないはなを見て静は言った。腕と足を大きく振り回して、おもちゃの兵隊のように歩く様は、変わっていない。
「うん。毎日楽しいもん。静ちゃんは嫌い?」
「うーん、嫌いかな。」
「どうして?」
はなは無意識にこころを抉ることを言う。学校が好きな子どもなんてはなくらいだろう、と頭をフル回転し回答を逡巡しながら思う。
「だって、勉強なんて楽しくないし。でも、はながいるから好き、かな?」
「この、女ったらしめ!」
そう言って、はなは静に飛びつく。冗談で済ませてくれて助かった、と静はむねをなでおろすが、平然でいられるのはその時までであった。
「もう、急に飛びつかないで。あ、でも、はなの胸の感触が伝わってきて――じゃなくて。」
背中に飛びついたはなの体が静に密着し、その豊かなふくらみの感触が電流のように体中に走る。この感覚を衝動というのだと静は齢十四にて悟った。
密着したはなから嗅ぎ慣れない臭いがする。それはなにか、までは判別できなかったものの、食事の中に異物が混入していたような不快感が静を襲った。静はもっと嗅ごうとはなの制服に顔をうずめる。
「な、なに?」
驚いたはなは静を引っぺがす。腕の力が昔よりも強くなったような気がする。
「男の臭いがする。はなちゃんから男の臭いが。」
確証はなかったが、揺さぶりをかけてみることにした。静の頭からは大量のアドレナリンが放出されていたに違いない。
「え?はな、女の子だよ?」
「うん。私の気のせいよね。はなに彼氏なんて。」
「え?なんて?」
「なんでもない。」
はなの嘘偽りない言葉に、自分はなんてバカなんだろうと、思い直す。はなは嘘を吐いたことなんてないのだ。
そして、明らかな異臭。それは不快なにおいではないが、自然の醸し出す香りとは違い、粘着質である。静は道行く先に、遠目でも目を惹く黄色の絵の具で塗ったような下品な髪色を見つけ出す。
「おはよう、慶くん。」
「おはよう、おふたりさん。」
第一に静が抱いたのは、話しかけるな汚物、という印象。そして、男が女子に話しかけているのを確認して、この世から消えろと思ったのが第二。
「あ、ちょっと待ってよ。」
慶が静とはなに気をとられているうちに女子に逃げられたので、ざまあみろと思ったのが第三。
「ナンパもいい加減にしておいたら?あの子たち、嫌がってた。」
「いやあ、新入生を案内してあげようと思っただけだよ。」
そのうち警察に突き出そう。
「慶くん偉いっ。遊び人の鏡だよ。」
冗談で言っているのなら、皮肉にも聞こえる。だが、静にははなが本心で言っているのが分かるので、困った子だ、と頭を抱えたくなった。
「はな。少しは疑うことを覚えなさい。」
「そうだよ。俺もちょっと心配。」
慶ははなの頭に手を伸ばす。手元にナイフがあれば切り落としていた。不潔だ、あんな男。
慶は軽薄な笑みを浮かべ、じゃあね、と手を振り去っていった。歩き方も軽薄そのものであった。
「今年はみんな同じクラスになるといいね。」
「はながそういうなら――」
そうは思ってはいなかったが、はなの笑顔の前に静の邪悪は打ち破れた。
「弾の妹の小町ちゃんも今年中学校よね。」
こころを落ち着かせようと話を続ける。
「ううん。違うよ。小町ちゃん、鳳学園に入学するんだって。」
「そうなの?」
静は山の上を見る。静のいる場所からでもりらりと見えるレンガ建ての校舎。私立鳳学園。静が進学を希望する学校であり、ある都市伝説が実しやかに語られていた。
「すごいよね。試験がとっても難しいみたいなのに。」
「そうね。」
話していると時間の経過が早い。いつの間にか校門を過ぎ、下駄箱まで来ていた。はなとの時間も有限なのだと思い知らされたようで、静は少し胸が苦しくなる。
げこげこ。
そして、超音波。
静の目の前には顔に緑色のペイントを施した変人がいた。よく見てみると顔に蛙が引っ付いている。その顔の持ち主は、きっとさっきまで静の隣にいた人物で――
叫ぶはなをどうにかして助けてあげたかった静であるが、カエルに触れない。蛙を平気で触れる女の子がいるだろうか。(いや、いない。)
そのとき、一陣の風が静の頬を優しく撫でる。マントをなびかせる王子がはなの顔の醜い蛙を取り除く。静にはそう見えていた。王子は蛙を掌で優しく包み、慈愛に満ちた目で見つめている。まるで暴れくるっていた魔獣が我を取り戻し、可愛げな蛙に戻ったようであった。
「ふふふ。面白い人ですね。」
王子の口から洩れた言葉は甘いものだった。
「あ、可愛い。じゃなくてありがとうございます。」
はなはぺこりと頭を下げていた。静が我に返ると、王子は外へと向かっている。蛙を外に連れて行くのだろう。静は蛙が羨ましかった。
「さっきの人、誰?」
それが自分の言葉だと思えないくらいに滑舌が悪かった。ふにゃふにゃとふやけたような口調。
「分からない。」
はなは何事もなかったように、制服で顔をごしごしと拭いていた。
「すっごく格好良くなかった?」
「そうなの・・・かな?」
このときの静にははなの言葉など聞こえていなかった。存在さえ忘れ去っていただろう。
きっと私は恋をしたのだわ、と静は浮足立っていた。
「今度こそみんな一緒だね。」
「まさか本当に四人同じとは――」
隣同士の席になったはなと静は話していた。静は横目に金髪と空席を見る。弾はやはりいない。
もう聞きなれてしまった音。牢獄のような学校生活の象徴が響き渡る。それと同時にがらりと教室の戸を開け、男性が入ってくる。見たことの無いので、新任であると静は気付く。
「起立、礼。」
新任教師が号令をかけた。
「これから、ホームルームを始めます。その前に、まずは自己紹介をさせてください。」
少し滑舌が悪く、頼りにならないな、と静はすでに評価を下していた。
「この春から教師になりました。瀬田星矢です。聖闘士星矢の星矢ね。よろしくお願いします。」
「よろしく。センセー!」
「よろしく!」
はなの言葉に他の生徒も口々によろしく、と言う。静は鼻をつまみたい衝動に駆られた。
(なんなの、これ。)
瀬田から強烈な臭気が漂ってきていた。それは静にのみ知覚できるものであるようだった。(まるでねっとりと絡みつくような臭い。男の大人の臭い。)
いつの間にか男子から流れてくるようになった嫌らしい臭いを強烈にしたものだった。いわゆるフェロモンというものだろうか。
「こちらこそよろしく。」
静は瀬田の笑顔が信じられなくなった。
「星矢センセー。」
「はい。」
慶が手をブンブン振ってアピールをしている。
「彼女はいるの?」
少し言葉に詰まったようだが、意を決して瀬田は言う。
「いないよ。」
「もしかして――」
「そうだ。童貞だ。」
その瞬間、静の静脈が盛り上がる。
「ねえ、静ちゃん。ドーテーってなに?」
静がまず始めたのが現実逃避だった。どうして地球が丸いのか。そして、その答えをすぐに導き出す。目の前の男どもが下衆だからである。下等だからである。チンポ猿だからである。下半身にしか神経が通っていないからである。
「不潔ですっ!」
大地は静に立てと命じていた。丸い地球にチンポ猿はいらないと。
「そんな汚らわしい話を婦女子の前でするなんて!」
「すいません。以後気を付けます。それと、金髪も着崩すのも校則違反だからね。絶対に先生に捕まらないでね。お願い。」
瀬田は誤魔化すように出席をとり始めた。
「あれ?段町くんは休みですか?」
連絡は来てないんだけどな、と瀬田は首を傾げる。どうせまた屋上で寝そべっているのだろうと静は瀬田を睨んでいた。
「弾くん、どうしたんだろ。」
はなは静に聞いた。どうしてあんな問題児を心配するのだろう、と静は疑問に思った。もう誰も弾のことなど相手にしていないというのに。
「またどこかでさぼってるんでしょ。」
はなは小学生のまま変わっていないのかもしれない。でも、終わりは近い。
「うわあ、弾くんいけないんだあ。蛙入れたのも絶対弾くんだし。」
はなは憤慨していた。蛙の件は自分の方がはなより憤慨しているだろうと静は自負する。瀬田は一時間目の始業式のために体育館へと向かうように言う。
「静ちゃん。はな、弾くん見つけてくる。」
「ちょっと――」
はなはとことこと瀬田の方まで歩みより、何かを話していた。弾について進言していることは静にとっては容易に見当のつくことだった。
「そうだな。始業式までには帰ってきてくれよ。もし間に合いそうになかったら途中で切り上げてこい。いいな。」
「はい。」
「先生。はなだけでは不安なので私もついていっていいですか?」
はなだけにあのゴリラの相手をさせるわけにはいかない。年頃の男女を二人だけにするなど言語道断である。静は漂う臭気になるたけ息をしないように心掛けながら瀬田に進言する。
「花田、静樹。さっき言ったことを忘れるなよ。」
「「はい!」」
なにを偉そうに、とは感じながらも、はなの元気な笑顔の前では邪悪も浄化される。臭いも気にならなくなる。これが幸せなのだと静は実感した。
「静ちゃん、弾くんの居場所知ってるの?」
階段の下の段からはなの声を聞きとる。静は今、階段を上っていた。
「ええ。三年間伊達に同じクラスじゃなかったから。」
「でも、この先は――」
「ええ。屋上に続く階段。でも、行き止まり、でしょ?」
「分かってるのになんで行くの?もしかしてバカ?」
「はなに言われるなんて屈辱だわ。」
なにかはなが喚いていたが静は無視する。
「そう言えば、こういう話知ってる?」
「なになに?」
「どうして屋上がこうやって鎖で閉ざされているのか。」
屋上への扉は鎖と南京錠で拘束されていた。扉全体を縛るように巻かれている鎖ははなに不吉な何かを感じさせた。
「もしかして、怖い話?」
静は何も言わずに話を続ける。はなは相槌代わりに、怖いの嫌だよう、とつぶやき続ける。
「この屋上で昔一人の女子生徒が身を投げて自殺したんだって。」
「どうして?」
「分からないの。色々あり過ぎて。有力なのは、失恋とかいじめとか。時折、空を飛びたかったから、とか死神に追われていたとか言われてる。」
「死神?そんなのいるわけないじゃん。」
「どうかしらね。はな。ブギーポップの伝説知ってるでしょ?」
「その人が一番美しい時に殺す死神でしょ。黒いマントに筒みたいな帽子の。」
「あと、とんでもない美少年とも言われているわ。」
「でも、あれってラノベの話じゃないの?」
「実は、そうとも言えないの。」
静は扉の前で動こうとしない。
「似たような話は昔からあったの。だから何、って話だけど。」
静は扉を思いっきり蹴る。すると、扉はあっさり開いてしまった。
「あれ?鍵は?」
「見せかけだけよ。このことを知ってるのは私と弾くんだけだったんだけど。」
静はなんの迷いもなく屋上へ進んでいく。はなは「静ちゃん、カッコイイ。」とつぶやいたことに静は少し気を良くした。
「段町弾。始業式に出なさい。」
「弾くん、はなの下駄箱に蛙さん入れたでしょ!」
給水塔近くから隠しても隠し切れない巨体が見えている。
「今日ははなも一緒か。」
静だけが来た時と違い嬉しそうなので、静はムッとする。
「どうだ。可愛かっただろ。」
いやしい声だった。静の鼻の奥を刺激臭が刺す。それは時折静パパから発せられる漢の臭い。「可愛かったけど、びっくりしたんだよ。叫んじゃってはな変な人に思われたかも。」
静ははなが声を震わせているのに気がつく。昔から怒るより先に泣いてしまう子であった。
「悪かったよ。ちょっと驚かそうとしただけじゃんか。ごめんって。」
弾は焦ったようにはなのもとに近づいてくる。鼻の痛みを堪えるので静はいっぱいいっぱいであった。
「うん。わかった。」
簡単に許したはなに静は思わず弾と目を合わせぱちくりとまばたきをしてしまった。自分も弾と同じ間抜け面をしていると思うと恥ずかしくなる。
「はながうらやましいよ。」
「どういうこと?」
「気楽そうでさ。」
「サボってる人に言われたくない。」
そういうことじゃないんだけどな、と弾が小さく呟いたとき、チャイムが鳴った。始業式開始のチャイムだった。
「ああっ。始まっちゃった。」
手をばたつかせペンギンのように焦ったはなが言った。静ははなの可愛さに胸をときめかせる。胸のドキドキ、止まらないよ。
「何が?」
本当にわからないという顔で弾は言う。
「始業式!」
「このままサボろうぜ。校長の長い話を聞くだけだろ?」
「でも、先生に怒られちゃう。」
はなは真剣に弾を叱っている。だが、静は気付いてしまった。思いついてしまった。
「いいえ。サボりましょう。」
「静ちゃん⁉どうしたの⁉」
どうした?一時間校長の話を貧血気味になりながら聞くよりかははなと二人で一時間過ごした方がいいに決まってるではないか。
「あの教師ならこう言うはずよ。『お前ら途中で来るんじゃねえよ。全員来てますって報告しちゃったんだから』って。」
「ええ⁉先生そんなひとなの⁉」
「お前らの先生、面白いな。」
「弾くんも同じクラスだよ。」
「マジ⁉」
大型動物のように背を向け給水塔へと戻っていく様は、何かから逃げようとしているように静には見えた。
「気持ちいいね、ここ。」
「そうね。」
温かい春風のそよぐ屋上で二人は仲良く並んで座っていた。もう中学三年生。終わりは見えている。
屋上から生徒が戻ってくるのが見えたので、静は教室に戻るように促す。弾は寝ていて全く動かなかった。狸寝入りであるのは分かっていたが、静は弾と関わり合いにはなりたくないので、放っておくことにした。
瀬田は弾以外が集まったことを確認すると、話し始める。
「この後は大掃除だが、このクラスでは特別にホームルームとする。掃除はちゃんとやるからな。やらないとこっちがお局どもにせっつかれる。あ、さっきのオフレコな。そこ、弱みを握ったみたいな顔しない。」
瀬田の言葉など静にとって騒音でしかない。騒音から意味を聞き取ることなど特殊な才能がない限りは無理である。
「さきほどの始業式で知っていると思うが、このクラスに今日から転校生がやってくる。入って。」
扉が開く前から女子がきゃーきゃー叫びだす。なぜか静の胸は高鳴った。
その人物が姿を現した瞬間、様々な臭いの入り混じった混沌ははるか宇宙まで飛んでいき、目の前には広大な花畑が現れた。美しい花びらが静の頬をかすめる。
「さあ、自己紹介だ。」
「はい。」
転校生は音もたてず滑らかにチョークを滑らせる。ただ黒板に字を書くだけの行為が黄金比で彩られる。
「救世・せもぽぬめ・英雄です。よろしく。」
くぜ、せもぽぬめ、ひでお。静は口の中で舌を転がし、味わうように彼の名前を愛でた。
「ああ、ええっと・・・洗礼名みたいなものです。僕、鳳学園に通ってたので。」
「みなさん。よろしくお願いします。」
世界は捨てたもんじゃない、と静は思った。
「いやあ、本当に素晴らしいわ。」
静は教室の窓を通してグラウンドを駆けまわる英雄を見ていた。
「何見てるの?」
ほとんどの女子が静と同じく英雄を見つめる熱い視線を送っている。静は誇らしい気分になった。
「救世くんに決まってるじゃない。」
静はずっと英雄のことを見ていた。掃除のときも、荷物をまとめてサッカーへと誘われていくときも。見れば見るほど輝きが増す、宝石の原石のような男だと静は高評する。
「もう男子とも仲良くなって、サッカーしてる。それもJリーガーですかと問いたくなるほどね。」
英雄の能力はずば抜けていた。ドリブルでディフェンスを圧倒し、一度ボールを持って走り出したら、ゴールまで誰も彼を止められはしない。
「静、そんなお弁当で足りるの?」
急にはなが素っ頓狂なことを聞くので、なんだという目線を投げかける。静は決して小さな弁当で満足できているわけではない。
「ふふふ。はな。あなた、それだけ食べても少しも太らないじゃない。私だって、もっとバクバク食べたいの。脂っこいもの好きなの。でも、でも、ね?」
「今日、マクド行く?」
「どうしてそんな話の流れになるの?まあ、いいけど。こんなんじゃお腹いっぱいにならないし。でも、どうしたの?」
どうもむしゃくしゃしていたのでやけ食いにはちょうどいい。
「へ?どうしたのって?」
「はなは何か相談がある時じゃないとマクドに誘わないでしょ。」
「うん。流石静ちゃんだね。」
少し恥ずかしがりながらはなは言った。
「悩み事があるとお腹すいちゃうから、マクドに行きたくなるの。」
「それだけの理由?それもそれだけ食べて足りないの?行くのって今からでしょ。」
「うん。お腹減った。」
今日は昼までで授業は終わり。塾まで時間があるのでいい暇つぶしができた、と静は喜んだ。
マクドにて、はなはメガマックのセット、静はチーズバーガーを頼んだ。ちなみにハッピーセット。
「ねえ、どうして――」
何か言おうとするはなを静は口をふさぎ黙らせる。
「それ以上は聞いてはいけない。」
ひとの趣味に難癖をつけるような少女ではないことを知りながらも静は告白することはしない。すると、はながどうしてか喚きだした。
「静ちゃーんっ!」
「どうしたのよ、急に。」
「明後日先生が家庭訪問に来るの。」
「ああ、あれね。」
進路が決まっていない生徒に瀬田が家庭訪問すると告げたのだ。そんなどうでもいいことに一喜一憂できるはなが静は少し羨ましくあった。
「家庭訪問までに進路を決めておけだって。」
「それがどうして号泣に繋がるの?」
「だって、まだ何にも決めてない~!」
「高校も?」
「うん。」
はなは鼻をぐずぐず言わせながら頷く。
「静ちゃんは決まってるの?」
「ええ。」
「何になるの?」
「警察官。」
「うわあ、すごいなあ。パパが警察官だから?」
「これは自分で決めたことだから。」
はなに言いながら、本当に自分は警察官になりたくて、それは自分で決めたことなのだろうかという疑問を静は必死に噛み殺しながら会話していた。
「私は何になればいいのかなあ。」
「そんなこと私に聞かれても・・・正直、困る。」
「何に向いてるのかなあ。・・・ま、考えててもしょうがないか。」
それではだめなのではないか、と静は考えた。きっとはなが、いや、自分が後悔するから――
「うん。良くはないと思うわ。」
自分は間違っていない、という確証も得られないまま、言葉を紡いでいた。
「でも、今の時期に家庭訪問なんて、普通はしないけどね。」
「そうなの?」
はなは不思議そうな目で静を見る。静もホームルームで聞いたときに違和感を覚えたのだが、新任だから色々あるのだろう、と特に気にしないでいた。
「でも、高校も決めてないんだったら、面談くらいはするでしょうね。高校だけでも選んでみたら?」
「はな、バカだから、O高校かな。公立だし。」
マクドの中はいつも同じ匂いがする。均一で平均的な、温められた肉の匂い――
「そんな選び方はダメよ。何になりたいかから選ばないと後悔する。なりたいもののためだったら、お金の心配なんてせずに専門の学科のある私立に行った方がマシ。」
少し感情的過ぎたか、と静は反省する。はなが少ししょげていた。どうして自分は感情的になっているのだろうという問いをオレンジジュースを口に流し込み、無理矢理どこかへ押しやる。
「静ちゃんはどこの高校に行くの?」
「鳳学園の高等部。」
「じゃあ、私もそこ。」
「ダメ。」
「ええ~。はながバカだから?」
「なりたいもののためだったら、どれだけ試験が難しくても頑張れるでしょ。でも、それがないのに入ったら、三年間地獄よ。」
自分も学力が高いからってだけで選んだくせに。静の中の悪魔が胸を刺す。無理矢理、警察官になるには学力がいるから、とかき消すが、不快感は残る。残尿感に近い、すっきりとせずうずうずする気分。
「難しいよ。夢なんてないし。」
静は急にはなが愛おしく思えた。私の可愛い仔猫ちゃん。私の分身。もう一人の私。素直になれない私のためのもう一人の私。花田はな。
「みんなにも聞いてみたらいいんじゃないかしら。」
結局は自らで決めるほかない。その残酷な未来を分かっている静は、少し悲し気な顔になる。
「みんなって?」
「いつもの四人。」
「そうだねっ。そうしよう。久々に集まろうよ、空き地で。」
はなは早速メールを送り始めた。
「そういえば、こんな都市伝説知ってる?」
「また怖い話?」
はなが怖がっている姿は実に甘美である、と静はほくそ笑む。そんなはなの姿をずっと見ていたいと思うあまり、都市伝説を調べ過ぎてオタクの域に達してしまった。
「統括センターっていう謎の組織からメールが来るんだって。そのメールが来た人はある日突然行方不明になったり、人が変わったようになるんだって。」
ネットで調べた、根拠不明な代物である。そもそも都市伝説に根拠などないか。あるのはスレンダーマンくらいかもしれない、と静は考えた。
「怖い~。」
小動物のように震える姿、いとおかし。
「統括センターは世界を裏で牛耳ってるとか、改造人間を作ってるとか、そんな話もあるわ。」
「へえ、仮面ライダーみたいだね。」
「脱走して正義の味方になるの?」
「正義の味方かー。格好いいね。なってみたいな。」
静は昔の、とはいえまだ数年前であるはずのはなを思い出していた。はなは自分のことになると弱気になって、逃げようとするが、誰かが困っていると黙ってはいない。いつもの怖がりなはなとは違って正義の味方のような勇ましい姿になる。ドジなのは変わらなかったけど、と静は苦笑する。
「大丈夫。はなならなれるわ。世界一不器用な正義の味方に。」
「またバカにして。」
ふふふ、と静が笑っていると、携帯電話のバイブレーションが鳴る。
「うん?はな、送ったの?」
「うん。」
メールを開いてみると、明日の昼に空き地に集合となっていた。
「明日なの?」
「うん。膳は急げだよ。」
「漢字違うから。食いしん坊ね。はなは。全く。」
ずっとずっと一緒だよ、と静は心の中で願った。
多くの長机がきちんと並んでいる。そこで一心不乱にノートをとったり、講師の話に耳を傾けたり、問題を解いたりしている生徒達の一人が静である。四角い閉鎖牢の中に閉じこもっているのはみな、鳳学園の志望者である。東大京大への進学率の高さから、また、他の有名大学への進学率から、多くの生徒が入学を目指している。中には高校浪人している生徒もいるそうである。
「静樹さん、こんにちは。この前の模試、どうだった?」
となりの席の女子が静に声をかける。
「うん、まあまあかな。」
「さすがだね。私は今からでも進路考え直さないといけないかも。」
それが嘘であることは静にも分かっていた。絶望にひしがれている生徒はいつも教室の端で芋虫のように手足をもがれもぞもぞと動いているように生活している。そして、いつの間にか影のように姿を消してしまう。
女子は他の生徒のもとへと蝶のように舞っていく。その先でも同じような話をするのだろう。それは自慢のためでもあるが、情報収集のためでもあるのだろう。ライバルは少ない方がいいし、希望数がたった一人でも減ったとなると、気持ち的に楽であるからだ。
静の現状は可もなく不可もなくというところであった。もう少し頑張れば安定したところまでは行けるが、今はまだギリギリ合格するかしないか、というところ。まだ一年ある、とか、試験にはどんな問題が出るのか分からないし、と無理矢理自分を落ち着かせているが。
静の成績が伸びないわけを、静は自分で分かっていた。それは迷っているからである。自分は本当に警察官になりたいのか、鳳学園に進みたいのか、と自問自答し、答えが出せず、一歩踏み出せない。静は恐れていた。鳳学園に進むともう引き返せないという怖れ。そのままあっという間に警察官になってしまいそうで怖かった。親が警察官だから、という理由だけで警察官になろうと考えているわけではない。だが、それ以外の理由も見つけられなかった。市民の安全とか、国民の平和とか、そんなことを考えられるほど静は大人ではなかった。ドラマのように家族が凶悪犯に殺されたりということもない。進むべき理由がなかった。
「でも、他になりたいものもない。」
なるべきものもない。はなには大きな口を叩いていたのに、私もはなと変わらない、と静は肩を落とす。自分にとって大切なものが、決して譲れないというものが見つかればきっと答えは自ずから見えてくる。でも、大切なものを見つけられず、力を得てもいいものか、と静は悩んでいた。
悩んでいても静は人一倍には勉強する。塾の授業が終わったころにはすでに陽は落ちていた。大分遅くまで明るくはなってきているものの、夏のように長く明るい時期がある訳ではない。
「気を付けて帰ってくださいね。」
講師が授業の最後にそう言って終わる。その言葉は真剣に言っているようだった。年頃の女の子が夜道を歩くのは何人いてもいいことではない。いずれは一人になる時もあるのだから気が気ではないのだろう。だが、静には共に帰る友達はいなかった。
一人寂しく夜道を歩くが、鳳学園専攻の塾はみな大抵一人で帰る。誰もがみんなライバル。
「絶対勝ちたいってみんな思ってる~」
静は音の響く夜道の中口ずさんだ。外灯は頼りなく揺れている。月は出ていない。星は街灯にかき消され見えることはない。
と、道の先から変なにおいがすることに静は気がついた。生ごみのような、雑多なものがひしめき合い、互いを腐らせ合うような異臭。その先から誰かが静の方へと向かってきているようであった。どうしようかと迷っていると、その人物の姿が見える。綺麗にクリーニングしてあるスーツが特徴的な教師、瀬田であった。
「あれ、えっと、静樹さんだっけ?」
静は瀬田に話しかけられて、嫌な気分になったが、別に瀬田は何もしていないのだから、と立ち止まり話す。
「はい。先生はどうしてここに?」
先生であっても道を歩く。常に学校で暮らしているわけではない。だが、静には少し物珍しかった。
「ああ。それが、家庭訪問の時に道に迷わないように下見をしておこうと訪問する家を回ってたんだが、どうも迷ったみたいで。」
言い訳がましく聞こえたのは気のせいだろうか、と静は訝しむ。
「静樹さんは一人で帰るのかい?危ないよ、それは。家まで送って行こう。」
「結構です!」
近くの民家までは聞こえたであろう大きな声で静は言い放った。
「いや、でも・・・」
静は足早に進み、瀬田から遠ざかる。瀬田は追っては来なかった。
「おぞましい。おぞましい。おぞましい。おぞましい。」
静はかゆむ両腕をさすりながら、早く帰りたいと思った。
「なんだかなあ。」
若い警官は自転車を漕ぎながら夜道を走っている。自転車についたライトがこころもとなく自転車の行く先を照らしている。
今時、深夜に犯罪を起こすバカなんかいないし、田舎は平和だから夜はみんな帰ってますよ。悪態をつきながらパトロールをする。
警官は何かに気が付き、ブレーキをかける。警官もなにがあってかけたのかは分かっていなかった。何かがあると思った道を見てみると、液体が流れていた。エアコンの室外機から流れているのか、と思ったが、その考えはすぐに否定される。液体が黒かったからである。そして、異臭。警官は懐中電灯で液体の流れている先を照らす。
そこには男が一人、倒れていた。光に照らされて液体が赤く光る。その時になって初めて警官は流れて来ていた液体が倒れている男の血液であることに気がついた。
朝、『ムーンチャイルド』で目を覚ます。そんな金髪の中学生、末木慶と不思議な小学生との物語。
「ほんと、よくこんな弱弱しいメロディで朝起きられると自分でも思うよ。」
俺は俺しかいない部屋で呟く。どうかしてる。でも、どうかしてる俺でいい。今日も一日どうかしてよう。
さっさっと階下へ降り、リビングへと向かう。アメリカのドラマでしか見たことないぜ、と友達に言わしめたリビングには目玉焼きとコーヒーが並んでいる。キッチンからはトーストの香ばしい臭いが漂っている。
「慶ちゃんおはよう。」
「おはよう、ママ。」
この歳になって慶ちゃんって呼ばれるのも辛いし、ママって甘えた声で言うのも悲しいことだけど、一回柔らかに止めようって言うとママ、泣き出しちゃったからな。パパと別れてからママは少し寂しがりになった。別れてやる、別れてやるって離婚するまで散々言っていたのに、別れるといつもヒステリー気味。これは俺の家なんだぞ、と叫びながら出て行ったパパが少し可哀想に思えてくる。金持ちだからってさんざん色々な女に手を出したパパも悪いのだが。
「新しいクラスには慣れそう?」
ママも座り、朝食をとる。
「まあね。そう言えば、転校生が来たんだよ。」
「そうなの?なにかあったのかしら。」
ああ、ずっと先まで話を進めちゃったよ。確かに、この時期ってなると色々家庭の問題かなって思うけど、アイツは悪い奴じゃなかったし。
「いいやつだよ、ママ。」
あら、そう、とだけママは言った。俺はコーヒーに少しずつ口をつける。猫舌だから。肉に似た豆の香りが鼻腔をくすぐる。適度な苦みが丁度いい。いつものコーヒー。
「行ってきます。」
簡単に身支度を済ませ学校に向かう。教科書なんか持って行かない。今日は昼までで授業は終わりだし、授業なんて聞いててもつまらない。いつも片方の耳から入った言葉がもう片方の耳から出て行く。だから耳は二つあるんだとはなに言うと、信じてしまったのですごく罪悪感が沸いた。
そう、いつもの朝。でも、今日一日がいつもと同じようになるとは限らないし、実際いつもとは違っていた。この町によくない影が覆いかぶさっているようだったし、その影なんかと関係なく俺はあの少年と再開した。
「やあ、パパ。元気?」
俺は通学途中にいつもパパを起こすためにパパの住んでいる家に足を運んでいる。
「うう、ケイ。」
少し米国なまりの発音。俺の目の前に現れたのは、しおれた花のような外国人男性、に見えるが日本の法律上日本人だし、白人の血も半分しか入っていない。髪は黒いが瞳は青い。
「ふう。ケイ、手伝って。」
黒い髪をおかっぱにし、パパと同じ青い瞳を持ったチビが俺に指図する。
「へいへい。」
俺はパパを今まで運ぶ。ちゃぶ台しかない四畳半。哀れな姿。
「ニトロ。梅干しピザは?」
「持ってくる。」
おかっぱ少女はすぐにピザの箱を持ってくる。冷めていそうだが、文句を言われても仕方がない。
「ほら、パパ。早く食べないと遅刻だよ。」
俺はパパの口に梅干しピザを突っ込む。するとパパの目の色は変わり、びしっとしたスーツを着た紳士へと様変わりする。
「ライトニング家の者は刺激物を摂取しなければ本来の能力を取り戻すことはできない。」
パパはいかにもと言う顔で解説する。
「残りも食べて行かないと。途中で倒れちゃうと大変だから。」
そのライトニング家の血が俺にも四分の一あるのだから、困る。俺の場合ほとんど遺伝せず、一日コーヒーいっぱいで快調である。
「さあ、ニトロちゃんもレッドフラッシュを。」
パパはニトロにピザを分ける。レッドフラッシュというのは梅干しのことらしい。ライトニング家に代々伝わる秘宝なのだとか。いつの時代からだよ。ニトロは俺よりもライトニング家の性質を受け継いでいるのか、梅干しを一日一個食べなければ不快だそうな。
「じゃあ、俺行くから。」
カバンを持って雷家の門を出る。何も入っていないから、カバンなんて必要ないけど、いつも持ってるからいいか。あ、そうだ。ニトロは俺の妹ではない。従姉妹だ。ばあちゃんがライトニング家の人で、じいちゃんが雷家。その息子がパパと兄のおじさん。その叔父さんの娘が雷ニトロ。パパは婿養子ってやつだ。だから、離婚しても苗字は変わっていない。離婚したことを知っているのははなと静と弾だけ。他にも知ってるやつはいるかもしれないけど、俺は自分で言ったことはない。パパは家を追い出された後、生家へ戻ってきたわけだ。おじさんが海外出張で丁度ニトロ一人になってしまうところだったから、グッドタイミングだった。ママ的に。
「やあ、こまりちゃん。元気?」
俺は女子に話しかける。女子は軽くあしらうように俺を扱う。それでいい。それが俺のキャラだ。下駄箱にはなと静がいるのが見えた。俺は話しかけようとするが、その前に英雄が現れて二人と話していた。英雄は特にはなと親し気に話している。俺はしばらく下駄箱に近づこうとはしなかった。
授業中、教科書も持ってこず、ノートもとらずであると結構暇である。だから、大抵寝ている。ポケットから振動が伝わる。メールが来たのだ。俺はそっと携帯を覗く。
『慶。今日遊ぼうぜ。』
去年卒業したばかりの先輩からだった。
『すいません。今日、居残りで。』
金がないから、という理由にしようかと思ったが、それだとおごるから来いと言われそうだった。
『さぼってこいよ。』
『俺成績悪いんで留年しちゃいますよ。』
そう送った後、返事は返ってこなかった。きっと友達ができずにさびしいのだろう、と思った。俺は英雄とはなのことを思い出して、やっぱり遊びに行こうかなと思ったが、もう断っちまったから仕方がない。ま、いっか。
空地に着いたとき、まだ誰もいなかった。しばらく感傷に浸りながら待っていると静が来た。何も話さず俺とは反対側の端に行く。大分嫌われているみたいであった。別に何もしていないと思うけど、きっとこういうのが成長するってことなのだろう。そして、成長しないヤツが来た。
「よ、お二人さん。熱いねえ。」
別に対した意味はないと思う。弾からの打撃がやはり来た。痛みはあまり冗談になっていない。
「弾の暴力、久しぶり。でも、手加減してよ。力強くなった?」
「お前が弱くなっただけだろ。」
なるべく弾のご機嫌を損ねない様にしよう。俺は常にそうやって生きてきた。誰かのご機嫌をとって、嫌われないように。ただ一人の対象を覗いては。
「そういえば、どうして呼んだんだ?」
弾が言った。
「みんなは進路どうするのかを聞きたくて。」
なんかつまらないことで呼び出されたな、と俺は思った。けど、周りが急に静かになるので参ってしまう。
「俺は高校なんてどこでもいいって思ってる。うちが金持ちだから、家業を継げばいいし。一応大学は出てくれとは言われてるけど。進路希望は中間くらい成績の高校にしておいた。」
「慶くんところはお金持ちだもんね。」
まあ、そんなところなのだろうか。俺は急激にこの話題に対する興味を無くしていた。
「話の腰を折って悪いんだけど、一つ聞いて欲しいことがあるの。」
ぼうっとしてたら、いつのまにか静が話の腰を折ろうとしていた。
「昨日、この近くで殺人があったの・・・だから、気を付けて。」
急に物騒な話になった。お蔭で目が覚めたかと言うと、そうでもない。
「そんなこと、初めて聞いたぞ。」
弾が言った。
「まだ、公表されてないの。パパは早く市民に知らせるべきだって電話で怒鳴ってたけど。それだけショッキングな事件なの。」
「それは穏やかじゃありませんねえ。」
はて、誰だろうと思っていると、英雄が空地に来ていた。
「く、救世くん⁉どうしてここに⁉」
静の動揺っぷり、分かりやすい。俺は笑いを必死でこらえた。
「いえ、みなさんが集まっていたので何事かな、と。」
「お前、誰だ?」
さすがガキ大将。貫禄ぱないっす。
「転校生のせもぽぬめくんだよ。弾くんまだ一度も教室に来てないからわからないんだね。」
「なんだ、そのせもぽぬめってのは。」
「ニックネームみたいなものです。」
英雄も恐れずに弾と接せるぜ、と俺は呆れていた。
「仲、いいんだな。」
「弾くん、よろしくお願いします。」
いつの間にか俺は弾に引きずられて空地を出ていた。
「どうしたの。弾。」
大方は分かっていたものの、俺はわざとらしく聞いた。誰もがはなのことを好きだった。俺や弾はいつもはなに意地悪したけど、それははなが決して俺たちのことを嫌いにならないということが分かっていたからだ。
「いや。なんでもねえよ。」
弾は俺を引っ張っていくことをやめた。
「それより、気にならないか。」
「なにが?」
「事件のことだよ。」
事件についてはちょっと物騒だな、と気にはなっていたけど、俺はもーまんたいって感じで答える。
「あっという間に警察が解決してくれるさ。」
「そうだったらいいがな。」
弾は一度も振り向かず、去っていった。俺は弾の背中が大きくなったな、と思った。俺はあまり背が伸びていない。髪を染めた理由も、ガキに見られたくないってだけだった。
町には何個かはゲーセンがあるってのが普通だ。こんな片田舎にも何個かある。そして、数えるほどしかないからこそ、知り合いに出会う確率も高まる。
「あれ?慶?」
「げっ。」
こんなにばったり出くわすとは世の中狭い。俺が出会ったのはメールで誘いを断った先輩。出歩いた俺が愚かだった。
「居残りは?」
明らかに責めるように先輩はなじる。
「いやあ、早く終わっちゃって。」
絶体絶命。ああ、一発ぐらい殴られそうだな、と思っていると、
「通行の邪魔なんだけど。」
下の方から声が聞こえる。見下げると、どこかで見たような顔の小学生がいた。
「しーちゃん、だったっけ。」
確か、昨日はなと一緒にいたガキだ。
「なんだこのくそがきゃあ。」
先輩はしーちゃんの顔を踏み潰そうとする。容赦ないな、と思い、俺は目を閉じた。ガキが血まみれになる姿は見るに堪えない。
「な、なんだこれは。」
なんだと思い目を開けると、しーちゃんが先輩の足を片手で受け止めていた。
「か、体が動かねえ。」
確かに先輩の体は石のように固まっていた。
「そろそろか。」
しーちゃんがそうつぶやくと、先輩の体は動き出し、しーちゃんに押されるように後ろに倒れる。あんなガキのどこにそんな力があるのかと俺は驚いていた。
「お、覚えてろよ。」
先輩は頭の後ろを抑えながらゲーセンから去っていく。お決まりのセリフを吐いて。しーちゃんがひとりでにゲームの筐体へと向かうので、俺はついていく。
「いや、しーちゃん。ありがとな。」
「君は本当に軽いヤツだな。」
なんか昨日と雰囲気が違うような気もしたけど、どうでもいい。
「いやあ、しーちゃんにお礼がしたくてさ。」
長いものに巻かれろ。それが俺のポリシー。
「ほら、百円あげるよ。」
俺は財布からありったけの百円玉を取り出す。しーちゃんは百円玉を受け取りながら言う。
「慶。もし君が本当にお礼がしたいなら、このゲームやってみろよ。」
しーちゃんが示したのは女児向けアーケードゲーム。
「いや。無理です。」
流石に犯罪になりそうだ。しーちゃんは予想通りという顔をしてゲームにコインを入れる。というか、プレイするのかよ。お前男の子だろ。
しーちゃんは俺の渡したコインをすっかり消費し終わるまでゲームを続けていた。
「どうして一人で帰らないんだ?」
「だってね、そりゃあ。報復とか怖いし。」
もう夕暮れになるまでしーちゃんはゲームをしていた。今はゲーセンからの帰り道。
「でも、しーちゃんってば力持ちなんだね。」
「力など、あったところで嬉しくとも何ともない。」
やけに落ち込んでしーちゃんは言った。誰かにからかれたりしたのだろうか。
「慶はお気楽だ。あまりに人のことを考えない。」
どうも小学生のガキは俺の言葉が気に食わなかったらしい。
「そして、はなと違って決して素直ではない。意気地もない。」
あら。ぼろくそ言われてるぞ。
「しーちゃんとはなはいとこかなんか?」
全く似ていないけどな。まあ、俺とパパも似てないし、ニトロに至っては別人級だ。
「全く関係ないよ。俺とはなは。何の関係も無い。」
どういうことかと思ったが、向こうには話すつもりがないのも分かっていた。その後なんだか話しづらくなって、家にしーちゃんを送り届けるまで一言も話すことができなくなった。
帰り道、もうすっかり暗くなっていた。家に帰るとママがなにやら話していたが、俺に話しているというよりも自分自身に話しているのだろうという感じなので、ほとんど耳に入れてはいない。
「不思議なおこちゃまだったな。」
俺は勢いよく湯船につかり、呟く。
「あんな子どもに俺の性格がどうこうの言われるとは思ってもみなかったぜ。」
俺は肩を落とす。思った以上に落ち込んでいるようだった。さっき先輩からメールが来てて、よりを戻そうって内容が書いてあった。今日のことが会ってどうしてそんなことを思えるのか分からなかったが、戻すようなよりもそもそもない。中学生同士の恋愛なんて、おままごとの延長みたいなものだと思ってた。向こうはそんな軽い気持ちを見透かしていたのだろう。小学校から上がってきたばかりのガキは狙いどころだったのかもしれない。で、上手くハントされちまった俺は先輩の愛人になった。先輩には彼氏がいることが分かっていたし、その彼氏と別れても俺と恋人になる気はないのも分かっていた。愛人といっても友達の延長だと思っていたし、俺は恋人なんて大層な者にはなりたくなかった。まあ、お人形さんなんだろう。人形に中身は入っていない。
俺は先輩からのメールを無視することにした。またもし先輩とばったりでくわしたら、しーちゃんにでも助けてもらおう、とバカなことを思っている。冗談だが。
俺が成長するにつれてなのか、先輩が歳をとるにつれてなのか、先輩は俺を次第に恋人として扱うようになり始めた。俺は初めのうちこそ戸惑っていたものの、そのうちに慣れてきて、少し嬉しくもあった。だが、いずれ重荷になってきた。働く術さえもたない中学生にとって女一人と付き合うのは重荷なのだ。だから、先輩は恋人をとっかえひっかえして、とっかえひっかえされたりしたのだろう。
ある日俺は先輩の部屋に呼ばれた。先輩が卒業する間際であった。そこで何をするのか分かっていた俺はその日行かなかった。それこそ中学生が身体を重ねるのはとても重い、重いことだ。きっと先輩なりのけじめで、これを機に別れようってことだったんだろう。先輩の習性を近くで見てきた俺にはよく分かっていた。
逃げた俺は意気地なしなんだと思う。でも、重すぎて俺では背負えなかった。だったら逃げないと俺は俺でなくなりそうで怖かった。
そろそろ上がらないとのぼせるな、と思った俺は浴室から出て、体を拭く。鏡に映る自分の肉体をしみじみと眺めながら、あの時はなが傍にいたら助けてくれたのかもしれない、と考えていた。窓の外からムーンチャイルドの鼻歌が聞こえてくる。気があいそうなヤツがいるな、と思った。
若い刑事は大きな欠伸をする。
「こんな夜中に会議とか、頭おかしいんじゃないっすか。」
「そろそろその軽口をしまった方がいい。静樹警部補が来るぞ。」
「おお。そいつぁ恐ろしい。」
間もなく話題の静樹警部補が姿を現す。周りの刑事と深刻そうな顔で話している。
「外傷は鑑識によりますと、鋭い刃物のようなもので抉られているわけですが――」
いつの間にか会議は始まっていた。話し半ばで聞いていた刑事は、そこのところだけ聞こえていた。
「あれが刃物でえぐった感じかねえ。」
警察官の通報によって現場を訪れたのはこの刑事であった。死体とも直面している。
「現状では未知の凶器によるものとしか言えず――」
心臓の場所がごっそりと抉られてたんだから、そう言う表現になるだろうな、と刑事はおかしくなった。体に穴を開ける凶器ってなんだろうな、と。だが、上司たちはそこのところには大した興味がないらしい。もっぱらホシの可能性だけである。もしくはわざと目を背けているのかもしれないな、と刑事は思った。
「今晩も現れるかもしれんから、各自注意を怠らないように。」
「え、俺たちも警備すんの?」
刑事は隣の同僚に聞く。お前は何を聞いてたんだという顔をされたので、本気でやるらしい。
ああ、やるせないなあ、と刑事は思った。
段町弾は履き潰した靴を履いて玄関を出る。
「行ってらっしゃい。」
弾のかあちゃんは出て行く弾に向かって声をかける。弾は何も言わず出て行く。段町家は静かであった。一週間前妹の小町が出て行ってから、さらに家族間の会話は少なくなった。家にいるのは弾とかあちゃんだけで、父親は牢の中だ。
弾はどうして授業をさぼっているのに、学校に来ているのかとはなに問われた時の事を思い出す。かあちゃんに心配をかけたくないという気持ちも確かにある。だが、そんな理由よりも家にいても暇だし、居場所もないから、という自己中心的な理由の方が自分にとってしっくりくると弾は思っていた。
通学路に人が固まっている。体の大きな弾は、通るのが大変だな、と思った。さらに近づいてみると、ブルーシートがかかっていて、黄色いテープも巻かれている。これはニュースでよく見る事件現場じゃないか、と弾は思う。そして、弾はその場所が空地であることに気がついた。
「どうなちまったんだ。」
と、弾の目の端で、携帯をいじり、面倒臭いなあとつぶやく若い刑事の姿が映った。弾はカッとなった。気付いたときには刑事の胸倉を掴んでいた。
「テメエ、いい加減にしろよ。」
弾の気迫に押されて刑事は何も言えなくなっているようだった。
警察官がもっとしっかりしていれば、俺やかあちゃん、小町は苦しまずに生きていけたんだ。警察官に対する憎しみが弾を襲った。
「何やってるの。弾。」
やけに甲高い声で、弾の眠気は冷める。弾と刑事の前には静がいた。
「た、たすけてよ。そこのお嬢さん。」
刑事は泣き入りそうな声で言う。
「弾。放しなさい。」
「お前には関係ないだろ。」
弾は刑事の首を締め上げる。
「二人とも、どうしたの?」
この声は例え記憶をなくしても忘れることはない、弾の魂に刻まれた周波数。弾ははなに顔向けすることができなかった。
「てめえも警察官なら、もっと真面目にやりやがれ。」
ようやくそれだけを吐き出して弾は去っていく。弾の胸の内にあるのは嫉妬によく似た尊敬と畏怖の念であった。
弾の父親は逮捕された。その当時いきり立っていた弾をクラスメイトたちは陰口で色々言った。それは簡単に弾の耳に入ったが、弾はあんな親父、逮捕されて当然だと思っていたし、我慢は出来た。出来たのに、はなは怒った。その当時はなをいじめていた弾には訳が分からなかった。はなが弾をかばう理由はないのだ。
だんだん、弾ははなが自分が気付付けられているのには全く怒らないのに、誰かが傷つけられているのは決して許さない人間だということが分かっていった。
屋上には良い風が吹く。
「やっぱり美味くはないな。」
弾は煙草を口から離し、コンクリートに押し付けて消そうとした。その先に小さな花が咲いているのが見えて、自分の手でもみ消す。弾は小さな野花が好きだった。それが露見した時、みんなはは笑ったけどはなだけは笑わなかったことを弾は思い出す。もう煙草は吸わないでおこうと弾は思った。
はなが昨日将来のことでみんなを集めたことを弾は思い出す。幸せ者だな、と弾はその時思っていた。将来のことを考えられるのは今が安定している人間だけで、弾には将来のことなど考えている余裕はなかった。覗いたところで大した将来でもないことも予想がついた。犯罪者の子どもがつける職業など高が知れている。
「そうだ。大事なのは今だ。」
弾は体を起こし、行動を開始した。
中学生になってだんだん空地に集まることがなくなっても弾は最後まで空地に通っていた。そこは彼が王様でいられる場所であり、唯一の居場所だったからである。だから、思い出の場所を汚した輩が許せなかった。
「なあ、慶。手伝ってくれるだろ?」
都合よく捕まえることができた慶に手伝わせることにした。
「なにを?」
「殺人鬼を見つけるんだ。」
「やだよ。」
弾が岩のような拳を見せつけると慶は観念したように、大人しくなる。
「しかし、情報が足りない。何か知らないか?」
「知ってるよ。とっても詳しく。」
二日前、殺人事件が起こり、被害者が不審死した。そして、昨晩も同じ様に殺されていた。指紋やゲソ痕が見つからないことから、断定はできないが、殺害予想時刻が二日前の事件と近いことから、同一犯の可能性は高い。被害者同士の関係性もないことから通り魔的犯行かも――ということらしい。
「どうしてそんなに詳しいんだ?」
「近所に知り合いがいてさ。現場からもろ聞こえてたって。」
「じゃあ、夜中に探さないとな。」
「それって俺も?」
「当たり前だ。」
「どうしちゃったのさ。急にヒーロー気取り?」
弾はひどくイラついたが、矛を収める。
「俺やお前がいつ襲われるか分からないぞ。」
「いや、多分夜中出歩いた方がやられると――あぶっ。」
弾は慶の顔に一発叩き込んだ。慶は気絶する。そのまま気絶した慶を弾は自分の部屋に運ぶ。弾は慶を夜中まで監禁した。
「いたっ。」
弾は慶を殴って起こす。
「あれ?ここ、弾の部屋じゃん。どうしてここにいるの?」
「お前が急に倒れたから運んだんだ。」
「俺の記憶が正しければ、弾の拳骨が――いたっ。」
弾は慶の太ももをつねる。これ以上慶は軽口を叩かなかった。
「さあ、犯人をとっちめに行くぞ。」
「本気だったの?」
「当たり前だ。」
こうなれば野となれ山となれだ、と慶は覚悟を決めた。
「でも、どこに出るのか分かってるの?」
「知らん。歩いてたら出てくるだろ。」
「わーお。体張るねえ。」
慶の笑顔は引きつっていた。
「被害者は女とかって分かるか?」
「両方とも男性みたいだよ。」
「そうか。」
「うん。通り魔って殺しやすい人を選ぶもんだと思ってたけど、今回は偶然通りかかった人みたいだね。」
「なかなかの強敵だな。」
「そうなの?」
「相手を選ばないってことは、誰でも殺せる自信があるってことだろ。」
「そりゃあ恐ろしい。」
慶は懐中電灯を持ち暗闇を照らす。弾は金属バットを持って歩いていた。
「だから、一度自信を砕けば後はもぬけの殻だ。」
「驚くほど前向きだね。」
「怖くならないか。」
「いつも怖いよ。」
「もしかしたら俺がやったんじゃないかって。そうじゃなくてもいつか俺もやるのかもしれないって。」
「大丈夫だよ。」
「俺はあの親父の子どもなんだぜ。」
「弾は弾だよ。」
なんだか慶が怒っているような気がしてこれ以上言うのを止めた。
「何はともあれ、変な者に出くわしたくないよね。」
しかし、慶の願いは容易く打ち砕かれた。
初めはグチュグチュという変な音だった。
「何だこれは。」
音の異変に気づき、弾が言う慶は気味悪がりながらも、道の先を照らす。電信柱の根元に何かが蠢いたような気がして慶は照らした。すると、確かに何かいる。
「止めなよ、弾!」
悲鳴のような声を慶は出す。弾は勇敢にもその得体のしれないものに向かっていこうとした。慶には無謀に思えた。それは弾が近づいたことを察知したのか、のっそりと動き出す。それは生物のようだった。地を這うナメクジのようではある。だが大きさが異常で、ナメクジの百倍はある。そして、体を形作っているのは皮を剝いだ人肉のようにグロテスクなものだった。触覚のように体から伸びている器官が、目にも止まらぬ速さで弾に襲いかかる。弾は金属バットで防いだが、大きく吹き飛ばされた。
「弾!」
弾は体を起こす。握っていたはずの金属バットは先の方がちぎれていた。慶は見てしまった。ちぎれた金属バットを化け物がむしゃむしゃと触覚で頬張っているのを。触覚には鋭い歯がついており、金属バットを容易くかみ砕いたのだ。
「慶。」
弾の呼び声は震えていたが、その目はまっすぐに化け物を捉えている。慶は弾がまだ化け物に立ち向かうつもりなのだと分かった。
「逃げようよ!」
「慶。助けを呼んで来い。お前が思う最強の奴を。でなければ被害が広がる。この化け物が人を傷つける。」
この時、弾は化け物にシンパシーを感じていた。この化け物は俺と一緒だ、はなに守られる前の自分と。余りある力で人を傷付け、自分が傷付くまでどんなに愚かだったのかを知らなかった自分と。そして、こうも思っていた。はなならどうするかと。アイツは単純だからな、と笑っていられない状況ながら弾は笑っていた。非力なくせに、絶対に勝てないと分かっているくせに、きっとアイツは立ち向かう。
慶は緊張の糸が切れ、脱兎のごとく逃げ出した。弾より強いかもしれないヤツ?警察?いや、きっとダメだ。なら、アイツなのだろうか。でも、一番近いのは――
その時、慶はどうして弾が化け物と戦うことを決めたのか、ようやく分かった。
「さあて、どうするべきか。」
弾は思ったより冷静である自分に驚いていた。未知のエイリアンを前にして自分はどうすれば殺せるのかを真剣に考え、集中している。化け物の移動速度は驚くほど遅かった。ナメクジよりは早いのだろうが。注意すべきは口であった。あの口は目で捉えられないほど速く、飛んでくる距離も遠い。向かって来る化け物と間合いを取りながら、弾はどうすればいいのか考える。慶はもう帰ってこないだろうし、もし人を連れてくるのなら、被害が増えてしまう。その前に何とか終わらせたい。武器は先のなくなったバットだけ。
「八方塞がりじゃねえか。」
そのくせ、弾は愉悦を感じていた。人のために命を張れるというのは快感である。
ゆっくり、ゆっくりと下がる。一瞬でも動きが止まれば食われる――
こつん、と弾の背後に何かが当たった。それが電信柱だと分かった瞬間、弾は横に飛んだ。しかし、遅かった。転げた弾は自分の腹が赤く染まっているのを認識した。傷は深くないが、痛みはひどい。少しかすってしまったようだった。電信柱が大きく揺れている。化け物の口は電信柱のコンクリートを深く抉っていた。この衝撃だと、内臓が潰れているかもしれないと思い、弾は絶望的な感情になった。
立ち上がろうにも痛みで立ち上がれない。地を這うしかなかった。足は痛みでマヒしてほとんど動かない。左手で傷口を押さえないと、中身が出そうだ。片手で体を動かすしかない。断然、化け物より動きが遅くなる。
絶体絶命の時、弾の頭の中に思い浮かんだのは妹の小町のことだった。この化け物を誰も殺せないとなると、小町さえ殺されるだろう。守るべき存在、かあちゃん、小町、そして、はな。大切なものを俺は守ることができない。守る力がないばかりに、俺は大切なものを失う。非力なのは、力がないのは嫌だ。力が欲しい。誰でも守れるような、そんな強大な力が。
弾の目に、自分の頭部を食らい尽くそうとする無数の牙が映った。その先の穴が奈落のように続いている。
「君はよく頑張ったよ。」
牙は弾の目の前で停止していた。本体の方は苦しそうにもがいている。弾は何事かと首を動かし自分の背後を見る。そこには筒のような変な帽子をかぶったマントの男が立っていた。その時、弾は不思議にも目の前の男のことを考えていなかった。弾が見ていたのは男の背後の月で、その月は驚くほどに大きく見えた。そうか、ようやく月が出るようになったんだな、と弾は安心した。
「さあ、早くその化け物から退いてくれないか。」
黒帽子はそう言った。弾は必死に身を起こそうとする。すると、痛みは引いていた。
「ああ、傷のことだが、決して治ったわけじゃない。これ以上広がらないような措置をしただけだ。僕から離れると広がる。ほら。」
黒帽子から一メートルほど後方に行くと突然弾の腹から血が飛び出る。
「ほらね。まあ、もうすぐ救急車が来る。だから、適当に言いつくろっておいてくれ。」
そこで弾の意識が途絶えた。
弾が目を覚ました時、一番に目を惹いたのが大きな月だった。その月を見て、弾は全てを思い出す。弾は身を起こす。すると、腹に激痛が走る。腹には包帯が巻かれており、白い包帯に血がにじんだ。一体化け物と黒帽子はどうなったのだろうか。弾には不思議と黒帽子が化け物を殺したに違いないという確証があった。弾は嘆く。どうして俺には何もできないのだと。どうして非力なのだと。父親が妹を生死の境まで追いやるまで自分はどうすることもできなかった。警察が逮捕するまで俺はただ怯えているだけだった。どうして、そうして俺は何も守れない。
弾の涙を誤魔化すように携帯が震えた。病院では携帯の電源を切らなければならないと思い、携帯に手を伸ばす。メールが一通来ていた。宛先は統括センター。どうせ迷惑メールだろうと電源を切ろうとした弾だったが、そこにかかれた一文が弾の目を惹いた。
『君は力が欲しくないかい。誰でも守ることのできる力が。』
危険であることは承知で、弾はURLをクリックする。するとそこには鳳学園のサイトが現れた。
『君の入学を歓迎するよ 加賀』
たったそれだけ書かれていた。