手紙
日が高くなり始めた頃ようやく起き出した私は、
生まれ変わったような爽快な気分だった。
これ程ゆっくり寝たのはいつ以来だろうか。
何もかもが細かく決められた時間通りの生活習慣からは簡単には抜け出せず、
いつまでも浅い眠りを繰り返していたのだ、
ただ眠るだけの事がどれほど難しことだったのだろうか。
遅めの朝食を終え、いつものように部屋を出るが
もう、海を眺めることはなかった。
あれほど目を離す事の出来なかった、海も、波も、潮風も、
眺めるまでもなくただそこにあるものに変わっていた。
私はゆっくりとこの小さな町を歩き始めていた。
そう、ゆっくりと歩く。
見るべきものなど何もなく古い民家が並ぶなか時折空き家が混じり、
潮風で錆びた道路標識が乾いた音をたてていただけであったが、
その散策に私の心は満たされるようであった。
夕日に照らされ始める町をゆっくり歩きながら、
ここで暮らすのも悪くない、そう思ってる自分に気づき、
軽く冷笑して部屋に戻ってきた。
いつの間に自分の帰る場所になっていたのだろう。
その部屋には小雪はおらず代わりに一通の短い置手紙があった。
『街に行ってきます』
まるで買い物にでも行くような気軽さで書かれたように思えるも、
それがもたらした衝撃は受け止めきれぬほど私を動揺させた。
何故、小雪が街に、
何故、あの街に、
あの街をどんな思いで眺めていたのだろう、
私の話をどんな思いで聞いていたのであろうか、
私にはわからなかった、
思いもよらぬことであったが、
彼女もまた海を見ていたことを思い出した。
この小さな町で何かを待っていたのであろうか、
彼女もまた変わる事のない海を漂う流木が、
繰り返される営みから解放される日を望んでいたのだろうか。
私に安らぎをもたらしたこの小さな町は、
彼女を捕らえる牢獄でしかなかったのだろうか、
ただ、繰り返される毎日の中で、
ゆっくりと錆付いて行く、標識の様に、
その潮風に身をさらしてきたのであろうか。
彼女はあの街でどんな夢を見るのであろう。
華やかな夜の街で、
慌ただしく揺れ動く人の流れの中で、
ゆっくり腐りゆくあの街で。
あの街に一体何があるというのだ。
歩きつ続ける腐りゆく死体の群れか、
それを食らう怪物たちか、
その話に耳を傾ける事で彼女の中に積み重なっていったものは、
強く吹き始めた潮風に、
部屋の隅がギシギシと鳴り始めた。
軋むたびにヒビが入り、せき止めていた何かが流れ出してくる。
皮膚の下から膿が滲み出て来るかのように、
それは、ゆっくりと確実に押しとどめることなく
私の中から染み出し始めていた。
流れ出たそれは、地面に染みを残して消え去るのか、
海に流れ込み、同じ動きの一部となるのか、
やがて流れつくし枯れ果ててしまうのだろうか。
ただ繰り返される日々の中で、ゆっくりと朽ちて行く町、
そこに私の居場所はなかった。




