kraftwerk
3. kraftwerk
ニートの朝は早い。
生粋のニートであるクラフトワークは押し入れを開け、のっそりとその身を出す。ちょうど陽が上ったころである。クラフトワークは畳の上に布団を敷き、寝ているというより寝荒らしていると表現すべき寝相の少女、花田はなの足元に立つ。小さなへそが見えていて、春先は寒いから風邪をひいてないだろうな、などと心配する。その腹めがけてクラフトワークは手をピタとつける。
「ひやっ。」
蛙が潰れたような声を出してはなは起きる。
「始業式から遅刻するつもりかよ。」
クラフトワークは溜息を吐く。
「がばっ。今日は春休み・・・」
「今日から学校だ。」
寝ぼけ眼で進んでいくはなが階段から落ちないか心配しながらクラフトワークもはなに続いて階段を降りる。はなは一週間に一回は階段から転げ落ちるのだが、毎度奇跡的に助かっている。
「おはよう。はな、しーちゃん。」
クラフトワークは花田家の人々から、しーちゃんと呼ばれていた。
「おはよう。パパ、ママ。」
はなとクラフトワークは席につく。クラフトワークはテレビの方を見る。
「十一家殺しの犯人は死刑だってさ。」
テレビを見ているクラフトワークにパパは言う。
「戦後最悪だもんね。」
はなは何も知らないのか、会話についてこれてなかった。
「ほら。ボーっとしてないで早く食べなさい。」
ママははなに注意する。
「はーい。」
気の抜けた返事をはなはした。
食事が終わるとはなは支度をし、家を出て行く。
「あんなに急いで、忘れものしてないかしら。」
「今日は始業式だから、持っていくものもないよ。弁当くらいかな。」
「弁当だけは忘れていかないんだから。」
クラフトワークは的確に答える。
「じゃあ、俺も出るよ。はい。」
パパは新聞をクラフトワークに渡す。そして、パパは荷物を持って玄関に行く。
「忘れ物ないわよね。」
「はなじゃないんだから。」
パパは家を出た。
「じゃあ、僕も二階に上がってるね。」
「分かったわ。」
クラフトワークは新聞を持って二階に上がった。クラフトワークは新聞を読んだ。これがニートたるクラフトワークの大きな仕事の一つである。やはり、一番の見出しは十一家殺しであった。女が包丁を使い自分の親と続いて周りの家の家族を殺したという事件。
「犯人の歯止めのなさは異常ではあるが、手口自体は異常ではない。」
クラフトワークは自分に関係のないことだと、興味を無くす。一時間ほど新聞を読んでいると、下からママの呼ぶ声がした。
「しーちゃん。ちょっといい?」
下に降りて来てくれという合図である。クラフトワークは下に降りる。
「ごめん。パパが忘れ物したみたいで。」
そう言って封筒を差し出してくる。
「会社まで持って行ってくれない?」
「分かった。」
これが初めてではないので、クラフトワークにも勝手が分かっていた。
「ありがとう。今朝忘れ物無いって言ったばかりなのに。」
ははは、とクラフトワークは愛想笑いを浮かべて誤魔化す。
「じゃあ、行ってきます。」
電車で駅二つ行ったところにある会社まで行くのは確かに面倒な事ではあったが、これはこれで暇つぶしになってちょうどいいとクラフトワークは思った。家にいてもやることは限られている。
平日に小学生が学校に行かず歩いているのは珍しいらしく、ことあるごとにクラフトワークは主婦の視線を浴びた。駅に着き、切符を買おうとするが、高いところにあり、切符を購入するのは一苦労だった。駅員に助けられなかっただけ、クラフトワークの誇りは守られた。
会社は二駅先の駅からそれほど離れていない、小さな会社だった。会社の近くまでクラフトワークが来た時、会社の前に止まっている車を見てクラフトワークは眉をしかめる。車には大日本技研とペイントされていた。
「本日はわざわざ弊社までお越しいただきありがとうございました。」
聞き覚えのある声がしたので、クラフトワークは会社の前で待っていた。すぐに、スーツの男とパパが出てくる。両方とも平均的なサラリーマンといういで立ちであった。
「受注の件よろしくお願い致しますね。」
男はそのまま大日本技研の車に乗って去る。
「パパ。」
「うん?」
クラフトワークに気付いていなかったようで、パパは少し驚いていた。クラフトワークは封筒を差し出す。
「おお、しーちゃん。助かったよ。午後から必要でね。」
「大日本技研とパパのところはどんな関係なの。」
仕事中に悪いかと思ったがクラフトワークはパパに聞く。
「いやあ、新規のお客さんで、大量のメモリが欲しいとおっしゃっててね。」
「パパはそういうことをする仕事なんだね。」
「そうなんだ。今回は棚から牡丹餅ってやつだね。ホント大日本技研さんには感謝してもしきれないよ。」
「これから大変になるね。」
「いやあ、俺は仕事をとってくるだけだから、大変なのは他の奴らさ。」
ははは、とパパは笑った。そして、クラフトワークが気が済んだと見るや否や、会社に戻っていく。クラフトワークはどうして小さな会社に大量のメモリを受注したのか不思議であったが、パパには関係ない事なので、言わないでおいた。少し不穏な臭いをクラフトワークはかぎ取った。
「パパ、どうだった?」
「助かったって。」
昼食時、ママは聞いた。テーブルには炒飯が並べられている。昼は大抵炒飯であった。テレビは朝からずっと十一家殺しのニュースで持ち切りである。ここまで大々的にやると、他のニュースが目立たなくなってしまう。特に昼のワイドショーは扱うネタが少ない。少なく深くというのが尺稼ぎにはいいのは分かるのだが、クラフトワークは不満だった。わざわざ解説されなくとも八割方はわかるからである。それよりも他のニュースの印象が薄れてしまう方が問題ではないかとクラフトワークは思った。
「お昼からなんだけどね、おつかいに行ってきてくれないかしら。お小遣いはずむから。」
昼から雲行きが怪しくなってきているのをクラフトワークは感じていた。洗濯物が心配で家から離れられないのだろうとクラフトワークは予想する。
「分かった。」
居候の身に、一家の権力者に抗う術も道理もない。
「もう少しゆっくりしてからでいいから。」
本を少し読んだら出かけようとクラフトワークは思った。はなが帰ってくる前に行かなければ、はなが行かされることになり、気の毒である。小学生にしてニートの身のクラフトワークはしっかりと学校に行っているはなの身を案じた。
クラフトワークは食事の後、本を広げる。新聞は隅々まで読んでしまった。本は小学生が読むようなものではなかった。坂口安吾の堕落論。クラフトワークは坂口安吾に感心していた。無頼派と言われる坂口安吾であるが、視点が偏らず独自のものなのでそう呼ばれただけなのだろうとクラフトワークは予想した。坂口安吾は自分から無頼派を称するというよりは、案外気ままに自分の意見を書いていたらいつの間にかそう呼ばれていたように感じた。その考え方が現代に即しているのもクラフトワークには驚きである。
きりのいいところでクラフトワークは本を閉じる。そろそろ出かけようとクラフトワークは思った。
クラフトワークはこの町に随分と慣れた。クラフトワークの仕事は主にお使いであったから、なおさらである。はなよりはこの町に詳しいぞと自負していた。
「しーちゃん、いらっしゃい。」
八百屋の親父がクラフトワークに声をかけた。
「こんにちは。おやっさん。その後、どうだい?」
「いやあ、ピンピンしてるよ。今日は何を?」
「ピーマン、玉ねぎ、ニンジン。あと、ネギも必要かな。」
「ま、ゆっくり見ていってくれ。」
野菜の目利きはクラフトワークに一任されていた。
「うん。どれもいい品だ。ピーマン五つ、玉ねぎ三つ、ニンジン四本。青ネギ三本。ちょうだい。」
クラフトワークが買い物かごを八百屋の親父に渡そうとした時であった。
「しーちゃん、どうしたの、こんなところで。」
はなの声だった。クラフトワークは元来はなを運動神経のないどんくさい女だと思っていたから、いつの間にか背後に回られ、頭を撫でまわされたとき、戦慄が走った。己の未熟さを思い知らされる結果であった。
「やめろよ、はな。やめろって。」
クラフトワークはひどく苛立っていた。それはお門違いであるのは判ってはいるのだが、はなに当たってもいいと思いながら買い物かごを振り回す。すると、天性の運の悪さではなは顔面に買い物かごをぶちあてる。まるで自分から買い物かごに当たっていったようにクラフトワークには見えた。はなはクラフトワークから離れる。
「ママにおつかいを頼まれたんだよ。」
少し申し訳なかったなという気持ちでクラフトワークははなを見る。はなは何とも思っていないらしく、真っ直ぐな眼差しでクラフトワークを見つめる。
「外に出ても大丈夫なの?」
「まあ、ちょっとくらいは大丈夫だろ。」
他人の心配より自分の心配をしろよ、とクラフトワークは呆れた。
「ねえ、しーちゃん。手伝ってあげようか。」
クラフトワークははなの犯した数々の失敗をダイジェストのように思い出していた。その失敗は数知れないが、全てクラフトワークを思いやった結果であることもクラフトワークは十分に理解していた。
「いらない。はな、買い物かご、ひっくり返すだろう。」
「ひっどい。」
「俺は覚えてるぞ。先週トマトを転がして、商店街のみんなで探したのを。」
八百屋の親父は嬉々として笑う。
「な?」
クラフトワークはつい、はなをからかってしまう。渡した買い物かごを八百屋から受け取る。
「でも、しーちゃんすごいね。メモなしにおつかいできちゃうんだもん。」
「何を作るか予想出来れば覚えるのは簡単。」
昨日の買い物と総合すると、青椒肉絲と冷奴だろう。ママに組み合わせという概念は存在しない。流石ははなの親だな、とクラフトワークは思っていた。
「今日なに作るのかな・・・あ、答え言わないでね。」
買い物かごのピーマンは見えていなかったらしい。クラフトワークは、はなが苦手なピーマンを見ると幼稚な手を使ってピーマンを持ち帰ることを阻止しようとすることを知っているので、安心する。幼稚な手とは主に泣き落としであるが。
「はな?こんなところで何してるんだ?」
はなとクラフトワークの前に金髪の背の低い男が現れる。男子の制服を着ているからかろうじて男だと分かる。
「うん?慶くんこそ。」
「いや、俺は暇つぶしに本屋で立ち読みしててね。そっちの子ははなの子ども?」
クラフトワークは慶の自分を物色するような目つきに気がついていた。クラフトワークは慶の正体をあらかた見抜き、物色するほどでもないから、気付かないふりをする。
「しーちゃんって言って、いとこなの。今、うちで預かってる。」
「クラフト・ワーク・クラフトワークだ。」
クラフトワークは言った。しーちゃんという呼び方は嫌いではないが、幼稚な気がして嫌であった。殊に自分より幼稚であるはなに対してはあまり下に見られたくはなかったのだ。
「どうしてしーちゃん?」
「C.W.クラフトワークと書くからです。」
クラフトワークは慶の様子を深く観察する。しかし、大した変化はない事から、無害であると判断した。慶とはなはクラフトワークをそっちのけで二言三言会話をして別れた。クラフトワークは少し、ほんの少しだけ不満であった。
「そういえば、みんなにしーちゃんのことを紹介しないとね。」
何気ない言葉が人を傷つける。クラフトワークは胸の痛みを感じた。それが何の故かクラフトワークには分からない。
「あまり知られるのは好ましくない。」
「そうだったね。」
はなの声はらしくなく少し落ち込んでいた。気を使わせたのだとクラフトワークは気付く。詳しくははなにも話していないが、はなでも何かが起こったのだろうと分かるくらいの出来事だった。それは、クラフトワークとはなが初めて出会った日のこと――
その日は土砂降りの雨だった。それはクラフトワークには好都合だった。追手を誤魔化すことができる。クラフトワークは並みの人間より頑丈にできている。そのクラフトワークでも、雨の中何時間も逃げていると体力は限界になる。体温がそがれ、頭の中に脈音が響く。凍えて足は動きそうにない。やっとのことで近くの空き地の土管の中に入り込んだ。これで雨水はしのげる。しかし、衣服は濡れ、体温を削っていく。空腹で熱を生成できない。
ああ、死ぬな。
クラフトワークは状況を整理してそう結論付けた。死にたくなくて逃げたのに、結局は死ぬのか――死体が残るくらいなら殺されておいた方が良かったとクラフトワークが思っていたときである。何ものかが土管を覗いているようだった。目がかすんで誰なのかは分からなかったが追手ではないことは確かである。追手であればクラフトワークをすぐに殺していたであろうから――
「ねえ、君。大丈夫?名前は?お家はどこ?声聞こえる?」
聞こえてはいるが言葉を返すことができなかった。あどけない少女の声。だが、その声はクラフトワークが聞いたうちで一番真剣な響きを持っていた。
「病院に連れて行かないと――でも、どっちか分からないし、電話もない。家に連れて行くしかない。」
少女はクラフトワークを無理矢理負ぶって歩き出す。ひどく覚束ない足取りだった。いけない、とクラフトワークは思い、声を出そうとするがやはりでない。このままでは無関係の人も巻き込んでしまう。
クラフトワークは少女の背中から体温を感じる。人の体はこんなに温かかったのか、いや、これは自分の体温が低いからだ――そしてクラフトワークは気付く。自分は一度も人の温もりを感じたことがなかったことに。
気がつくとそこには木の天井があった。少女の家なのだろう。体は布団に包まれているがまだ震えが収まらない。目だけをギョロリと動かすとそこには少女の姿があった。少女は寝ているクラフトワークの傍らで座りながら寝ていた。口からよだれが出ている。初め、クラフトワークは少女が毒物でも盛られたのかと思ったが、呼吸が安定していることから、信じられないことに寝ているという結論に至った。クラフトワークは早く去りたいとは考えていたが体が言うこと聞かない。
「あれ?君、起きたの?」
ふにゃふにゃと少女は言う。
「救急車呼んだからね。」
「ダメだ。医者はダメ。」
震えながらクラフトワークは言う。
「でも、君、死んじゃう。」
「死なない。だから、ダメ。」
それはクラフトワークのわがままだった。医者に行けばこの家より自分が危険にさらされる可能性が高い。
「はな。お医者さんが来たわよ。」
遠くから声が聞こえる。少女を呼んでいるようだった。少女は立ち上がり、クラフトワークをもう一度見る。クラフトワークはその時自分はどのような顔をしていたのか時折想像してみる。きっとひどい顔だったのだろう。顔は蒼白で、震えていて、表情もなく、そして、目は怯えていたに違いない。何故なら、クラフトワークを見つめるはなの目は決意に満ちていたからである。はなは部屋から出て行く。階段を降りるような音が聞こえた後、少女の声はこう言っていた。
「来てもらってごめんなさい。でも、お医者さんはいらないって。」
「何言ってるの。あんな死にそうな顔してたのに。」
「大丈夫。」
「全然大丈夫じゃないわよ。」
言い争いをしているのは少女と医者ではないようだった。少女を呼んだ声と少女が言い争っている。ママも頑固だが、この時のはなは決して引かなかった。いつもは負けるのに、この時だけははなは負けなかった。きっと涙を流していたけど必死で食いしばったのだと今のクラフトワークには分かる。
そして、終いには医者も帰ってしまった。誰かのために立ち向かうはなには言い知れぬ迫力のようなものがあり、ママはそれに圧倒されたに違いなかった。口論が終わった後しばらくして少女はクラフトワークのいる部屋に戻ってきた。まだ体の震えは止まらないが、クラフトワークはとても安らかだった。
こんなにもあったかいんだ。人の作る温もりは。
「大丈夫?」
クラフトワークはこのとき言うべき言葉があった。クラフトワークはその言葉を言ったことがなかったので、恥ずかしくて言えなかった。そのことに未だクラフトワークは後悔している。
「君の名前は?私は花田はな14才。」
クラフトワークは考えてからこう答えた。
「C.W.クラフトワーク。」
「ねえ、私はなにになったらいいんだと思う?」
はなは部屋に入るなりクラフトワークに抱きつく。背中に柔らかい感触が伝わりクラフトワークはドキリとする。クラフトワークはわざと突き放すように「パパとママに聞いてみれば?」と答える。はなはでろんと畳の上に転がる。クラフトワークは少し名残惜しかったなど口が裂けても言えないと思った。
「いつも自分のなりたいものになりなさい、としか言わないんだもん。」
はなはぶーたれた。
「じゃあ、なりたいものになればいいじゃん。」
なりたいものになれるだけ幸せであることをはなは知らないのだとクラフトワークは思う。
「だってー、なりたいものとかないし。」
「じゃあ、探してみれば?ほら、大統領とか、大根おろしとか、さ。」
「そんなのなれないよ。」
どうも深刻らしい。いつもなら大統領と大根おろしになる、と高らかに宣言するところなのだ。
「君の悪いところはそうやって始めっからなれっこないと考えることろだよ。はな。一度、なれるかなれないかを考えないで何になりたいのかを探してごらん。できるできないじゃなくて、全部できる、って考えてさ。」
はなは胡坐をかき、腕を組んで考える。
「うん・・・やっぱりないかな。」
「子どものころ夢とかなかったの?」
「はな、現実的な子だから。」
「嘘つけ。」
「あるとすれば、お嫁さんかな。テレビとかで綺麗なドレス来てて、キスする前とか、とってもかわいくて綺麗だし。教会も素敵よね。よく静ちゃんと見に行ってたな。」
「じゃあ、結婚式場で働くとかにすればいいんじゃない?」
例え何年経っても俺ははなと式場に立つことはできない、とクラフトワークは諦めきれない思いを無理矢理に押し込める。
「でも、何か違うんだよね。」
うーん、とはなは髪を乱暴に掻き、ぼさぼさにする。
「そもそも、まだ中学生なのに将来について決めさせるのが間違ってるんだよ!日本の教育はおかしい。」
「あっ、そ。」
クラフトワークは押し入れに入る。そこはクラフトワーク専用のベッドであった。押し入れの中に布団を敷いただけの代物である。
はなの将来の問題ははな自身が考えて答えを出す必要があるとクラフトワークは思った。それ故に押し入れの中に入った。しばらくした後、クラフトワークが押し入れの中からこっそりとはなの様子を窺うと、畳の上で大の字になって寝ていた。その顔は初めて会った時の寝顔と一緒で、ひどくだらしのないものだった。
クラフトワークはこっそりとはなに毛布をかけてやった。
階下から呼び声が聞こえクラフトワークは目を覚ます。夕食のようであった。押し入れから出ると、案の定はなはまだ寝ていた。
「ごはんだよ、はな。」
クラフトワークは大分強い力ではなを揺さぶる。
「しーちゃん、おはよう。」
「空は真っ暗だ。」
思わずクラフトワークは鼻で笑ってしまった。
「涎垂れてる。」
「ありがと。」
制服のワイシャツで涎を拭く。クラフトワークは涎は芸人の宝石であることを思い出す。
『私は宝石になりたかったの。輝く宝石に。』
どこからかそんな声が聞こえてくる気がした。どこかで聞いたような女の声。それはとても遠い遠い場所――
「年頃の乙女がだらしない。」
「ママみたいなことを言わないの。」
実はママも大概なのだということはママの名誉のために黙っておく。
「制服、着替えて来なさい。」
階段を下りて居間に入るなりママははなに言う。はなは怒った顔をしながら、梁にかけてあるハンガーにブレザーをかける。そろそろアイロンをかけどきだとクラフトワークは思った。
「ほんと、このものぐさ。誰に似たのかしら。」
「僕の方を見るなよ・・・」
パパはタバコの火を灰皿に押し消し、読んでいた新聞を荒っぽく畳む。
「しーちゃん、今日なにかニュースはあったか?」
パパがクラフトワークに聞くのは日課になっていた。サラリーマンには情報が武器である故だろう。
「パパの会社に関することは特には。あ、パパの会社、株価下がってたよ。」
「マジで?」
「パパの取引先の大日本技研だっけ?そこは伸びてた。」
「うーん、複雑。」
確かに複雑だとクラフトワークは思った。
「しーちゃんは頭がいいのね。」
ママは席について言う。その言葉はクラフトワークにおいては皮肉以外の何者でもないのだが、ママは何も知らない。
「ふんっ。」
はなは不機嫌であった。
「ママ。」
「なに?」
「はな、明後日家庭訪問があるんだってさ。」
はなは食べていたご飯を噴き出す。白い粒はミサイルのように放物線を描き、パパの顔面を爆撃した。
「あらー、それは急ね。どういう用件なのかしら。希望用紙も出さずに家庭訪問だなんて、穏やかじゃないわね。」
ママは早口に言う。クラフトワークはママの怒りが臨界点に達したことを悟る。クラフトワークには悪気がない。こののままだと、はなは言いだすタイミングを損なうと考えたのだった。はながすっかり忘れているという可能性も拭い捨てられなかったゆえである。秘密にするなら畳の上にプリントをほったらかしにしないで欲しい、とクラフトワークは心の中で自分には不備がないと弁護し、責任を逃れる。
「進路・・・決まってないから・・・」
か細い声ではなが言うので、クラフトワークは申し訳なく思った。たとえはなのためであっても心苦しい。
「あら、まだ決まってないの?今年受験でしょ?早く決めて勉強しないと。寝てばかりいては合格できないわよ。他のみんなはどこに行くって言ってるの?静ちゃんは?」
「静ちゃんは鳳学園に行くって言ってた。」
「まあ、さすが静ちゃんね。はな。あなたも鳳学園に行きなさい。もし勉強が難しいなら塾に通わせてあげるから。でも、通うからには絶対に合格しなさいね。」
長い間沈黙が続いた。クラフトワークははなが泣き出すのではないかと気が気ではなかった。はなが何の疑問を持たずピーマンを食べているところを見ると、相当に動揺しているようだった。すると、ターゲットはクラフトワークになった。
「しーちゃんはもう学校に行ける?」
クラフトワークはかつては学校に行っていた。だが、不幸であった。
「ごめん、ママ。」
少し涙声になっていることに気が付き、らしくないな、とクラフトワークは自分でそう思った。
「そ、そうよね。無理しない方がいいわ。あんなことがあったんだし。ゆっくり。そう。ゆっくりでいいのよ。」
クラフトワークはママになんて言い訳をしたのか忘れていた。恐らく両親が事故に遭ったとかそういう話であった気がする。
「パパ。今日回覧板をお隣さんに渡してきてって頼んだのに忘れちゃったじゃない。私が持っていったのよ。今日ゴミ出しで忙しかったのに。」
どうもママはカバンのことを忘れているようだった。ママがパパにゴミ出しを頼んでいないことなどクラフトワーク以外に覚えている人間はいない。
「髪濡れてるから引っ付くなって。」
風呂から上がったはなは部屋にいるクラフトワークに飛びつく。肌の焼けるような熱さと甘いシャンプーの匂いにクラフトワークはめまいがする。
「これから乾かすんだもん。」
はなはドライヤーを髪にあてる。そんな乱雑な当て方では髪が痛む、とクラフトワークは顔をしかめる。
「さ、一緒に寝よ?」
「嫌だよ。」
とてつもなくいかがわしき言葉であるが、小学生と中学生である。
「ダメ。」
力では到底はなには敵わず、クラフトワークは布団に押し倒される。小学生と中学生である。
「さ、今日は新しいお話。」
布団の中で話して聞かされるのは日課であった。それはクラフトワークにとって不満でしかない。
「囚われの姫と王子様のお話。」
中学生がそんな話をして恥ずかしくないのかとクラフトワークは思う。クラフトワークの方が恥ずかしくなってしまった。
「昔昔、あるところに、とてもきれいなお姫様がいました。」
「昔っていつ?あるところってどこ?綺麗ってどれくらい?」
自分が不機嫌であるのがクラフトワークには分かった。だが、はなは気にしない。気付いてさえいないのだろう。
「うーん、鎌倉時代?イギリス?綺麗ってこれくらい?」
掌三つ分ほどであった。三十センチほどか。
「そのくらいじゃブスじゃん。」
「モデルくらい綺麗なの。」
「じゃあ、そのくらいで許しておこう。」
「鎌倉時代、イギリスにモデルくらい綺麗なお姫様がいました。」
「聞いてると気持ちが悪くなるな。」
「もう、しーちゃんが言ったんでしょ。」
すでにクラフトワークが頭に描ける描写の範囲を超えていた。
「お姫様はある日、竜にさらわれてしまいました。」
「唐突だなあ、おい。」
「それを知った許婚の隣国の王子は姫を助けに行くことにしました。」
「隣国ってどこだ?スペインか?」
「ううん。アメリカ。」
クラフトワークは、確かに隣国か、その頃だと先住民の王子になるな、まだコロンブスも到達してない、とひとりごちに呟いていた。
「王子様のおじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に――」
「王子様のおじいさんおばあさんは王族じゃないのかよ。ガーデニングが趣味?」
すうすう、と耳元に吐息がかかる。女の子らしい寝息にクラフトワークはどぎまぎする。
「なんだ、寝たのかよ。」
クラフトワークははなを起こさないようにそっと布団を抜け出し、押し入れの中にある自分の布団で眠った。
クラフトワークは目を覚ます。それはひどく嫌な夢だった。恐怖で呼吸が荒くなっている。少し気持ちを落ち着けようと、クラフトワークは散歩をすることにした。押し入れから靴を持ってくる。こっそりと足音を立てないようにはなの傍を通り、窓を開ける。その時にしたがらりという音と、吹き込んできた風に、クラフトワークはどきりとしたが、はなは静かに吐息を立てている。クラフトワークはほっとして、窓の外から屋根に上る。そして外側から静かに窓の戸を閉め、窓のヘリを、丁度その裏側には鍵が点いている場所を指さす。そして、下から上へ外側に弧を描き指を動かす。きりきりという鉄の擦れる音がした。クラフトワークは屋根の上で靴を履き、そのまま屋根の外へ歩き出した。当然、屋根の外は、何もない空中である。だが、クラフトワークは空中を歩いていた。それは簡単に言うなら超能力――
遮蔽物がない故に高所は風が吹き付ける。雲に覆われた空の下の風は不気味であった。月のない空。それはクラフトワークにとっては安らぐことだった。月の不安定さは、満ち欠けし自らで光れない惨めさは、クラフトワークを心細くする。クラフトワークは風の香りから感じ取る。花も閉じ、冷たく無機質になった風から匂う、生命の散る臭い。それは普通の人間には異臭にしか感じない。幾多の生物の匂い。だが、クラフトワークのような、シャーロックホームズのような人間には分かる、臭い。大方の方向さえ分かれば、クラフトワークには充分であった。クラフトワークは階段を駆け上がるように上空へと上がる。そして、ぴょんぴょんと飛ぶように移動する。慣れないうちは大変だった。その慣れないうちの記憶はクラフトワークの忘れてしまいたい過去の一部。
『人という生き物は自身が進化する代わりにその体の代替物、すなわち道具を発達させてきた。しかし、他の生き物を見てみたまえ。人が文明を築き、環境を破壊し、多くの建造物を建てた。その中で肉体を大きく変化させてきた。進化だ。進化の定義としては代を重ねるごとにより環境に適合した肉体に改良していくこと。虫などは進化が著しい。十年前と今とでは大分肉体が進化している。もう別種と言っていいほどだ。そして、寿命が長い人間は進化の度合いが低い――だが、他の生物と同じく進化する可能性を存分に備えている。人は人でない者になることを畏れて無意識に道具を進化させたに過ぎないのだ。だから、人を進化させれば――』
臭わなくても十分であった。路上にできた大きな水たまり。その水たまりの中に美しい美術品のように人が一人倒れている。こと切れた人形のように、それは生命の躍動を失っていた。死骸は男で、湿ったスーツの胸の辺りから肋骨が見え隠れしていた。クラフトワークは辺りを見渡し、また上へ上って、周囲に何者かいないかを確認する。
「俺の領分だな。」
血の乾きようから、一時間前にはこときれていたことは確実である。と、遠くから自転車の明かりが死体に向かっていく。自転車の運転手は自転車を降りて驚き、腰を抜かし、無線で連絡した。警官のようであった。クラフトワークはその様子を眺めていたが、その内、諦める。近くに犯人がいたのなら警官を襲っていると思ったからである。
「失敗作か。」
クラフトワークはハミングをしながらはなの家に戻っていった。
慌ただしい朝が終わって、クラフトワークは新聞を読んでいた。昨夜のことは載っていない。クラフトワークは図書館で情報を集めることにした。花田家にネット環境と言えるものはないに等しい。スマホをクラフトワークは持っていないし、パソコンもパパの仕事用なので、使わせてはもらえない。そして、昨夜のことだけに関しては、ネットでも確かな情報は載っているとは思えなかった。
図書館へと向かう途中、クラフトワークは死体のあった通りを覗いてみることにした。案の定、通りは封鎖されている。中を窺い知ることはできなかった。通りを見張っているスーツ姿の男が不真面目に煙草を吸っていた。身なりから刑事であることは分かる。クラフトワークは刑事に近づく。
「おじさーん。」
甘ったるい声で刑事に声をかける。
「わあっ。」
大袈裟に驚いてみせた後、刑事はクラフトワークを覗き込む。
「なんだい、僕?」
「ここで何があったの?」
「怖い事件が起こったんだ。だから、近づいちゃダメだ。」
「怖いよう。怖い人は捕まったの?」
「うん。もうすぐ捕まえるから、安心してね。ところで、僕。学校は?」
クラフトワークは興味を失ったように刑事に背を向け、その場を後にした。刑事は狐につままれたような顔をしていた。
「今日もいっぱい借りたね。」
「ええ。」
図書館の司書に簡単に答えたのち、クラフトワークは図書館を後にする。図書館で長い間時間を潰していたので、もう昼過ぎになっていた。ママに文句を言われるだろうなとクラフトワークは照り付ける日光の元感じた。白く分厚い雲が綿菓子のように青い空の海に浮かんでいた。この町に起きている不穏な兆しさえなければ、気持ちのいい空なのだろうとクラフトワークは思った。
「絶対にいるんだもん。」
空地から子どもの声が聞こえる。学校が終わった後の小学生達だろう。普段のクラフトワークなら気にも留めないのだろうが、その空地はクラフトワークとはなが出会った場所なので、少し興味を持つ。
「昨日の夜、空を子どもが歩いてたんだって。」
その言葉にクラフトワークは大きく身震いをする。
「そんなわけないだろ。」
「寝ぼけてたんだよ。」
周りの友達は否定する。クラフトワークは目立たないように通り抜けていこうとした。
「あ、あの子だよ。魔法使いさん。」
少女は声を張り上げて言った。クラフトワークは逃げようと思ったが、それよりもいい方法があることに気がつく。逃げ去ればあまりいい印象は与えない。クラフトワークはなるべく大胆に空地へと入って行く。
「おい、お前。見ない顔だな。」
小学校となると大抵の顔は見覚えがあるのだろう。ガキ大将のような身なりの、体の大きい男児が言った。
「空を飛べるんだって?」
どうも三人ほどの児童が一人の女児をからかっていたらしい。そのことについてクラフトワークは特に憤りを感じることはなかった。クラフトワークには正義感のようなものはない。クラフトワークはただ黙って三人を見つめていた。ガキ大将は返事をしないことに苛立っているらしかった。
「おい。なんとか言えよ。」
ガキ大将はクラフトワークの胸倉をつかむ。クラフトワークは無言で動じない。ガキ大将は女児の方へクラフトワークを投げる。殴ったりしないだけ、今の児童は心得ているとクラフトワークは感じた。
「こんなヘタレが魔法使いだって?笑わせるな。」
ケンカになりそうもない事を察すると、ガキ大将は空き地から去っていった。その背中はちょっとした怒りとやるせなさと残念な感情が入り混じっているようにクラフトワークには思えた。
「大丈夫?」
女児はクラフトワークに駆け寄る。クラフトワークは何事なかったように身を起こす。
「こんなヤツが魔法使いなわけがないだろ。」
「バカ。」
女児は涙を流しながら、怒った顔で去っていった。女児が近づいたときに、持っていた本が目に入った。『オズの魔法使い』であった。クラフトワークは悪いことをしたな、と思った。きっとこれから彼女は嘘つきと言われ続けるだろう。怒るのも当然に思えた。
帰ってきて、ママは無言だった。クラフトワークも無言で冷めた炒飯を食べる。その間、クラフトワークは女児のことを考えていた。そもそも事の発端はクラフトワークの不注意である。見られる可能性など考えていなかった。一々真夜中に夜空を確認する人間などいないと思っていたからである。だが、起こってしまった。対策はあるにはあるのだが、クラフトワークは乗り気がしなかった。それは、クラフトワークの辛い過去に起因するゆえである。
考えても始まらない。こういう時はぱっと遊んでしまうに限る。あまり家の外に出るのはいいことではないと思いながらも、クラフトワークは出かけることにした。昨日、お小遣いをもらったので、そこそこ財布は潤っている。使わない手はない。
田舎にある小さなゲームセンターにクラフトワークは来ていた。レンタルビデオ店と書店がひっついたゲームセンター。その自動ドアをくぐると、目の前で男女が痴話げんかをしていた。邪魔であることもさながら、今のクラフトワークは機嫌が悪かった。
「通行の邪魔なんだけど。」
見上げてみた顔にクラフトワークは覚えがあった。昨日はなと話していた、ライトニング家の者だった。
「しーちゃん、だったっけ。」
名前は確か、慶だったか、とクラフトワークは思い出す。
「なんだこのくそがきゃあ。」
突然、クラフトワークに向かって女が蹴りを入れようとする。クラフトワークの顔面に足の裏を向けて踏み潰そうとしているようだった。その攻撃は素人もいいところで、軽く身を躱せば、相手はバランスを崩すだろうとは分かっていた。だが、クラフトワークはこの時、自分の中からなにかが這いずり回ってくる感覚を得た。どうして俺はバカ呼ばわりされなければならない!クラフトワークが女児に会ってずっと感じていたわだかまりの正体は女児に対する怒りだった。その怒りが時限式爆弾のように今さらになって爆発した。
「な、なんだこれは。」
怒りながらもクラフトワークは冷静であった。女の足を手で持っているように装う。下靴を手で持つ気はしない。クラフトワークは女の体の動かし方を見る。体を後ろに動かし、固まった足を抜こうとしている。運が良かったな、とクラフトワークは思った。
「か、体が動かねえ。」
「そろそろか。」
女性ゆえに体の重さもなく、力は弱かった。だから、後ろ向きに倒れ、頭を軽く打つ程度で収まった。
「お、覚えてろよ。」
クラフトワークはすっきりとした気持ちでゲームの筐体へ向かう。と、慶がクラフトワークについていくので、鬱陶しく思った。
「いや、しーちゃん。ありがとな。」
「君は本当に軽いヤツだな。」
クラフトワークは慶の軽薄な態度がどうにも許せなかった。
「いやあ、しーちゃんにお礼がしたくてさ。ほら、百円あげるよ。」
クラフトワークは慶から百円玉を分捕る。そこで、クラフトワークは悪魔的な企みを思いつく。
「慶。もし君が本当にお礼がしたいなら、このゲームやってみろよ。」
女児向けアーケードゲームをクラフトワークは指さす。
「いや。無理です。」
肝の小さなヤツ、と蔑む心よりも、寂寥の風がクラフトワークに吹き付けていることに彼自身気がついていなかった。自分でも気がついていないのだから、慶を誘った理由が、実は仲間が欲しかったからということに地球上の誰も気付かずじまいであった。
クラフトワークがプレイしている間、慶はつまらなさそうにしながら、時折、クラフトワークのプレイを見て時間を潰していた。目障りであったが、一々指摘するのもクラフトワークは面倒であった。プレイが終わって帰ろうとすると、慶も同じ様にクラフトワークの後ろをついてきた。
「どうして一人で帰らないんだ?」
苛立ってクラフトワークが聞いた。
「だってね、そりゃあ。報復とか怖いし。」
恐らく、慶がまいた種なのだろうとクラフトワークは予測する。
「でも、しーちゃんってば力持ちなんだね。」
「力など、あったところで嬉しくとも何ともない。」
クラフトワークは自分の力を疎んでいた。誰も幸せにできないどころか、不幸を呼ぶ、普通とは合い慣れない能力――
「慶はお気楽だ。あまりに人のことを考えない。そして、はなと違って決して素直ではない。意気地もない。」
言葉を発するたび、体のどこかがしびれるような感覚がクラフトワークを襲っていた。慶を罵倒しているのと同時に、自分を貶めているからであった。
「しーちゃんとはなはいとこかなんか?」
急に話をすり替えられたので、クラフトワークは拍子抜けした。自分を責めていることに気付かれたのかとクラフトワークは焦った。
「全く関係ないよ。俺とはなは。何の関係も無い。」
いつかははなの傍から消えなければならないだろう。もうそろそろ潮時かもしれないとクラフトワークは考えていた。
今日のはなは早く寝た。それは好都合であった。クラフトワークは昨夜よりは早いと思われる時間に同じように屋根から出る。はなの身の危険を考えて、しっかりと外側から鍵をかけた。
クラフトワークは本を読んだ。大日本技研についてである。大日本技研は鳳財閥、つまり、鳳学園とは全くの無関係であった。それがおかしいとクラフトワークは疑問に思う。パパのコンピュータの配達先は、鳳学園になるだろう。クラフトワークは鳳学園では多くの演算装置が必要となっているのを知っている。それが普通の使われ方でなく、別の機会のパーツとして分解され組み込まれるであろうことも簡単に予想できた。鳳財閥はどこかに目を付けられている可能性は高いとクラフトワークは感じる。だが、それと今回の事件とは関係が無いようだった。鳳学園も把握しきれていない落第生の暴走という可能性が高い。それはクラフトワークにとって、最悪な状況と言えた。犯人は無差別に人を襲うだろう。情報が圧倒的に少なかった。
クラフトワークは昨夜と同じ身なり、つまり、パジャマで空中歩行していた。決心がつかなかったのと、注意さえしていればばれることはない。女児の家を調べておけば、もっと簡単だったと後になって気がついたが、遅い。クラフトワークは家へ帰った後、はなの部屋で『オズの魔法使い』を見つけて読んだ。女児の考えていることがよく分からなくなった。彼女はまだ最後まで読んでいないに違いない。
湯冷めして、体が冷える。犯人を視認できる高さまで降り、場所を転々とし見回るが、手がかりはない。夜に走っているのは自動車くらいである。犯人が今日ことを起こすかどうかはクラフトワークには分からなかった。敵の正体は計り知れない。この町でまた殺人をするかも分からない。クラフトワークはこの町以外での事件に関わるつもりはなかった。クラフトワークの目的は、はなを守ることにある――
腹が痛くなった。冷やしてしまったらしい。普通の人間より丈夫に作られているクラフトワークでも、限界であるようだった。急いで家に帰り、用をたす。自分に何事も起こらない、と言い聞かせながらも、胸騒ぎは収まらないようだった。
朝早く起き、はなを起こしたクラフトワークは朝食を食べるため、階下へ降りた。いつものパンの香りと、誰も欠けていない安心感でクラフトワークは満たされた。
「おはよう。」
「おはよう、二人とも。」
パパが言った。クラフトワークは大日本技研のことを思い出し、パパに聞き出そうかと思ったが、パパを危険に巻き込むかもしれないと思い、黙っておくことにした。はなも寝ぼけ眼でテーブルにつく。
「ねえ。聞いた?」
ママが不安そうな顔で話しを切り出す。
「この近くで殺人事件が起こったって。」
「それ、誰から聞いたの?」
クラフトワークは思わずママを問い詰めていた。
「静樹さんから。」
クラフトワークは静の家が警官であることを知っていた。そのような話をするということは、犯人がまだ捕まっていないということである。
「静ちゃんとこ?そういえば、昨日そんなこと言ってたかも。」
はなが大きな欠伸をして言った。
「それがね、どうも異常殺人者らしいの。サイコパスって言うのかしら。」
「やめないか。」
パパが新聞から目を離して言う。
「食事中だ。」
「だから、気を付けてね。今日も授業はお昼までだからいいけど、夜道には気を付けて。」
ママは心配そうに言った。クラフトワークは大事な聖域を汚されたような憤りを感じていた。
はながいつもと同じく慌ただしく家を去ってから、クラフトワークは家を出て歩き出した。なにか異変がないかと探す必要もなかった。出来ている人だかりから、そこで何かが起こったことは見て取れたからである。その場所はクラフトワークの記憶が正しければ、空き地で会った。クラフトワークとはなが出会った場所である。今やそこには青いブルーシートがかけられており、中の様子を窺い知ることはできそうにもなかった。近所の主婦たちが心配そうに話しあっている。言葉言葉から聞こえてくる情報は、「体が抉られていた。」だの、「化け物が殺した。」という話であった。クラフトワークは断定は難しいものの、同一の犯人であると考えた。まるで犯人は血の味を覚えてしまった人飼い虎のようだと思った。
と、主婦たちに紛れて、赤いランドセルが見える。ふと気になってクラフトワークは誰なのかと確かめようと視線を移動させると、ランドセルの人物と視線がかち合った。それはいつぞやの女児であった。クラフトワークは目を背けて知らんぷりをしようかと考えたが、時、既に遅し。
「まほちゃん。昨日、大丈夫だった?痛くなかった?」
「どうして怒らないんだ。昨日、あんなに怒っていたのに。」
言葉だけの言葉と誠意を持った言葉の違いをクラフトワークはよく分かっていた。女児が言ったのが後者であることが分かって、クラフトワークは腹立たしかった。
「なんで怒るの?」
「俺はお前のプライドを踏みにじった。だから怒ったのだろう。今さら親し気に声をかけられる筋合いはない。」
「だって、まほちゃんがバカなんだもん。」
「どこがバカだ。」
「わざと負けた。」
「わざとじゃない。」
「わざとだ。お前、その本全部読んだことあるのか。」
クラフトワークは女児の胸に抱きしめられている本を指さして言った。
「あるよ。」
「じゃあ、魔法使いなんていないってこと、わかるだろ。」
「バカ。」
「お前はバカとしかいえないのか。」
「私がまほちゃんをバカって言ってるのは、まほちゃんが自分から危ない目に遭おうとしたことだもん。魔法とかそういうのはどうだって良かった。まほちゃんがやられるのが嫌だったの。」
女児はそう言ってどこかへ走り去ってしまった。
「あの子、山崎さんところの椎ちゃんじゃない?」
「確か、お母さんが亡くなった――」
「お母さんがよく読んでくれた本を離さないって――」
主婦が去っていった女児について話しているのをクラフトワークは小耳にはさんだ。クラフトワークは、もう見えなくなった女児を見るようにして呟く。
「まほちゃんってなんだよ。」
クラフトワークは日中、読書をして過ごした。呑気に読書をしていられない気持ちはあったが、焦っても何も始まらないことはよく分かっていた。犯人を特定するための証拠が少なすぎた。あと数人殺されるのを待つしかないように思われた。その数人にはなたちが含まれてしまったら――そう思うと心が乱れ、時折本から目を離し、何も考えないようにして天井を眺めた。
「そうやって逃げていたって、時間はやってくるよ。」
机に向かっているはなにクラフトワークは言った。クラフトワークははなが所在なさげにノートに何かを書いていることに気がついていた。きっと、家庭訪問のことだろう。はなははなで、はた目から見れば大したことではないが、当の本人にとっては重要な課題にぶちあたっているのだと、クラフトワークは気が楽になった。
「けいおんのライブCDを聴くたびに日笠陽子について不安になるんだがどうしてだろうな。」
はなはクラフトワークの話を聞き流しているようだった。クラフトワークはイヤホンから聞こえてくる音楽に寂しく耳を傾けた。
「よし。できた。」
「なにが?」
「これ。」
はなはクラフトワークに紙を一枚見せる。そこには堂々と『猫耳の秘密について』と書かれていた。
「お前。バカ。だろ。」
「自分でも分かってるんだから、言わないでよ。意地悪。」
少しでも真面目に取り組んでいると考えた自分がバカだった、とクラフトワークは肩を下ろす。その時、階下からママの声が聞こえた。
「はな。先生がいらしたわよ。」
「うそっ。」
頑張って来いよ、とクラフトワークははなの後ろ姿を見送った。
クラフトワークは暗い部屋の中、神経を研ぎ澄ましていた。廊下から聞こえる会話はクラフトワークの耳元まで押し寄せる。だが、クラフトワークは耳には入れず、部屋を静寂のものとしようと心掛ける。闇が足音を忍ばせてクラフトワークに近づいた。それはクラフトワークに覆いかぶさろうとして――
クラフトワークは目を開く。闇は影も形もなくなっていた。そもそも、影も形もあるのか怪しい。何やら階下が騒がしかった。クラフトワークは全てを悟り、階下へと降りていく。玄関には金髪の少年、慶がいた。
「しーちゃんはどこにいる。」
クラフトワークを探しているようなので、クラフトワークは答える。
「俺に何か用か。」
慶は走ってきたかのように息を切らせていた。その必死さから、尋常ならざることが、異常な出来事が起こったのだと推測出来た。
「助けてほしいんだ。」
「よし。急ごう。」
決心はすぐについた。もう迷っている暇はない。クラフトワークは慶と急いで玄関を出た。だが、クラフトワークはすぐに立ち止まる。
「君はどちらに僕を案内しようとしている?」
「こっちだ。」
「じゃあ、君は反対側を行くんだ。」
どうして、と慶が言う前にクラフトワークは言葉を続ける。
「はなが体力切れを起こすと、すかさずはなのもとに戻るんだ。いいな。」
それは有無を言わさぬ口調であった。圧倒された慶は言う通りに、慶が来たのとは反対の方向へと向かって行った。クラフトワークはすかさず、空中に上る。そして、家まで戻ってきた。クラフトワークの足元から、はなが玄関を出て行ったのが見えた。はなは少し迷った後、慶の向かった方角へと走って行く。敵のいない方向へ。クラフトワークは屋根に上り、窓のカギを開け、押し入れに潜る。押し入れから取り出した衣装を見に纏った。それは、学芸会で使うような奇天烈な衣装で、全身が真っ黒のマントであった。筒のような帽子をかぶると、劇で出てくる道化の完成だった。クラフトワークはその衣装のまま夜空へと飛び出した。
弾丸のように宙を翔けたクラフトワークは敵と襲われている人物を見つけた。襲われている人物は片手にむしり取られたように変形した金属バットを持って怪物からあとじさりしていた。その化け物はいい得て妙で、化け物としか形容できそうもなかった。男は電信柱に背中をうちつけた。動きが止まるのを見計らって化け物が一本だけついている触手のようなものを男に向かって伸ばす。男の動きは大きな体に似合わず、俊敏だった。だが、触手の方が早く男の脇腹を捉えた。もう一刻の猶予もなかった。クラフトワークは重力に従い、真下へと降りていく。地面に降り立た時の勢いは成人男性でも骨折では済まないものであったが、クラフトワークは丈夫であり、無傷で着地した。マントが男の目の前で花開くようにたなびく。化け物の触手は男の目の前で『固定』されていた。
「君はよく頑張ったよ。」
クラフトワークと化け物との間はちょうど一メートル。能力の射程に入っていた。クラフトワークは男の傷口の血液と男の体とを『固定』する。そうすることで、出血を防ぐ。
「さあ、早くその化け物から退いてくれないか。」
男はクラフトワークと化け物の間からのっそりと退き、クラフトワークの後方へと向かう。クラフトワークから丁度一メートル離れた時であった。
「ああ、傷のことだが、決して治ったわけじゃない。これ以上広がらないような措置をしただけだ。僕から離れると広がる。ほら。」
黒帽子から一メートルほど後方に行くと突然弾の腹から血液が飛び散った。言わんこっちゃない、とクラフトワークは思った。
「ほらね。まあ、もうすぐ救急車が来る。だから、適当に言いつくろっておいてくれ。」
クラフトワークの見立てでは、弾は脇腹の肉を抉られただけのようだった。痛みはひどいだろうが、内臓まで傷付いてはいない。すぐに退院できるだろう。
「君は肝臓が好みなのかい?」
弾の肝臓のあるあたりを怪物は狙っていた。まるで人間のようだとクラフトワークは思った。文明社会へのアンチテーゼであろうか。その怪物はぐちゃぐちゃと奇妙な音を立てながら、クラフトワークから逃げようとしている。固定されている触覚と本体との間の機関から赤い血が噴き出す。触覚を引きちぎって逃げるようだった。
「動物と同じように血が流れているのか。君は何を訴えているのか――ということに僕は興味はない。」
クラフトワークはトランプのカードを取り出し、棚にものを置くような感覚で五枚カードを空中に置く。
「僕の能力に対する評価は色々と分かれていた。特に、このエネルギーを保存できる特性については評価が難しいようだった。うまくやれば核以上のエネルギーを内蔵できるかもしれない、とかね。だが、一律していたのは、僕は兵としての利用価値はないということだった。その評価は僕が生き殺しになることを暗示していたよ。道具に感情はいらない。思考能力もいらないからね。」
話しながらクラフトワークはトランプを指先でコツコツと叩いていた。
「そろそろか。」
クラフトワークは満足したように言った。そして、『固定』が解かれる。トランプは目にも止まらぬ速さで、じたばたしている怪物に向かっていった。ぶちゅ、ぶちゅ、ぶちゅ。奇妙な音を立てて怪物に刺さる。しばらくは痛みの悶えるように動いていたが、しばらくすると、動きは止まり、異臭を放ち、ぷしゅーという音を立て、汚い色の肉片へと変化していった。
「向こうもうまくいったようだ。化け物の急所は分からないから、一気に消し去るほかないけど、俺にはそんな能力はない。一本取られた、ということにしておこうか。」
クラフトワークはマントを翻し、再び空へと上っていった。
彼女はムーンチャイルド
川辺のダンシング
たった一人ぼっちで
柳のふもとで夢見てる
クラフトワークは力尽きて、今にも倒れそうになっているはなを見つけた。
「しーちゃんたち、どこに行ったんだろう。心配だなあ。」
「大丈夫。彼らは安全だ。」
クラフトワークは降りていってはなに告げる。
「ブギーポップ?」
はなはこの衣装に見覚えがあるのだろうか、とクラフトワークは疑る。だが、すぐにそんなはずはないと否定する。
「君は自分のいいところがなにか分かっていないね。」
「へ?」
「君は自分では気がつかないし、そのいいところは社会ではあまり評価されないものだ。でも、君の周りの人たちは君に救われている。君はあらゆる人々の世界を知らず知らずのうちに救っているんだ。」
正体を隠していないとこんな恥ずかしい言葉を告げることはできそうになかった。
「あ、それと。」
自分でも演技じみているのは分かっていたので、クラフトワークは少し恥ずかしくなった。
「将来について悩んでいるみたいだけど、あまり焦らなくてもいいんじゃないかなって思うよ。僕は。ゆっくりと自分のペースで歩んでいけばいい。」
「はな!」
はなが後ろを振り向いた隙に、クラフトワークは空へ登った。二人は何やら話しているが、もうクラフトワークには聞こえない。慶はクラフトワークに気がついたように空を見つめていた。空には落ちて来そうなほど大きな満月が上っていた。雲に覆われた不吉な夜は終わったのだった。クラフトワークは『ムーンチャイルド』を口ずさむ。月も悪くないものだと思った。




