第193話:氷
氷壁越しに聞こえるイアリスの風切り音が段々と遠のいていく。
ギリシア王はその心地よい音を聞きながら、輝く未来に想いを馳せていた。
今はまだ遠く、どれだけ走っても、どれだけ願っても、それでも尚辿り着けないかもしれないその場所に、ロードならいつか必ず辿り着くと……そう信じて。
その礎となるべく、彼は今この時に長い人生の全てを懸けると改めて誓う。
ここ数年、一切使わずに溜め込んだ魔力を枯れ果てたその身に巡らせ、己が命を生贄に全て出し尽くすと。
そうして一分一秒でも長く……彼らの未来を守る為に。
ギリシア王は、今間違いなく生きていた。
ヨルムンガンドもまた、黙ってその音に耳を傾ける。
やがてイアリスの羽音が雨音に消える頃、彼は静かに目を閉じ、ゆっくりと口を開く。
その表情に怒りはなく、むしろ嬉しそうに微笑んでいるようだった。
『……行ったか。喰らえなかったのは残念だが、奴らは必ず我の前に再び……今はそれでよい。さて、ギリシアの王よ。もう……よいな?』
そうして開かれたヨルムンガンドの瞳には、吹けば飛ぶような痩せ細った老王の姿が映る。
だが、やはりその見た目からは想像もつかない程の……強大な魔力を感じていた。
「ああ……未来への時は紡がれた。今この胸に去来する想いは、悲しみではなく喜びのみ。もはや憂いなく……この命、燃やし尽くせる……!」
その表情に迷いはなく、ギリシア王クリスティアノはニヤリと笑う。
そして、万感の思いを込めて魔力を練り上げた。
『フッ……我にも見える。貴様の魔法とは裏腹に、その心に灯った……凄まじい爆炎がな。皆、待たせて済まなかった。ギリシアの偉大な王よ……では……さらばだ』
瞬間、止まっていた時が動き出す。
ヴィーヴルとニーズヘッグはロード達を追う為に空へ、ミドガルズオルムとザッハークはギリシア王にその牙を剥いていた。
だが――――
「……時は今、我と共にあり」
『『『『ッ!?』』』』
刹那ギリシア王は巨大な氷柱に覆われ、彼を中心にして世界が変わっていく。
空気は凍える程に冷え、大地は瞬く間に氷によって埋め尽くされていった。
更にギリシア王を包む氷柱は天に向かって高く高く伸びていき、飛翔したヴィーヴルとニーズヘッグを一瞬で抜き去ると、その先端から枝分かれした無数の氷柱が蜘蛛の巣のように広がっていく。
あっという間に空を覆ったそれは、ギリシア王を中心とした氷のドームを形成し、5匹の竜を完全に閉じ込めた。
『ガァッ!』
息吹竜種の長であるニーズヘッグは、空を塞いだ氷の膜を突き破ろうと炎の息吹を瞬時に吐き出す。
強力な爆炎の火球は氷の膜を軽々と突き破り、曇天の空が再び顔を覗かせた。
『なッ!?』
だが、ニーズヘッグの口元が緩んだ刹那、見えていた空は再び閉ざされ、氷の膜は何事もなかったかのように元の姿へと戻ってしまう。
更にドームの天井から無数の氷刃が現れるのが見えた直後、2匹の竜を目掛けて刃の雨が降り注いだ。
『ぬぅッ!』
『おのれッ……死に損ないがッ!』
地上でもまた、ギリシア王の生み出す氷刃が猛威をふるう。
それは空からだけではなく氷に覆われた大地からも次々に現れ、ザッハークとミドガルズオルムは容易に近付くことさえ許されない。
業を煮やしたミドガルズオルムは10の口を膨らませると、触れたもの全てを溶かし殺す猛毒の酸を一気に吐き出す。
しかし、ギリシア王を包む氷柱に触れた瞬間、それは色と動きを失って氷のオブジェへと姿を変えた。
『ちぃッ!』
『ならば……砕くのみよッ!』
巨腕竜種の長ザッハークは、その巨大な両腕の拳を合わせると、突き出た氷刃を砕きながら前へ前へと突き進む。
大地を覆う氷ごと全てを薙ぎ払い、ついにギリシア王を包む氷柱の前まで辿り着くと、まるで槍を投げるような構えからその拳を叩き込んだ。
瞬間、轟音とともに氷柱を貫いた拳がギリシア王に迫るも、当たる直前、彼は氷柱の中を移動して拳の届かぬ場所へと上昇していく。
『このッ……ぐッ!?』
拳を引き抜こうとしたザッハークであったが、その自慢の巨腕は氷柱に囚われ、その身体すらも氷に覆われていく。
『カァッ!』
瞬時に口から炎の息吹を吐き出して難を逃れたものの、ギリシア王は既に遠く、もはや自慢の巨腕は届かない。
『おのれッ……叩き潰……!』
『……さすがは"氷王クリスティアノ"といったところか。嵐を利用した我らが逆に……いやはや』
ギリシア王の使う"氷結魔法"は、何もない場所からでも氷を生み出すことが出来るが、水気がない場合はまずそれを生み出すことから始めなければならない。
しかし、この嵐の中なら話は違う。
周りにいくらでも氷の素となる水がある以上、ギリシア王は凍らすだけでよく、いくら壊されようが振り続ける雨によって瞬時に修復が可能だった。
更に、死を決意したギリシア王は全ての行動に全身全霊を込めている。
死に損ないと見下し、全力を出そうともしなかった4匹が手こずるのは当然の結果であった。
『それにしても……なんとも情けない限りだ』
再び発せられた竜王の言葉に、4匹の動きがぴたりと止まる。
ギリシア王の予想通りヨルムンガンドは動かずにいたのだが、4匹のあまりの不甲斐なさについ口を出したのだった。
彼らは途端に震え出す。
背後から感じる……その恐ろしい魔力に。
ギリシア王もまたその動きを止め、少し思案した後、ヨルムンガンドに向けて口を開いた。
「……竜王よ。1つ……聞いてもよいか?」
『よかろう……申してみよ』
「貴公……いったいどこまで知っている?」
ギリシア王の問い掛けに、ヨルムンガンドは僅かに口元を緩ませた。
『……質問の意図が分からぬな。我が貴様の異名を知っているのがそんなに不思議か?』
「……余の死期が近付いていたことは当然貴公らにとって重要な情報だろう。だが、余の異名など……もはやギリシアの民ですら知る者の方が少ない」
『だからなんだ? ヴァルハラの情報を仕入れることなど……』
「無理だ……竜族だけでは」
ヨルムンガンドの言葉を遮り、ギリシア王はそう言い切った。
「そもそもギリシアの結界を破ったこと、またその方法……どちらも竜族に解き明かすことなど出来はしない。信じたくはないが……やはり貴公らに……」
『今更それを問うてどうする? ああ、時間稼ぎにはなる……といったところか。まぁ、よかろう。仮にそれがそうだとしても、起きたことに変わりはない。全てはなるべくしてこうなっているのだ。過程など……瑣末なことよ』
確かにヨルムンガンドの言う通り、ギリシア王がそれを知ったところで意味などないし、起きてしまった結果は変えられない。
だが、時間稼ぎなどとは関係なく、ギリシア王はどうしても聞かずにはいられなかった。
既に魔族はロードの手によって衰退しており、そもそも竜族と魔族が手を組むことなどあり得ない。
つまり、竜族に情報を流していたのは……人間しか考えられなかったから。
『貴様の考えていることは分かる。だがなギリシアの王よ。全てが全てそうではないことなど……分かりきっておるであろう?』
「……ああ、分かっている。だがな竜の王よ。それでも……それでも尚悲しみを抱くのが人間なのだ」
『怒りではなく悲しみか……やはり人間とは不思議な生き物よ。だが、今の我なら分かる。それでも貴様の意思は……』
「……ああ、変わらぬ。彼ならきっと全てを超えていく。余は……そう信じておるッ!」
咆哮と同時、ギリシア王の攻撃が一気に激しさを増す。
しかし、4匹はそれを軽々と躱し、潰し、ねじ伏せていた。
「……ッ!」
『クックックッ……手出しは?』
『『『『いりませぬッッ!!』』』』
ギリシア王の額から溢れる汗が、氷の結晶となって落ちていく。
もはや残された時はあと僅か。
だが、それでもギリシア王は抗い続ける。
託した想いが……未来に届くように。




